ゲーテとシラーの像, Flickr

ドイツ 世界遺産100選 重要遺産

ヴァイマール古典主義文化

2021年11月14日

文化遺産
遺産名:
ヴァイマール古典主義文化
Classical Weimar
国名:ドイツ
登録年:1998年
登録基準:(iii)(vi)
概要:
「古典主義の都ヴァイマル」(Klassisches Weimar)は、ドイツにあるユネスコの世界遺産登録物件のひとつ。ヴァイマルは、ゲーテとシラーらを代表とする、18世紀末から19世紀初頭にかけて花開いたドイツ古典主義の中心地として栄えた町である。世界遺産登録に当たっては、当時を偲ばせる建築物や公園など、合計11件が対象とされている。

16世紀からザクセン・ヴァイマール公国の都として栄えてきた街は、1776年から公国の大臣を務めた文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテを中心として知識人や文化人が集い、古典主義芸術の中心地となった。その足跡が色濃く残るヴァイマール市街と近郊の12の建築物を中心とした地域が世界遺産に登録された。

ゲーテは、ヴァイマルの邸宅「ゲーテの家」に33歳から死去するまでの50年間住んだ。ゲーテがこの地にやってきたのは、ザクセン・ヴァイマール公カール・アウグストに招聘されたことがきっかけである。賓客として招かれたが、翌年には最高政治機関である枢密院の参事官として、26歳の若さで銀鉱山の再開発や道路建設、教育機関の整備、宮廷劇場の運営、ヴァイマール城の建設、イルム河畔公園の造成などに携わった。

やがてゲーテの誘いで、詩人で劇作家のフリードリヒ・フォン・シラーや、ゲーテの師匠的な存在だった思想家のヨハン・ゴットフリート・フォン・ヘルダーなど、多くの文化人がヴァイマールに居を構えた。彼らはアンナ・アマーリア大公妃図書館や宮廷劇場のある街の中心部に住み、ヴァイマールは街全体が芸術サロンの様相を呈した。シラーは、この街で『ヴィルヘルム・テル』を書いた。

(『世界遺産大事典』より)

主な構成資産

イルム河畔公園とガルテンハウス

ワイマールでゲーテが最初に住んだのは、イルム公園内に残る「ガルテンハウス(庭園の家)」と呼ばれる質素な家だった。ここは、のちにクリスティアーネとの逢瀬の場となった。また、晩年はここを逃避の場所としていた。

イルム河畔のガルテンハウス , Flickr

ゲーテの家 (Goethe's House)

ゲーテが33歳の時に、ガルテンハウスから移り住んだ家。ここに亡くなるまで約50年間住み続けた。イタリア旅行のあと、イタリー風に改修した。現在は博物館として公開されている。ゲーテの書斎、図書室、居間、台所、寝室などを見学することができる。

ゲーテハウスの室内, Flick

ゲーテハウス、ゲーテ博物館の情報

https://www.weimar.de/en/culture/sights/museums/goethe-national-museum/

シラーの家

ワイマール中央駅から1.5km、徒歩で20分ほどの場所にある。バスも利用できる。シラーは、ゲーテと双璧をなすドイツ古典主義の代表で、ザクセン=ワイマール公国の首都だったワイマールを拠点に、詩人、歴史学者、劇作家、思想家として活躍した。この家は、シラーが1802年に購入し、1805年に亡くなるまで住んだ家である。建物は1986~1987年に改修されたが、室内は当時の状態で残されている。シラーの作品や彼に関する資料を所蔵する博物館が併設されていて、展示を行っている。

