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ウィーンの歴史地区

2021年5月21日

文化遺産
遺産名:
ウィーンの歴史地区
Historic Centre of Vienna
国名:オーストリア
登録年:2001年、2017年危機遺産に登録
登録基準:(ii)(iv)(vi)
概要:
オーストリアの首都ウィーンは、古代ローマ時代からの歴史を持ち、ハプスブルク家の王都として発展した。旧市街には様々な時代に立てられた様々な建築様式の建造物群が現存する。代表的な建造物としては、12世紀建造の聖シュテファン大聖堂、18世紀建造のヴェルヴェデーレ宮殿、13世紀建造のホーフブルク宮殿、19世紀建造のウィーン国立歌劇場などがある。19世紀半ば、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世は、旧市街を囲んでいた城壁を撤去し、「リンクシュトラーセ」と呼ばれる環状道路を建設し、近代都市への大改造を行った。

危機遺産の登録(2017年)

ウィーン歴史地区は「音楽の都」として創造都市を目指す中でユネスコとの共同歩調で始められたものであった。2005年、最新のコンサートホールを造るだけの予定で歴史地区と現代都市の融合を目指す「ウィーン覚書」を作成し、景観史観に配慮していたが、市議会与党の社会民主党と緑の党がホール上部にホテル・マンション・会議場・フィットネス施設などを併設する高層建築物に計画を変更した。これにより景観を損ねる懸念から、2017年の第41回世界遺産委員会で危機遺産リストに登録された。

地図

ウィーンのハイキング・ルート

スライドショー

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Photo by Yann Quillevere, Fe Jo, Radek Oliwa, Peter Kolber from Flickr

主な構成資産

聖シュテファン大聖堂

シュテファン大聖堂は、オーストリアの首都ウィーンにあるゴシック様式の大聖堂。ウィーン大司教区の司教座聖堂である。シュテファン寺院とも呼ばれる。ウィーンのシンボルで、その観光名所のひとつである。この聖堂を含むリング (Ring) と呼ばれるウィーン歴史地区は2001年にユネスコの世界遺産に登録された。ハプスブルク家の歴代君主の墓所であるほか、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとコンスタンツェ・ウェーバーの結婚式が行われ、また葬儀が行われた聖堂としても知られている。オーストリア公ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は、1359年に65年がかりで南塔が完成。136.7メートルの高さをもち、教会の塔としてはウルム大聖堂(161メートル)ケルン大聖堂(157メートル)についで世界で3番目の高さがある。

ヴェルヴェデーレ宮殿

ベルヴェデーレ宮殿とは、オーストリアのウィーンにあるバロック建築の宮殿。Belvedereは美しい眺めの意味。もともとハプスブルク家に仕えたプリンツ・オイゲンが、当時の代表的な建築家であるヨーハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント(Johann Lukas von Hildebrandt)に、夏の離宮として造らせたものである。1714から1716年にかけて下宮(Unteres Belvedere)、1720から1723年にかけて迎賓館である上宮(Oberes Belvedere)が建設された。プリンツ・オイゲンの死後1752年に、ハプスブルク家のマリア・テレジアに売却された。ナポレオン失脚後のウィーン会議の際には華やかな饗宴の場となった。第2次世界大戦後の1955年には、連合国との間でオーストリア国家条約が調印された。現在は美術館になっている。上宮にはグスタフ・クリムトなど19世紀から20世紀にかけkての芸術作品が、下宮にはバロック美術や中世の作品が収蔵されている。

クリムト「接吻」ヴェルヴェデーレ宮殿収蔵(Flickr)

ホーフブルク宮殿

ホーフブルク宮殿は、オーストリアのウィーン中央にある元皇宮宮殿。現在この中にはオーストリアの連邦大統領の公邸や、欧州安全保障協力機構 (OSCE)の常設会議場オーストリア国立図書館シシィ博物館、イベントスペース等が置かれている。640年にわたりハプスブルク家の政治中枢であり居城であった宮殿で、ホーフブルク王宮とも呼ばれる。シェーンブルン宮殿が夏の離宮で、こちらは冬の主皇宮として使用された。

