文化遺産
資産名:
ヴェネツィアとその潟
Venice and its Lagoon
国名:イタリア
登録年:1987年
登録基準:(i) (ii) (iii) (iv) (v) (vi)
概要:
ヴェネツィアは5世紀にアドリア海の干潟に築かれた水上都市である。「アドリア海の女王」「水の都」などの別名を持つ。118もの小島からなり、「リアルト橋」など多くの橋で結ばれている。9世紀に建設された「サン・マルコ大聖堂」、共和国の中心である「ドゥカーレ宮殿」など多くの歴史的記念物があり、街全体が世界遺産に指定されている。近年は、丸太の杭を潟に打ち付けてそれを建物の土台にする工法の最大の欠点と、地下水の汲み上げによる地盤沈下が大問題となっている。更にそれに追い討ちを掛けるように地球温暖化による海面上昇により、水没の危機にさらされている。
歴史
古代、ヴェネツィア周辺の地域にはウェネティ(ヴェネト)人が住んでいた。伝説では、アクイレイア、パドヴァなどの北イタリアの都市の住民が、5世紀のフン族やランゴバルド人のイタリア侵攻からのこの湿地帯(潟、ラグーナ)へと避難してくることから、452年にヴェネツィアの歴史が始まる。このとき避難してきた先が現在のトルチェッロ島である。足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることができず、避難した人々はここに暮らし続けるようになる。
彼らは12のおもな島からの護民官たちを中心とした政府を組織し、アドリア海沿岸地域はもともと東ローマ帝国の支配下にあるため、名目上は東ローマ帝国に属したが、実質的には自治権を持っていた。697年、ヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めた。これがヴェネツィア共和国の始まりである。つづく1世紀間は政府内部の不和のため不安定な政治が続いたが、外敵の脅威に対して結束し、836年にはイスラムの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退した。10世紀後半からはイスラム諸国と商業条約を結んだが、これはムスリム(イスラム教徒)と戦うよりも貿易をしようというヴェネツィア人の現実的な政策によるものである。
9世紀始め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣したため、トルチェッロにいた人々はさらなる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになった。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」である。810年に東ローマ帝国・フランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属するが、フランク王国との交易権も持つこととなり貿易都市への布石が置かれた。
このころヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にあった。ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者聖マルコの遺骸がエジプトのアレクサンドリアにあり、ムスリムに奪われる恐れがあることを聞きつけ、828年、それを奪い取りヴェネツィアに運んだ。このときよりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになった。838年にサン・マルコ大聖堂が創建されたが、火災により焼失し、1094年に現在も残るビザンツ様式で再建された。
10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大した。さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていった。ジェノヴァ共和国などの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となった。
1204年、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノープルを攻略、援助への代償としてクレタ島(ヴェネツィア領クレタ)などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下に置かれた。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力を誇るようになった。東地中海から黒海にかけての海域が、いわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、同じ13世紀に、ヴェネツィアのマルコ・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせた。
富裕な貴族たちは政治の支配権の獲得をくわだて、13世紀末ごろには寡頭政治が行われるようになった。13 - 14世紀には商業上の宿敵であるジェノヴァとの戦いが続いた。1378 - 81年の戦いで、ジェノヴァはヴェネツィアの優位を認めた。そのあとも侵略戦争で周辺地域に領土を獲得したヴェネツィアは、15世紀後半にはキリスト教世界でも屈指の海軍力を持つ都市国家となった。
主な構成資産
サン・マルコ広場
サン・マルコ広場(Piazza San Marco)は、ヴェネツィアの中心的な広場で、回廊のある建物に囲まれ、ドゥカーレ宮殿やサン・マルコ寺院などがある。ヴェネツィアの広場は方言でカンポ(campo)と呼ばれるが、サン・マルコ広場は別格であり、ピアッツァ(piazza)と呼ばれる。世界で最も美しい広場とも言われており、観光名所のほか、海からの玄関口でもある。小広場にはカナル・グランデに面して2本の円柱があり、それぞれ頂上には聖マルコを象徴する「有翼の獅子」像と、「聖テオドーロ」像がある。

サン・マルコ広場の円柱(有翼の獅子) (Flickr)

サン・マルコ広場 (Flickr)
サン・マルコ寺院(大聖堂)
サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) は、福音記者マルコにささげられた、イタリアのヴェネト州の州都ヴェネツィアで最も有名な大聖堂である。ビザンティン建築を代表する記念建築物であるとされるが、その当時、コンスタンティノポリスで500年以上も前に流行した形式を採用している。サン・マルコ広場 (Piazza San Marco) に面して建ち、ドージェ(総督)の館であるドゥカーレ宮殿 (Palazzo Ducale) に隣接し繋がっている。建物内は、黄金に煌く壁や天井と、祭壇には2,000個もの眩い宝石が埋め込まれた黄金の衝立がある。総面積4,000m2のモザイク画があり、マルコの福音書やヴェネツィアの歴史などが描かれている。

