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古都京都の文化財

2021年3月17日

概要

文化遺産
資産名:
古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)
Historic Monuments of Ancient Kyoto (Kyoto, Uji and Otsu Cities)
国名:日本
登録年:1994年
登録基準:(ii) (iv)
概要:
京都は794年の平安遷都から約1,000年にわたり日本の都として栄え、貴族、武士、王朝が築いた数多くの伝統的な文化財を残してきました。平等院などには平安時代の貴族文化、高山寺などには鎌倉時代の武家文化、慈照寺(銀閣)などには、公家文化と武家文化の融合した「わび」「さび」などの室町文化が、本願寺などには華麗な桃山文化がそれぞれみられます。世界遺産には、このなかから16社寺と1城が登録されています。

地図

スライドショー

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世界遺産登録の経緯

京都府京都市・宇治市、滋賀県大津市の2県3市に点在する構成資産17件から成るユネスコの世界遺産リスト登録物件(文化遺産)である。1994年に日本で5件目の世界遺産として登録された。現在の構成遺産は、国宝建造物(★)があるか、庭園が特別名勝(◎)に指定されているもの(16社寺、1城)だけで構成されている。

  • 賀茂別雷神社(上賀茂神社)(★)
  • 賀茂御祖神社(下鴨神社)(★)
  • 教王護国寺(東寺)(★)
  • 清水寺(★) 現在は分離している地主神社を含む。
  • 延暦寺(★) 広範囲に及ぶ境内地(比叡山)の全てを含む。
  • 醍醐寺(★) 院家(塔頭)寺院の三宝院(★・◎)を含む。
  • 仁和寺(別称・御室御所)(★)
  • 平等院(京都府宇治市にある。)(★)
  • 宇治上神社(京都府宇治市にある。)(★)
  • 高山寺(★)
  • 西芳寺(別称・苔寺)(◎)
  • 天龍寺 (◎)
  • 鹿苑寺(相国寺塔頭、別称・金閣寺)(◎)
  • 慈照寺(相国寺塔頭、別称・銀閣寺)(★・◎)
  • 龍安寺(妙心寺塔頭、石庭が世界的に有名。)(◎)
  • 西本願寺(本願寺)(★・◎)
  • 二条城(元離宮二条城)(★・◎)

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、(ii)と(iv)の条件を満たし、登録された。

(ii) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

具体的には、次の点が高く評価された。

登録基準 (ii)

(ii) 京都は8世紀から17世紀の間、宗教・非宗教建築と庭園設計の進化にとって主要中心地であった。そのように、京都は日本の文化的伝統の創出において決定的な役割を果たし、特に庭園の場合において、それは19世紀以降、モデルとして世界の他の地域において意義深い影響を与えた。12世紀までの神社や寺院に多く見られる「和様」や、16世紀末から17世紀初頭に用いられた装飾の多い「桃山様式」などの日本を代表する建築様式の多くは、京都で洗練され日本各地に伝えられた。

登録基準 (iv)

(iv) 京都の現存文化財における建築と庭園設計の集積は前近代における日本の物質文化のこの側面に関する最高の表現である。それぞれの建築や庭園、周囲の自然環境が融合した景観は、日本独自の精神性や文化を示している。

(Wikipedia)

歴史

京都は、恒武天皇が794年に平安京を開いて以来の歴史をもつ。貴族文化の中心地として国風文化が花開いた。平安京造営当初を伝える資産には、国家鎮護の宗教施設である「賀茂別雷神社かもわけいかづちじんじゃ」や「賀茂御祖神社かもみおやじんじゃ」、後に国家鎮護の道場として繁栄した「延暦寺」などがある。

平安時代末期になると、貴族政治が衰退し、武士が台頭したことなどにより、社会が混乱した上に、末法思想なども重なって、阿弥陀仏の救いによって極楽浄土への導きを願うようになった。その時代を伝えるのが、浄土思想が文化的に完成した「平等院」や、その鎮守社の「宇治上神社」である。

1185年の内乱を経て、鎌倉に政権が誕生した後も、京都には朝廷貴族の権威が維持されており、公家文化や武家文化、仏教文化が影響し合っていた。その時代を代表するのが、鎌倉時代の住宅的な建築様式を伝える「高山寺」である。

1338年に室町幕府が成立し、京都に政権の中心が戻ると、足利義満の山荘(鹿苑寺=金閣寺)に象徴される、武家の権威を示しつつ憧れの公家文化を取り入れ、そこに禅宗を通した中国文化を融合させた北山文化が栄えた。15世紀中頃には、その融合をさらに深化・洗練させた足利義政の山荘(慈照寺=銀閣寺)に象徴される東山文化が栄えた。