ウィーン国立歌劇場

ウィーン国立歌劇場 (Flickr)

ウィーン国立歌劇場は、オーストリアのウィーンにある歌劇場。1920年まではウィーン帝立・王立宮廷歌劇場と呼ばれていた。レパートリーシステム[1]フランス語の「レペルトワール」Répertoireを使うのが普通。ミラノ・スカラ座などは一つの演目を1〜2週間繰り返すやり方をしていて「スタジオーネ・システム」と呼ばれるが、こちらは演目が3〜4日ごとに変る。これはオペラが貴族の独占的な楽しみであった時代と違い、新興ブルジョワジーが観劇するようになって増大した需要に応えるためだったというをとる。ウィーンはドイツから北イタリアを支配していたハプスブルク君主国の首都であったため、ドイツ・オペラのみならずイタリア・オペラにとっても中心的存在であった。その帝都の威信をかけて発足した歌劇場であり、精力的な上演活動によってたちまち世界のオペラをリードする位置にのぼり、現在に至っている。ただし、モーツァルトの時代には間に合わず、その後のドイツオペラをリードしたヴァーグナーやリヒャルト・シュトラウスの初演拠点にもならなかったこともあり、有名作品の初演歴という点ではドレスデンやミュンヘンに一歩を譲っている。

ウィーン楽友協会 (ニューイヤーコンサートの会場)

ウィーン楽友協会 (Flickr)

1812年に設立された、ウィーンにあるクラシック音楽関係者による団体(ウィーン楽友協会)およびその本部の建物。大ホールは、通称「黄金のホール」と呼ばれ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地として知られる演奏会場である。毎年1月1日に大ホール(黄金のホール)で、ニューイヤーコンサートが行なわれる。マチネ(昼公演)の演奏会(コンサート)。ヨハン・シュトラウス2世を中心とするシュトラウス家の楽曲が主に演奏される。

歴代指揮者

1980年〜1986年:ロリン・マゼール
1987年:ヘルベルト・フォン・カラヤン
1988年:クラウディオ・アバド
(中略)
2000年:リッカルド・ムーティ
2001年:ニコラウス・アーノンクール
2002年:小澤征爾
(中略)
2022年:ダニエル・バレンボイム

シュトラウス ラデツキー行進曲 小澤征爾指揮 ウィーン・フィル
(2002年ニューイヤーコンサート)

https://www.youtube.com/watch?v=wAGzzKaXeBQ&ab_channel=Korean.neri92

リンクシュトラーセ

リングシュトラーセ(ドイツ語: Ringstraße)またはリング通りは、オーストリアのウィーン市の中心部にあり、シュタットツェントルムから数えて最初の環状道路である。リングは都市計画において都市の中心を環状に囲む道路や構築物をいう。ウィーンのリングシュトラーセは1857年に放棄された市壁と堀の趾である。

19世紀、中世から近世にかけての自治都市が市壁によって「都市の自由」を守る時代は、既に終わりを告げていた。市壁の上はウィーン市民の散歩道となっており、市壁外の空き地(グラシ)も緑化が進んで市民の憩いの場となりつつあった。既に市壁の必要性は失われており、パリでは1850年代よりジョルジュ・オスマンのもとで大規模な都市改造が行われて近代都市へと脱皮し、フランスとその指導者ナポレオン3世の威光をヨーロッパ中に示していた。こうした中、ウィーンもかつての市壁を撤去し、近代都市へと生まれ変わることで、オーストリア帝国の威光を示すとともに工業化に伴う人口集中に対応する必要があったのである。また、鉄道網を整備する上でも市壁のせいで線路を市の中心部まで敷設できないでいた。

1858年より、かつてオスマン帝国による包囲戦に耐えた市壁の取り壊しが始まった。同年、オーストリア国家の主導で都市計画の公募が開始され、年末には全応募案がウィーン市民に公開された。この際、ウィーン市の介入はできる限り排除され、主導権は常に国家が握っていた。市壁の取り壊しは、かつて皇帝にすら叛旗を掲げたウィーンの自治が崩されていく象徴でもあった。その点でリングシュトラーセの建設とそれに伴う都市改造計画は、国家に対して自律的であった市民が徐々に国民として組み込まれていく過程でもあった。当時のウィーン市長ヨハン・カスパール・ザイラーも、こうした国家主導の都市改造に不満を表明している。また、リングシュトラーセは、暴徒鎮圧・市中心部防備のため、軍隊が出動・展開する軍用道路という目的も有していたとされる。

