オーストリア 世界遺産100選

ザルツブルク市街の歴史地区

2021年3月19日

文化遺産
資産名:
ザルツブルク市街の歴史地区
Historic Centre of the City of Salzburg
登録年:1996年
登録基準:(ii) (iv) (vi)
概要:
ザルツブルクはオーストリア中部の山間部にある都市です。ザルツは「塩」ブルクは「砦」を意味し、紀元前から岩塩の採掘と交易で栄えました。ザルツァッハ川の西側の旧市街と東側の新市街に分かれ、新市街には1606年に建てられたミラベル宮殿と庭園、1898年建造の聖アンドレ寺院、モーツァルテウムなどがあります。旧市街にはモーツァルトの生家大司教の住居(レジデンツ)などがあります。南の高台にはホーエンザルツブルク城が聳えています。

地図

スライドショー

shutterstock_557948761
shutterstock_752159788
shutterstock_305553608
shutterstock_19160161
shutterstock_309226133
shutterstock_19281646
previous arrow
next arrow
Shadow

主な構成資産

ホーエンザルツブルク城

ホーエンザルツブルク城 (Flickr)

ホーエンザルツブルク城 (Festung Hohensalzburg) は、1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の間に起こった叙任権闘争のさなか、教皇派の大司教ゲプハルトが皇帝派の南ドイツ諸侯に対抗すべく建築した防衛施設で、旧市の南端、メンヒスブルク山の山頂に立地する。ホーエンザルツブルク城は、町のほとんどどこからでも見ることができ、1.3キロメートルにわたって続く高さ約50メートルの高地をなしている。一番高い場所(ホーアー・シュトゥック)の標高は508メートルである。

ザルツブルク大聖堂

今日のザルツブルク大聖堂は、1628年にバロック様式によって建て直されたものである。ザルツブルクの歴史において最も華麗な祝典は、1628年の大聖堂の献堂式であったが、それは三十年戦争のさなかの出来事であった。イタリア出身のヴィンチェンツォ・スカモッツィ(1548年-1616年)の設計案が廃案となり、同じくイタリア出身のサンティーノ・ソラーリオ(1576年-1646年)によって設計された大聖堂は、ドームの乗る大理石の双塔をもち、ペディメントをはさんで構成されたファサードを特徴とする。

ザルツブルク大聖堂 (Flickr)

ミラベル宮殿

1606年、大司教ヴォルフ・ディートリヒが愛人ザロメ・アルトのために建てたとされるのがミラベル宮殿 (Schloss Mirabell) である。ヨハン・カスパール・ツッカリの設計による。1818年に火災があり、そのあと修復され、現在はザルツブルク市長公邸として用いられている。2階には壮麗な「マルモーア・ザール(大理石の間)」があり、モーツァルト親子もここで演奏をおこなっている。2階にのぼる階段は「天使の階段」と呼ばれ、1723年にラファエル・ドナーによって造られたものである。

ミラベル宮殿には、1690年にフィッシャー・フォン・エルラッハによって設計された美しいミラベル庭園(Mirabellgarten) が付設されている。庭園には、ギリシア神話の神々の彫刻がならび、「ペガサスの噴水」のまわりは、映画『サウンド・オブ・ミュージック』でジュリー・アンドリュース演じるマリア先生が子どもたちと一緒に「ドレミの歌」を歌い、踊ったところである。

映画『サウンド・オブ・ミュージック』の一場面(ザルツブルク市内)

ミラベル宮殿 (Flickr)

映画『サウンド・オブ・ミュージック』の一場面

モーツアルトの生家

1756年1月27日にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが誕生したといわれる家 (Mozarts Geburtshaus) は、ゲトライデ通り9番地に所在する黄色い建物の4階にあり、現在はモーツァルト記念館として残されている。1769年、ときの大司教ジークムント・フォン・シュラッテンバッハ (Sigismund von Schrattenbach) は、13歳のモーツァルトを宮廷楽団のコンサートマスターに任命している。ここには愛用のピアノやヴァイオリンなどの楽器、自筆の楽譜のほか、父レオポルト、母アンナ、姉ナンネルをはじめとするモーツァルト一家の肖像画などが展示されている。

モーツアルトの生家 (Flickr)

Salzburg: Mozart's Birthplace and House [Romanza from Piano Concerto No. 21 in C major, K.467]