シラーの家, Flickr

ヘルダー教会

ワイマール(Weimar)にある教会。18世紀のドイツの哲学者・文学者、詩人、神学者のヘルダー(Johann Gottfried von Herder、1744~1803年)が葬られたことから、「ヘルダー教会」と呼ばれるようになった。正式名称は「聖ペーターとパウル市教会」(Stadtkirche St. Peter und Paul)で、ワイマールで最も有名な教会である。この教会は1498~1500年にかけてゴシック様式で建造され、18世紀にバロック様式の建物に改築された。ルネサンス期のドイツの画家ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach der Ältere)父子(父子とも同姓同名)が2代にわたって聖書の世界を描いた、巨大な祭壇画があることで有名である。ワイマール市内のゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749~1832年)やシラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller、1759~1805年)の家など、ドイツ古典主義文化に関する建築物や公園とともに、世界遺産に登録されている。

ヘルダー教会, Flickr

ワイマール城

ワイマール市の宮殿(Residenzschlossとも呼ばれる)は、ワイマール市の中心部、イルンパークの北端にあります。この宮殿はもともと13世紀に木造の城だったが、焼失後にルネッサンス様式の宮殿に生まれ変わった。その後、1789年からは、カール・アウグスト公が新しい建物の建設を検討し、1789年3月には、宮殿建設委員会を設立し、当初からヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが積極的に参加した。しかし、最終的には古い建物の大部分を使って再建することになった。

ゲーテは、1787年にローマで出会ったハンブルクの建築家、ヨハン・アウグスト・アレンスに依頼し、主に再建のためのグランドプランを設計してもらった。しかし、1791年になると、フランス革命の影響や経済的な制約が出てきて、アレンスも委員会への関心を失っていった。しかし、ゲーテはこの時点ですでに建物を熟知していたため、アーレンスの計画通りに工事を続行させ、1796年には上棟式も行われた。工事の過程で堀が平らになったことで、要塞としての性格も失われた。南に向かって開かれた3つの翼を持つこの建物は、ゲーテが設計に携わったランドスケープ・ガーデンと明確に対応している。

1797年からゲーテは、ルートヴィヒスブルクの建築家ニコラウス・フリードリヒ・フォン・トゥーレットを新しい宮殿建築家として起用し、アレンスのグランドプランの枠内で内装工事を行った。トゥレは、ダイニングルーム、エントレルーム、東棟のルイーズ大公夫人のためのフラットの大部分など、特にギリシャの古代を参照したプログラムを持つ古典主義のスタイルで、現在も残っている部屋を設計した。また、1816年に梯子から落ちて亡くなった宮廷画家のカール・ハイデロフも天井画のデザインに関わっていた。

ワイマール城 (Flickr)

国民劇場とゲーテ・シラー像

ワイマールは神聖ローマ帝国の時代にはザクセン=ワイマール公国、その後はザクセン=ワイマール=アイゼナハ大公国の首都が置かれた都市で、ゲーテやシラーが活躍した18世紀末から19世紀初頭にかけて、カール・アウグスト侯爵の庇護のもと、ドイツ古典主義の中心地として栄えた。このゲーテ像とシラー像は、ゲーテが国民劇場の劇場監督を務め、シラーの数々の作品が上演されたことにちなんだものである。この劇場はその後、リスト(Franz Liszt、1811~1886年)やリヒャルト・シュトラウス(Richard Georg Strauss、1864~1949年)が音楽監督を務めた劇場でもあり、1919年に「ワイマール憲法」が採択された場所でもある。(『コトバンク』より)

国民劇場, Flickr

アンナ・アマーリア大公妃図書館

アンナ・アマーリア・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(Anna Amalia von Braunschweig-Wolfenbüttel)は1756年3月16日、エルンスト・アウグストと結婚。しかしわずか2年後に夫は死去し、彼女は身重の体で、長男カール・アウグストの摂政をつとめることになった。同年、次男コンスタンティンを出産。

Anna Amalie von Sachsen-Weimar , Wikipedia

七年戦争という一大事にもよく公国の舵をとり、カール・アウグストが成人した1775年に摂政を辞した芸術のパトロンとして知られ、作曲をする才女だった。彼女は、ヘルダー、ゲーテ、シラーらをヴァイマルへ招聘した。幼い大公の教師をつとめたのは、シェイクスピアのドイツ語翻訳者で詩人のヴィーラントであった。アンナ・アマーリアは、85万冊もの蔵書をもつ『アンナ・アマーリア大公妃図書館』を創設した。