(Wikipediaより)

美術史美術館 Kunsthistorisches Museum

美術史美術館 (Flickr)

美術史博物館とも呼ばれる。古代から19世紀に至るヨーロッパ各地の美術品を収蔵している。自然史博物館と対になる施設として建てられ、1891年に開館。現在は組織上ウィーン大学の一部局である。ルネサンスとバロックを中心とする絵画コレクションはヨーロッパ屈指の質と量を誇り、多数の傑作が所蔵されている。

様式はネオ・ルネサンス様式。建物は主に3フロアから構成され、中間階(1階)に絵画が展示されている。1階の下に位置する0.5階では古代エジプト・古代ギリシア・古代ローマの彫刻等が展示され、上に位置する2階では貨幣コレクションが展示されるなど、博物館としての側面を持ち合わせている。展示室の数は50近い。美術館入り口の柱頭は0.5階からドーリア式、イオニア式、コリント式と並ぶ。

17世紀のオランダ絵画は数は多くないが、代表的な画家の名品が揃っている。中でもヨハネス・フェルメールの『絵画芸術』は、画家の代表作としてあまねく知られている。ほかに『自画像』を含むレンブラントの優れた肖像画の収集や、フランス・ハルス、ヤン・ステーン、ヘラルト・テル・ボルフらの名品もある。15世紀から17世紀フランドル絵画の収集でも世界的に知られている。とりわけ12点を数えるピーテル・ブリューゲルの作品数は世界最大であり、『子供の遊戯』、『雪中の狩人』などの傑作が1室に集められている。

フェルメール『絵画芸術』 (Flickr)

ブリューゲル『バベルの塔』 (Flickr)

ブリューゲル『雪中の狩人』 (Flickr)

(特別寄稿)ウィーンのベートーヴェン

ウィーンの郊外にあるハイリゲンシュタットは、世界遺産の登録地域からは外れていますが、世界遺産となったウィーンで活躍し、人類の文化向上に大きく貢献した音楽家ベートーヴェンが偉大な作品を生み出した場所です。最後に若干の紙面を割いて、世界遺産ウイーンと楽聖ベートーヴェンの関わりについて、その音楽を聴きながら振り返ってみたいと思います。

1770年12月16日ドイツのボンに生まれたベートーヴェンは、1792年、22歳でウィーンに移住し、生涯をウィーンで暮らしました。1792年12月18日には父ヨハンが死んだときも、ボンに戻ることはありませんでした。ウィーンに移住してから、ベートーヴェンは即興演奏家としての名声をあげ、各地で演奏会も開くようになり、1796年頃には、プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを6ヶ月間の演奏旅行をしています。1804年に交響曲第3番を発表してからは、次々と歴史に残る傑作を発表していきます。しかし、同時に、持病の難聴が悪化し、女性にも失恋するなどが重なり、ハイリゲンシュタットにいた頃には、自殺も考えるなどの苦難の中にいた。それでも、56歳で亡くなる直前まで、精力的な作曲活動を続け、人類史に残る不滅の音楽を生み出し続けたのでした。

ベートーヴェンは、「引っ越し魔」とも呼ばれるほど、ウィーンでも転居を繰り返していました。その主な住居をGoogleマップで追跡してみたいと思います。

Beethoven in Vienna

ウィーンのベートーヴェン関連地図

ハイリゲンシュタットのベートーヴェン関連地図

ベートーヴェンに関する参考文献

ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』


青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』


世界遺産クイズ

世界遺産検定クイズ

関連動画へのリンク

Historic Centre of Vienna (UNESCO/NHK)

Rick Steves' Europe

UNESCO公式HP(英語版)へのリンク

https://whc.unesco.org/en/list/1033

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