応仁の乱以降続いた戦乱の世を経て、織田信長に続く豊臣秀吉の天下統一により、都市では桃山文化と呼ばれる豪壮華麗な文化が花開いた。この時代を象徴するのが、秀吉自ら設計した「醍醐寺」の三宝院の殿堂や庭園、豪華な書院建築の「本願寺」、二の丸御殿の残る「二条城」である。江戸時代には「清水寺」や「仁和寺」などが伝統的な建築様式を用いて再建された。
(『世界遺産大事典』より)

「古都京都の文化財」の主な構成資産

加茂別雷神社かもわけいかづちじんじゃ(上賀茂神社)

京都最古の歴史を有する一社であり、かつてこの地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社として、京都という都市の形成に深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。加茂別雷命を祭神とし、7世紀末創建。背後の「神山」も資産に含む

賀茂別雷神社 (Flickr)

加茂御祖神社(下鴨神社)

賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、左に玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。金鵄および八咫烏は賀茂建角身命の化身である。境内にただすの森(遺産に含む)、御手洗川、みたらし池がある。神社は2つの川の合流点から一直線に伸びた参道と、その正面に神殿、という直線的な配置になっている。御手洗社の水は葵祭の斎王代清めの聖水である。

賀茂御祖神社 (Flickr)

清水寺

清水寺は法相宗(南都六宗の1つ)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地として有名であり、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。

宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒の為、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、自身が建立した清水寺に平定参拝をしたという。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(御賢心改め)と協力して本堂(懸造かけづくり)を大規模に改築し、観音像の脇侍として毘沙門天と地蔵菩薩の像を造り、共に祀ったという。

清水寺 (Flickr)

延暦寺

延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にある、標高848mの比叡山全域を境内とする天台宗の総本山の寺院。正式には比叡山延暦寺と号する。比叡山、または叡山とも呼ばれる。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺と称された。788年、平安時代初期の僧・最澄により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。

最澄の開創以来、高野山金剛峯寺と並んで平安仏教の中心寺院であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。

延暦寺 (Flickr)

平等院

宗派は17世紀以来天台宗浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属しておらず、塔頭である本山修験宗聖護院末寺の最勝院と浄土宗の浄土院が年交代制で共同管理している。鳳凰堂(国宝)で世界に広く知られている。平安時代後期にあたる11世紀以来保持されてきた数々の建造物を中心とする寺宝と文化財は、往時の思想・文化を今に伝える。平等院と周辺地域は琵琶湖国定公園指定区域の一つである「宇治川沿岸地区」の中核をなす。1053年に藤原頼道阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立

京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる嵯峨源氏の左大臣源融が営んだ別荘だったものが陽成天皇、次いで宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが宇多天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。

平等院 (Flickr)

鹿苑寺(通称:金閣寺)

建物の内外に金箔が貼られた舎利殿から、金閣寺として知られている。山号は北山。正式には、北山鹿苑禅寺と号する。寺名は開基(創設者)である室町幕府第3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。寺紋は五七桐。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿(金閣)は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。

金閣寺 (Flickr)

慈照寺(通称:銀閣寺)

慈照寺は、京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。相国寺の境外塔頭である。足利義政の死後、禅寺となった。観音殿(銀閣)から銀閣寺として知られている。正式には、東山慈照禅寺と号する。山号は東山。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされているが、夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、勧請開山である。「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。慈照寺庭園は1615年の改築で盛り砂の銀沙灘ぎんしゃだん向月台こうげつだいが加えられた。

銀閣寺 (Flickr)

向月台 (Flickr)

龍安寺

龍安寺は、京都市右京区龍安寺御陵下町にある臨済宗妙心寺派の寺院。妙心寺の境外塔頭である。本尊は釈迦如来、開基(創建者)は細川勝元、1450年に貴族の別邸を禅寺として創建。白砂に15の石組を配した石庭は枯山水の代表作

方丈庭園(国の史跡及び特別名勝) - いわゆる「龍安寺の石庭」である。白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水庭園の特徴を有する。幅25メートル、奥行10メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。これらの石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。寺伝では、室町末期(1500年頃)特芳禅傑らの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられるが、作庭者、作庭時期、意図ともに諸説あって定かではない。

龍安寺の石庭 (Flickr)

二条城

二条城は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代に造営された日本の城。正式名称は元離宮二条城。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏によるものがあるが、現存する城は徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された後、1939年(昭和14年)京都市に恩賜され現在に至る。徳川家康1603年に造営。二の丸庭園は池泉回遊式で、茶人である小堀遠州の作とされる。

(Wikipediaより)

二条城 (Flickr)

二の丸庭園 (Flickr)

関連動画へのリンク

【古都京都の文化財】全物件を解説!(前編:縄文・弥生~奈良時代編)

【古都京都の文化財】全物件を解説!(中編:平安時代編)

【古都京都の文化財】全物件を解説!(後編:室町~江戸時代編)

世界遺産クイズ

世界遺産検定クイズ

UNESCO公式HP(英語版)へのリンク

https://whc.unesco.org/en/list/688

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