レジデンツ広場

レジデンツ広場 (Residenzplatz) は、ツェントルムと呼ばれる旧市街の中心に位置し、中央には「アトラス神の噴水」がある。広場西側にはその名称の由来となったレジデンツ(宮殿)が建っている。現在の宮殿は1619年に完成したもので、歴代の大司教が居住して政治をおこなった場所であり、すべての部屋の天井にはアレクサンドロス大王の絵が描かれている。「神童」と呼ばれた天才モーツァルトが5歳で音楽会をひらき、また、はじめて自作のオペラを上演したところでもあり、モーツァルトの主人であったヒエロニムス・フォン・コロレド(Hieronymus von Colloredo, 1772年-1803年)はザルツブルク最後の大司教となった人物である。

レジデンツ広場 (Flickr)

中世の小路と街並み(ゲトライデガッセ)

旧市街中心部のゲトライデ通りには商店、同業者組合、業者などの装飾的な鉄細工の看板がたくさん並んでおり、現在では、ユーデン通りとならび、ザルツブルク旧市街で最も繁華な小路となっている。ユーデン通りは、その名のとおり、かつてユダヤ人の居住したゲットーのあった小路である。

ゲトライデ通り (Flickr)

ザルツブルク祝祭大劇場

ザルツブルク祝祭大劇場 (Flickr)

ザルツブルク音楽祭、ザルツブルク復活祭音楽祭などの主会場としてオペラ、コンサートの両方に使用される。祝祭大劇場はクレメンス・ホルツマイスターの設計により1960年に完成した。ザルツブルクの旧市街で大劇場を建築するための土地探しは難航したが、結局メンヒスベルクの岩盤を55,000m3 もくり抜いて建築された。ステージの大きさは世界最大級で、最大横32m、高さ9mであり、舞台裏には横100m、奥行き25mの広大なスペースが確保されている。ザルツブルク生まれの偉大な指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンはここ祝祭大劇場で数々の演奏を指揮した。その功績を記念して祝祭大劇場の西側の広場を『ヘルベルト・フォン・カラヤン広場』と命名した。

ザルツブルク音楽祭

モーツァルトが誕生したザルツブルクでは、1842年にモーツァルト音楽祭が、1856年にモーツァルト生誕100年記念音楽祭が開かれていた。この流れを受けて、1877年にウィーンフィルがウィーン以外ではじめての公演をおこなう。1887年に指揮者のハンス・リヒターが参加してザルツブルク音楽祭(Salzburger Musikfest)が始まった。ウィーン・フィルも招いたこの音楽祭は第一次世界大戦などで中断している。現在の音楽祭は、この流れを汲んでいるとされる。

戦前の音楽祭で中心だったフルトヴェングラーなどの面々は非ナチ化裁判やアメリカへの亡命の影響などもあって1947年まで出演できず、エルネスト・アンセルメやフェレンツ・フリッチャイ、ジョージ・セル、カール・シューリヒトなどの新顔が出演するようになった。フルトヴェングラーは復帰すると亡くなる1954年まで、「フィデリオ」、「オテロ」、「フィガロの結婚」、「魔弾の射手」、「魔笛」、「ドン・ジョヴァンニ」の各歌劇やいくつかのコンサートを指揮し大活躍した。

1956年、ヘルベルト・フォン・カラヤンが音楽祭芸術監督に就任した(1960年まで)。カラヤンは音楽祭の諸改革や新機軸を次々と打ち出し、1957年からはウィーン・フィル以外のオーケストラも呼ぶことになり、その手始めとして彼の手兵のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が音楽祭に初出演した。また、祝祭大劇場の建築を主導し1960年に完成、カラヤン指揮の「ばらの騎士」で杮落としが行われた。カラヤン以外にも、戦前から出演していたベームを初めヨーゼフ・カイルベルト、イシュトヴァン・ケルテス、ズービン・メータ、ロリン・マゼール、クラウディオ・アバド、ジェームズ・レヴァイン、小澤征爾ら時代を代表する顔ぶれでその地位を揺るぎないものとした。

Karajan at the Salzburg Festival 1963 (Documentary | English Subtitles)

Mozart - Don Giovanni dramma giocoso K. 527
(Herbert von Karajan, Salzburg Festival, 1987)

世界遺産クイズ

世界遺産検定クイズ

関連動画へのリンク

Salzburg City Guide

Rick Steves' Europe

UNESCO公式HP(英語版)へのリンク

https://whc.unesco.org/en/list/784

-オーストリア, 世界遺産100選
-, ,