フランス 世界遺産100選 検定3級

アヴィニョンの歴史地区

2021年11月11日

文化遺産
遺産名:
アヴィニョンの歴史地区:教皇庁宮殿、司教の建造物群、アヴィニョンの橋
Historic Centre of Avignon: Papal Palace, Episcopal Ensemble and Avignon Bridge
国名:フランス
登録年:1995年
登録基準:(i)(ii)(iv)
概要:
南フランスの都市アヴィニョンの景観のうち、教皇宮殿とその周辺、すなわちプチ・パレ(小宮殿)、ノートルダム・デ・ドン大聖堂、サン・ベネゼ橋(アヴィニョン橋)、一部の城壁などを対象とする。

アヴィニョンはいわゆる教皇のアヴィニョン捕囚時代(1309年 - 1377年)には教皇の座所として機能した。現存する宮殿は、元々アヴィニョン司教の宮城があったローヌ川を望むアヴィニョン北縁に建造されたものである。1335年から1364年までの約30年に及んだ建築は、趣の異なる二つの区画に分かれる。いわゆる旧宮殿(パレ・ヴィュー)と新宮殿(パレ・ヌフ)である。両区画の完成時の面積は11000km2という広大なもので、当時の教皇の収入の多くの部分がつぎ込まれた。(Wikipediaより)

世界遺産クイズ

アヴィニョンの歴史地区について、正しいものはどれか

地図

おもな構成資産

教皇庁宮殿(Papal Palace)

教皇宮殿は、かつてアヴィニョンに教皇庁がおかれていた時に建造された宮殿である。フランス革命期の略奪によって内装は寂しいものとなってしまったが、現存するヨーロッパの中世ゴシック様式建築物の中では最大級を誇る重要なものである。

アヴィニョンはいわゆる教皇のアヴィニョン捕囚時代(1309年 - 1377年)には教皇の座所として機能した。現存する宮殿は、元々アヴィニョン司教の宮城があったローヌ川を望むアヴィニョン北縁に建造されたものである。1335年から1364年までの約30年に及んだ建築は、趣の異なる二つの区画に分かれる。いわゆる旧宮殿(パレ・ヴィュー)と新宮殿(パレ・ヌフ)である。両区画の完成時の面積は11000km2という広大なもので、当時の教皇の収入の多くの部分がつぎ込まれた。

旧宮殿は、教皇ベネディクトゥス12世の命で、ミルポワのピエール・ポワソンが手がけた。厳格なベネディクトゥスは司教宮を取り壊し、回廊や重厚な防壁を備えたより大きな宮殿を造らせた。この宮殿は四つの翼棟を持ち、それぞれから高い塔が伸びている。

クレメンス6世、インノケンティウス6世、ウルバヌス5世の時代に、現在新宮殿として知られる部分の増築が行われた。これはクレメンス6世の命でジャン・ド・ルーヴルが手がけた。そこには教皇の礼拝に使われた長さ52メートル(高さ20メートル)の大礼拝室なども含まれる。その後、インノケンティウス6世とウルバヌス5世のときに二つの塔が作られた。旧宮殿だけの時には開かれていた前庭は、増築された新宮殿が取り囲むような形になったために、事実上の中庭になった。クレメンス6世は華美を好んだため、イタリアからシモーネ・マルティーニやマッテオ・ジョヴァネッティを招いて、内装を豪奢に飾らせた。このため、旧宮殿の飾りのなさとは対照的に、新宮殿はフレスコ画、タペストリー、絵画、彫刻などで華やかに彩られた

1377年に教皇庁は再びローマに戻ったが、続く教会大分裂期には対立教皇であるクレメンス7世とベネディクトゥス13世が、この教皇宮殿を1408年まで座所とした(ただし、ベネディクトゥス13世は1398年からおよそ10年間、宮殿内に幽閉状態だった)。その後、少しの間、宮殿は対立教皇の手にあったが、1433年にローマ教皇庁の財産となった。

宮殿はその後もおよそ350年にわたり、周辺のアヴィニョン市やヴナスク伯領とともに教皇庁の管理下にあった。その間、1516年の修復などもあったものの、徐々に劣化していった。フランス革命が起こった1789年には、この宮殿は既に酷い状態になっており、革命派の破壊や略奪が拍車をかけた。その後一部は獄舎に転用されていたが、1791年には投獄されていた反革命派が虐殺され、その死体が旧宮殿のラトリヌ塔に投棄されるという事件も起こった。ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の治世下でも引き続き獄舎と兵営として用いられていた。最終的に兵営が撤去されたのは1906年のことであり、それまでの間、なおも破壊や略奪にさらされた。

現在は国営のミュージアムとして修復が行われており、大部分は一般公開されている。ただし、長い年月の破壊と略奪の結果、最盛期の様子を伝える当時の調度品などはほとんどが散逸してしまっている。

なお1947年以降は、毎年開催されているアヴィニョン演劇祭のメイン会場となっている。

教皇庁 , Flickr

ノートルダム・デ・ドン大聖堂

ノートルダム・デ・ドン大聖堂は、ロシェ・デ・ドンと教皇宮殿の間に位置する大聖堂。12世紀半ばに建造されたロマネスク様式の教会堂だが、何度となく改修されている。現在、ひときわ高い西側の鐘楼の頂上で黄金に輝く聖母像は、1859年に据え付けられたものである。内部の礼拝室には、ゴシック様式で造られた教皇ヨハネス22世の墓がある。

ノートルダム・デ・ドン大聖堂 , Flickr

サン・ベネゼ橋(アヴィニョンの橋)Le Pont Saint Benezet

サン・ベネゼ橋は12世紀にかけられた橋で、世界遺産登録名にも顕れているように「アヴィニョン橋」の名でも親しまれている。元は対岸のヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンまで伸びる22のアーチを持つ橋であったが、現存するのは4つのアーチのみである。

歩行者と騎馬通行者のために作られたものなので、歌にあるように、みんなで輪になって踊ることは狭くて出来なかったはずである。実際に歌ったり踊ったりしていた場所は橋の下の島であった。

サン・ベネゼ橋 , Shutterstock

「アヴィニョンの橋の上で」は、サン・ベネゼ橋の完成を祝ったものとされているが、現在は洪水などによって橋の大部分が流失、橋を渡り切ることは不可能である。また橋の幅が狭いため橋の上で輪になって踊るのも不可能で、実際には川岸で歌われていた。15世紀頃に作曲されたとされるが、詳細は不明。1501年に出版された楽譜『オデガドン』に収録されている。

フランス語 Sur le Pont d'Avignon
L'on y danse, l'on y danse
Sur le Pont d'Avignon
L'on y danse tous en rond
英語 On the bridge of Avignon
We all dance there, we all dance there
On the bridge of Avignon
We all dance there in a ring
日本語 アヴィニョンの橋の上で
踊るよ、踊るよ
アヴィニョンの橋の上で
輪になって踊るよ

石井好子による日本語詞で、1959年11月に発売された石井とダークダックスの共演による2枚組EP『石井好子とダーク・ダックスによる「フランス子供の歌」』(キングレコード AEA-23〜24)に「アヴィニヨンの橋で」の邦題で収録された。編曲はダークダックスと寺島尚彦。

(Wikipediaより)

関連動画へのリンク

アヴィニョンの橋の上で(日本語:歌詞付き)

フランス、アヴィニョン:中世の城壁の若々しい街 (Rick Steves)

TOP 10 Things to do in Avignon

アヴィニオンのハイキング・ルート

UNESCO公式HP(英語版)へのリンク

https://whc.unesco.org/en/list/228

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