アンナ・アマーリア大公妃図書館, Flickr

ゲーテの生涯と文学(Johann Wolfgang von Goethe 1749年 - 1832年)

ゲーテ70歳の肖像 (1828年) Wikipediaより

その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も務めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛イタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。

生誕から『若きウェルテルの悩み』まで

ゲーテは、1749年8月28日、ドイツ中部フランクフルト・アム・マインの裕福な家庭にヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ(長男)として生まれた。ゲーテ家は明るい家庭的な雰囲気であり、少年時代のゲーテも裕福かつ快濶な生活を送った。1765年、ゲーテは16歳にして故郷を離れライプツィヒ大学の法学部に入学したが、邦楽の勉強には身が入らなかった。このころ、ゲーテは通っていたレストランの娘で2、3歳年上のアンナ・カトリーナ・シェーンコプフ(愛称ケートヒェン)に恋をし、『アネッテ』という詩集を編んでいる。 しかし都会的で洗練された彼女に対するゲーテの嫉妬が彼女を苦しめることになり、この恋愛は破局に終わった。

Anna Katharina Schönkopf, Wikipedia

ゲーテは3年ほどライプツィヒ大学に通ったが、その後病魔に襲われてしまい、退学を余儀なくされた(病名は不明であるが、症状から結核と見られている)。19歳のゲーテは故郷フランクフルトに戻り、その後1年半ほどを実家で療養することになる。この頃、ゲーテは母方の親戚スザンナ・フォン・クレッテンベルクと知り合った。彼女は真の信仰を魂の救済に見出そうとするヘルンフート派の信者であり、彼女との交流はゲーテが自身の宗教観を形成する上で大きな影響を与えた。

Susanna von Klettenberg (44歳の肖像画), Flicker

1770年、ゲーテは改めて勉学へ励むため、フランス的な教養を身につけさせようと考えた父の薦めもあってフランス領シュトラースブルク大学に入学した。この地で学んだ期間は一年少しと短かったが、ゲーテは多くの友人を作ったほか、作家、詩人としての道を成す上での重要な出会いを体験している。とりわけ大きいのがヨハン・ゴットフリート・ヘルダーとの出会いである。ヘルダーはゲーテより5歳年長であるに過ぎなかったが、理性と形式を重んじる従来のロココ的な文学からの脱却を目指し、自由な感情の発露を目指すシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)運動の立役者であり、既に一流の文芸評論家として名声もあった。当時無名の学生であったゲーテは彼のもとへ足繁く通い、ホメロスやシェークスピアの真価や聖書、民謡(フォルクス・リート)の文学的価値など、様々な新しい文学上の視点を教えられ、作家・詩人としての下地を作っていった。

ヘルダー像(ワイマール), Flickr

この時期、ゲーテはフリーデリケ・ブリオンという女性と恋に落ちている。彼女はシュトラースブルクから30キロほど離れたゼーゼンハイムという村の牧師の娘であり、ゲーテは友人と共に馬車で旅行に出た際に彼女と出会った。彼女との恋愛から「野ばら」や「五月の歌」などの「体験詩」と呼ばれる抒情詩が生まれるが、しかしゲーテは結婚を望んでいたフリーデリケとの恋愛を自ら断ち切ってしまう。この出来事は後の『ファウスト』に書かれたグレートヒェンの悲劇の原型になったとも言われている。

