概要
文化遺産、負の遺産
資産名:
広島平和記念碑(原爆ドーム)
Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome)
国名:日本
登録年:1996年
登録基準:(vi)
概要:
原爆ドームは、人類史上初めて用いられた核兵器(原子爆弾)の惨禍を今に伝える歴史的建造物である。もともとは、1915年にチェコの建築家ヤン・レツルによって設計された建物で、第二次大戦当時は「広島県産業奨励館」と呼ばれていた。1945年8月6日朝、アメリカの爆撃機「エノラ・ゲイ」から投下された原子爆弾が広島市上空580mで炸裂、一瞬にして市街を焼き尽くした。原爆ドームは核兵器廃絶と世界の恒久平和を求めるヒロシマの願いを象徴する平和記念碑となっている。「二度と同じような悲劇が起こらないように」と戒めや願いをこめて、(「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」や、「バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群」とともに)「負の世界遺産」と呼ばれている。
原爆ドーム~その名に遺されたもの~「Genbaku Dome - what the name has left us -」
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登録基準
登録基準 (vi) 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)
人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を如実に伝えるものであり、時代を超えて核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑であえる。「広島平和記念碑(原爆ドーム)」のように、核兵器による被爆後の惨状をそのままの形で伝えている建造物はほかに存在しない。
登録基準(vi)には、「この基準は、他の基準とあわせて用いられることが望ましい」という但し書きがついている。これは登録審議の際に第20回世界遺産委員会の場で加えられたものである。
世界遺産登録の経緯
1966年、広島市議会は原爆ドームの永久保存を決定した。1992年(平成4年)に日本国政府が世界遺産条約を批准したことがきっかけとなり、同年9月に広島市議会が「原爆ドームを国の世界遺産候補リストに登録するよう要望する」意見書を採択。市長は翌年1月に要望書を文化庁に提出した。全国的な署名運動も始まり、1994年に165万人分超の署名を添えた国会請願が衆議院・参議院両本会議で採択された。
日本国政府は当初、「世界遺産への推薦には『その遺産が国内法で保護されていること』が条件」であるとし、「原爆ドームは歴史が浅く、文化財に指定できないため、推薦要件を満たさない」として原爆ドームの推薦には消極的であった。しかし、世論に押されて1995年3月、文部省(当時)は文化財保護法に基づく史跡名勝天然記念物指定基準を改正し、同年6月に原爆ドームを国の史跡に指定した。これを受けて、日本国政府は同年9月に原爆ドームを世界遺産に推薦した。原爆ドームの登録審議は、1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された第20回世界遺産委員会において行われた。このとき、アメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対し、調査報告書から「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させた。また、中華人民共和国は「日本の戦争加害を否定する人々に利用されるおそれがある」として審議を棄権したが、両国とも登録決議には反対しなかった。審議の結果、原爆ドームは文化遺産として登録された。
歴史
建物の前史
広島市では、経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となっていた。その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」である。1910年(明治43年)に広島県会で建設が決定され、6年後の1915年(大正4年)に竣工した。1915年(大正4年)4月5日に竣工、同年8月5日に開館した。設計はチェコ人の建築家、ヤン・レッツェル。ドームの先端までの高さは約25メートルあり、「ネオ・バロック様式」の骨格に「ゼツェシオン様式」の細部装飾(柱、窓枠、幾何学模様など)を持つ混成様式の建物であった。1921年(大正10年)に広島県立商品陳列所と改称し、同年には第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなった。1933年(昭和8年)には広島県産業奨励館に改称された。
被爆時の状況
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分17秒(日本時間)、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点(現・島内科医院付近)で炸裂した。
原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達した。0.8秒後には、前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風(参考として、気温30℃時の音速は秒速349メートルである)が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされた。このため建物は、原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。ドーム部分は全体が押し潰されるほどの衝撃を受けなかったため、爆心地付近では数少ない被爆建造物(被爆建物)として残った。
ICOMOSの報告書には、「歴史的価値や、建造物としての価値は認められないが、世界平和を目指す活動の記念碑として、世界でもほかに例を見ない建造物である」との記載があり、登録基準(vi)のみで登録された。一般に「負の遺産」と考えられる遺産は、登録基準(vi)のみで登録されることが多い。
広島原爆投下
1945年8月6日、アメリカ軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」が広島市上空に侵入し、原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下した。原子爆弾は、広島県産業奨励館から南東約150m、上空約580mの地点で炸裂し、広島の街は一瞬にして壊滅した。
「原爆ドーム」の保存
ドーム状の鉄枠が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる1951年(昭和26年)ごろにはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていた。
1953年(昭和28年)に、所有権が広島県から広島市に移転されるなかで、原爆ドームこと産業奨励館廃墟の除去はひとまず留保され、1955年(昭和30年)には丹下健三の設計による広島平和記念公園(平和公園)が完成した。この公園は、原爆ドームを北の起点として原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館が南北方向に一直線上に位置するよう設計されており、原爆ドームをシンボルとして際立たせる意図があった。
原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、1960年代には風化が進んで崩落の危険が生じた。一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発になった。当初、広島市は風化や経年劣化による崩壊の危険性を考え、取り壊しも検討していた。
議論の流れを変えたのは、市内の大下学園祇園高等学校の生徒・楮山ヒロ子の日記である。楮山ヒロ子は、1歳のときに広島市平塚町(現在の中区東平塚町・中平塚町・西平塚町)の自宅で被爆し、15年後の1960年(昭和35年)に「あの、いたいたしい、産業奨れい館だけがいつまでもおそるげん爆を世にうったえてくれるだろうか(1959年8月6日付、原文ママ)」などと日記に書き遺し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病のため16歳で亡くなった。この日記を読み感銘を受けた平和運動家の河本一郎や「広島折鶴の会」が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年(昭和41年)に広島市議会が永久保存することを決議する。
翌年には保存工事が完成し、その後定期的に補修工事が施されるなど広島市単体での保存・管理が続いていたが、被爆50年にあたる1995年(平成7年)に国の史跡に指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。
(Wikipediaより)
広島平和記念資料館
1955年、平和公園の敷地内に、広島平和記念資料館が完成した(初代館長は長岡省吾)。資料展示館は公園の全体設計を担当した建築家・丹下健三が設計を担当した。館内には、被爆の惨状を物語る遺品などの資料が展示され、多くの人々に原爆による被害を伝えている。
2016年に広島を訪れた米国のオバマ大統領が作った折り鶴と直筆メッセージが、期間限定(2017年7月11日(火)~2020年2月28日(金))で広島平和記念資料館で公開された。
平和記念資料館の公式サイト
https://hpmmuseum.jp/
関連動画へのリンク
広島平和記念館(原爆ドーム)(ユネスコ/ NHK)
Hiroshima: Dropping The Bomb - Hiroshima - BBC
オバマ大統領の広島演説 2016年5月27日(金)(英語&日本語字幕入り)
日本語対訳ページ
世界遺産クイズ
世界遺産検定クイズ
UNESCO公式HP(英語版)へのリンク
https://whc.unesco.org/en/list/775