Friederike Brion , Flickr

1772年4月にヴェッツラーに移ったゲーテは、ここでも法学には取り組まず、むしろ父から離れて文学に専念できることを喜んだ。ヴェッツラーはフランクフルトの北方に位置する小さな村であったが、ドイツ諸邦から有望な若者が集まっており、ゲーテは特にヨハン・クリスティアン・ケストナーカール・イェルーザレムと親しい仲となった。6月9日、ゲーテはヴェッツラー郊外で開かれた舞踏会で19歳の少女シャルロッテ・ブッフに出会い熱烈な恋に落ちた。ゲーテは毎晩彼女の家を訪問するようになるが、まもなく彼女は友人ケストナーと婚約中の間柄であることを知る。ゲーテはあきらめきれず彼女に何度も手紙や詩を送り思いのたけを綴ったが、彼女を奪い去ることもできず、9月11日に誰にも知らせずにヴェッツラーを去った。

Charlotte Buff , Wikipedia

フランクフルトに戻ったゲーテは、表向きは再び弁護士となったが、シャルロッテのことを忘れられず苦しい日々を送った。シャルロッテの結婚が近づくと自殺すら考えるようになり、ベッドの下に短剣を忍ばせ毎夜自分の胸につき立てようと試みたという。そんな折、ヴェッツラーの友人イェルーザレムがピストル自殺したという報が届いた。原因は人妻との失恋である。この友人の自殺とシャルロッテへの恋という2つの体験が、ゲーテに『若きウェルテルの悩み』の構想を抱かせることとなった。そして1774年9月、ヴェッツラーでの体験をもとにした書簡体小説『若きウェルテルの悩み』が出版されると若者を中心に熱狂的な読者が集まり、主人公ウェルテル風の服装や話し方が流行し、また作品の影響で青年の自殺者が急増するといった社会現象を起こし、ドイツを越えてヨーロッパ中にゲーテの名を轟かせることになった。


ヴァイマール時代

1775年11月、ゲーテはカール・アウグスト公からの招請を受け、その後永住することになるヴァイマルに移った。当初はゲーテ自身短い滞在のつもりでおり、招きを受けた際もなかなか迎えがこなかったためイタリアへ向かってしまい、その途上のハイデルベルクのデルフ宅でヴァイマルからの連絡を受けあわてて引き返したほどであった。

当時のヴァイマル公国は面積1900平方キロメートル、人口6000人程度の小国であり、農民と職人に支えられた貧しい国であった。本来アウグスト公の住居となるはずの城も火災で焼け落ちたまま廃墟となっており、ゲーテの住まいも公爵に拝領した質素な園亭であった。アウグスト公は当時まだ18歳で、父エルンスト・アウグスト2世は17年前に20歳の若さで死亡し、代りに皇太后アンナ・アマーリア(アウグスト公の母親)が政務を取り仕切っていた。彼女は国の復興に力を注ぎ、詩人ヴィーラントを息子アウグストの教育係として招いたほか多くの優れた人材を集めていた。

26歳のゲーテはアウグスト公から兄のように慕われ、彼と共に狩猟や乗馬、ダンスや演劇を楽しんだ。王妃からの信頼も厚く、また先輩詩人ヴィーラントを始め多くの理解者に囲まれ、次第にこの地に留まりたいという思いを強くしていった。到着から半年後、ゲーテは公国の閣僚となりこの地に留まることになったが、ゲーテをこの地にもっとも強く引き付けたのはシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人との恋愛であった。

シャルロッテ・フォン・シュタイン夫人の肖像画, Flickr

ゲーテとシュタイン夫人との出会いは、ゲーテがヴァイマールに到着した数日後のことであった。彼女はヴァイマールの主馬頭の妻で、この時ゲーテよりも7つ上の33歳であり、すでに7人の子供がいた。しかしゲーテは彼女の調和的な美しさに惹かれ、彼女の元に熱心に通い、また多くの手紙を彼女に向けて書いた。すでに夫との仲が冷め切っていた夫人も青年ゲーテを暖かく迎え入れ、この恋愛はゲーテがイタリア旅行を行なうまで12年にも及んだ。この恋愛によってゲーテの無数の詩が生まれただけでなく、後年の『イフィゲーニエ』や『タッソー』など文学作品も彼女からの人格的な影響を受けており、ゲーテの文学がシュトルム・ウント・ドラングから古典主義へと向かっていく契機となった。

シュタイン夫人との恋愛が続いていた10年は同時にゲーテが政務に没頭した10年でもあり、この間は文学的には空白期間である。1780年の31歳の時、フランクフルトのロッジにてフリーメイソンに入会。4年後に書かれた「秘密」という叙事詩にはフリーメイソンをモデルとした秘密結社を登場させている。ゲーテは着実にヴァイマル公国の政務を果たし、1782年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世により貴族に列せられヴァイマル公国の宰相となった(以後、姓に貴族を表す「フォン」が付き、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」と呼ばれるようになる)。政治家としてのゲーテはヴァイマル公国の産業の振興を図るとともに、イェーナ大学の人事を担当してシラー、フィヒテ、シェリングら当時の知識人を多数招聘し、ヴァイマル劇場の総監督としてシェイクスピアやカルデロンらの戯曲を上演し、文教政策に力を注いだ。

1786年、ゲーテはアウグスト公に無期限の休暇を願い出、9月にイタリアへ旅立った。もともとゲーテの父がイタリア贔屓であったこともあり、ゲーテにとってイタリアはかねてからの憧れの地であった。出発時ゲーテはアウグスト公にもシュタイン夫人にも行き先を告げておらず、イタリアに入ってからも名前や身分を偽って行動していた。出発時にイタリア行きを知っていたのは召使のフィリップ・ザイテルただ一人で、このことは帰国後シュタイン夫人との仲が断絶する原因となった。ゲーテはまずローマに宿を取り、その後ナポリ、シチリア島を訪れるなどし、結局2年もの間イタリアに滞在していた。ゲーテはイタリア人の着物を着、イタリア語を流暢に操りこの地の芸術家と交流した。その間に友人の画家ティシュバインの案内で美術品を見に各地を訪れ、特に古代の美術品を熱心に鑑賞した。約30年後にはイタリア滞在中の日記や書簡をもとに『イタリア紀行』を著した。


ローマ近郊におけるゲーテの肖像(1786年), Flickr

最初のイタリア旅行から戻った直後の1788年7月、ゲーテのもとにクリスティアーネ・ヴルピウスという23歳になる女性が訪れ、イェーナ大学を出ていた兄の就職の世話を頼んだ。彼女を見初めたゲーテは彼女を恋人にし、後に自身の住居に引き取って内縁の妻とした。帰国後まもなく書かれた連詩『ローマ哀歌』も彼女への恋心をもとに書かれたものである。ゲーテとクリスティアーネは、イルム河畔のガルテンハウスで逢瀬を繰り返した。しかし身分違いの恋愛は社交界の憤激の的となり、シュタイン夫人との決裂を決定的にすることになる。1789年には彼女との間に長男アウグストも生まれているが、ゲーテは1806年まで彼女と籍を入れなかった。なおゲーテとクリスティアーネの間にはその後4人の子供が生まれたがいずれも早くに亡くなり、長じたのはアウグスト一人である。クリスティアーネは同時代の人びとから受け入れられることはなかったが、最近の研究では、ゲーテの活動を陰で支える、よき妻であったとの再評価がなされている(次の論文を参照のこと)。

https://core.ac.uk/download/pdf/56669586.pdf

Christiane Vulpius, Flickr

ゲーテとフリードリヒ・シラーは、共にドイツ文学史におけるシュトゥルム・ウント・ドラングとヴァイマル古典主義を代表する作家として並び称されるが、出合った当初はお互いの誤解もあって打ち解けた仲とはならなかった。だがその後1794年のイェーナにおける植物学会で言葉を交わすとゲーテはシラーが自身の考えに近づいていることを感じ、以後急速に距離を縮めていった。この年の6月13日にはシラーが主宰する『ホーレン』への寄稿を行っており、1796年には詩集『クセーニエン』(Xenien)を共同制作し、2行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評した。こうして互いに友情を深めるに連れ、2人はドイツ文学における古典主義時代を確立していくことになった。

ゲーテとシラー ,Flickr

この当時、自然科学研究にのめりこんでいたゲーテを励まし、「あなたの本領は詩の世界にあるのです」といってその興味を詩作へと向けさせたのもシラーであった。ゲーテはシラーからの叱咤激励を受けつつ、1796年に教養小説の傑作『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を、翌年にはドイツの庶民層に広く読まれることになる叙事詩『ヘルマンとドロテーア』を完成させた。1799年にはシラーはヴァイマルへ移住し、二人の交流はますます深まる。また『ファウスト断片』を発表して以来、長らく手をつけずにいた『ファウスト』の執筆をうながしたのもまたシラーである。ゲーテは後に「シラーと出会っていなかったら、『ファウスト』は完成していなかっただろう」と語っている。

1805年5月9日、シラーは肺病のため若くして死去する。シラーの死の直前までゲーテはシラーに対して文学的助言を求める手紙を送付している。周囲の人々はシラーの死が与える精神的衝撃を憂慮し、ゲーテになかなかシラーの訃報を伝えられなかったという。実際にシラーの死を知ったゲーテは「自分の存在の半分を失った」と嘆き病に伏せっている。一般にドイツ文学史における古典主義時代は、ゲーテのイタリア旅行(1786年)に始まり、このシラーの死を持って終わるとされている。なお1794年からシラーが没するまでの約11年間で交わされた書簡は1000通余りである。

1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利したナポレオン軍がヴァイマルに侵攻した。この際酔っ払ったフランス兵がゲーテ宅に侵入して狼藉を働いたが、未だ内縁の妻であったクリスティアーネが駐屯していた兵士と力を合わせてゲーテを救った。ゲーテはその献身的な働きに心を打たれ、また自身の命の不確かさをも感じ、20年もの間籍を入れずにいたクリスティアーネと正式に結婚することに決めた。カール・アウグスト公が結婚の保証人となり、式は2人だけで厳かに行なわれた。

1806年には長く書き継がれてきた『ファウスト』第1部がようやく完成し、コッタ出版の全集に収録される形で発表された。1807年にはヴィルヘルミーネ・ヘルツリープという18歳の娘に密かに恋をし、このときの体験から17編のソネットが書かれ、さらにこの恋愛から二組の男女の悲劇的な恋愛を描いた小説『親和力』(1809年)が生まれている。またこの年から自叙伝『詩と真実』の執筆を開始し、翌年には色彩の研究をまとめた『色彩論』を刊行している。1811年『詩と真実』を刊行。1816年、妻クリスティアーネが尿毒症による長い闘病の末に先立つ。


1821年『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』刊行。『修業時代』の続編であり、この作品では夢想的な全体性を否定し「諦念」の徳を説いている。またこの年、ゲーテはマリーエンバートの湯治場でウルリーケ・フォン・レヴェツォーという17歳の少女に最後の熱烈な恋をした。1823年にはアウグスト公を通じて求婚するも断られており、この60歳も年下の少女への失恋から「マリーエンバート悲歌」などの詩が書かれた。

Ulrike von Levetzow, Wikipedia

ゲーテは死の直前まで『ファウスト 第2部』完成に精力を注ぎ、完成の翌1832年3月22日にその多産な生涯を終えた。「もっと光を!(Mehr Licht!)」が最後の言葉と伝えられている。墓はヴァイマル大公墓所(Weimarer Fürstengruft)内にあり、シラーと隣り合わせになっている。

ゲーテが眠るワイマールの墓地, Flickr

ゲーテとシラーの棺, Flickr

(Wikipediaより)

ワイマールのハイキング・ルート

世界遺産クイズ

ヴァイマール古典主義文化の説明として、正しいものはどれか

関連動画へのリンク

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