サン・マルコ寺院のモザイク画 (Flickr)
1807年からはヴェネツィア大司教座が置かれているため、本来現在は「サン・マルコ大聖堂」と呼ばれるのが適切である。しかし長らく「司教座聖堂(大聖堂)ではなかった」点が特徴の一つでもあり、現在も歴史上の呼称に合わせた「寺院(ないしは聖堂)」の呼び名が一般的である。

サン・マルコ寺院 (Flickr)
ドゥカーレ宮殿
ドゥカーレ宮殿は、ヴェネツィア共和国の総督邸兼政庁であった建造物。ドージェ(総督)の公邸であった。8世紀に創建され、12世紀まで宮殿として使われていた痕跡が残っている。1340年、ピエトロ・バセッジオ(1354頃没)とフィリッポ・カレンダリオ(1315〜55)のデザイン指揮の下で海に面した南側壁面から始められ、そして1424年からは狭い広場に面した西側の壁面へと継続された。サン・マルコ大聖堂に隣接した敷地に建つこのドゥカーレ宮殿は住宅、行政府、立法府、司法府、刑務所という複合機能をもった建物とされていた。中庭の北側面はサン・マルコ聖堂の外壁と接するようになっている。

ドゥカーレ宮殿 (Flickr)
カナル・グランデの建築群
カナル・グランデ (Canal Grande) は、ヴェネツィアの運河。大運河の意で、そう訳されることもある。街を二分するようにS字形をしている。カナル・グランデには4つの橋がかかっている。その中でも最も古いのが16世紀半ばに建設されたリアルト橋である。鉄道駅の近くのスカルツィ橋とアッカデーミア橋の2つは1930年代に相次いで建設された。 駅前広場とローマ広場を結ぶ4つ目の橋、コスティトゥツィオーネ橋が建築家サンティアゴ・カラトラバ(Santiago Calatrava)の設計により2008年に建設された。

カナル・グランデ (Flickr)
リアルト橋 (Ponte di Rialto) は、ヴェネツィアのカナル・グランデに架かる4つの橋の一つ。「白い巨象」とも呼ばれる。最初は木製の跳ね橋で、銀行や商品取引所で賑わっていたため「富の橋」と呼ばれた。しかし、パレードの見物人の重みで崩壊したり、火災に遭ったりしたため、石造りの橋に変えようと提言され、1557年、ヴェネツィア共和国は橋の設計案を一般から募集した。一般公募にはミケランジェロも参加したが、結局、採用されたのはアントニオ・ダ・ポンテの案だった。橋の上にはアーケードが作られ、商店が並んでいる。ヨーロッパの橋としては珍しく、カナル・グランデを見晴らす欄干と花瓶型の手摺がついている。

リアルト橋 (Flickr)
カ・ドーロ(Ca' d'Oro)
カ・ドーロ (Ca' d'Oro, 正式にはパラッツォ・サンタ・ソフィア Palazzo Santa Sofia)はヴェネツィアのカナル・グランデに面する邸宅であり、このうちで最も美しいものの一つといわれる。最も古いものの一つでもあり、かつて外壁に金箔と多彩色の装飾が施されていたことから、カ・ドーロ(黄金の館)と呼ばれてきた。

カ・ドール (Flickr)
邸宅は1428年から1430年にかけ、ヴェネツィア貴族コンタリーニ家のために建てられた。コンタリーニ家は1043年から1676年までの間に8人のヴェネツィア元首(ドージェ)を輩出している。選挙で新たに元首となった者はこの館から離れてドゥカーレ宮殿へ移り住むのが通例であった。 建築を行ったのは、ジョヴァンニ・ボンと彼の子バルトロメオ・ボンである。彫刻家・建築家であったこの2人の仕事は、ヴェネツィアにおけるゴシック様式建築の縮図となっている。彼らはドゥカーレ宮殿の建築でもよく知られ、特に『ソロモンの審判』像のあるポルタ・デッラ・カルタ(Porta della Carta)が著名である。 1797年にヴェネツィア共和国が終焉を迎えると、カ・ドーロの所有者は数度にわたって変遷した。19世紀の所有者の一人であるバレエダンサーのマリー・タリオーニは、中庭のゴシック様式の階段および、中庭を見下ろす華麗なバルコニーを取り除いた。 1922年、カ・ドーロは1894年から所有者であったジョルジョ・フランケッティ男爵から国家に遺譲された。往時の華やかさを取り戻すべく大々的な修復が行われ(階段の再建も含む)、現在はギャラリーとして一般に公開されている。アンドレア・マンテーニャの『聖セバスティアヌス』などの絵画がある。

ギャラリー (Flickr)
サンタ・マリア・デッラ・ピエタ教会
ジョルジオ・マッサーリが設計したサンタ・マリア・デッラ・ピエタ教会は1745~1760年の間に建てられた。ヴィヴァルディ教会とも呼ばれるサンタ・マリア・デッラ・ピエタは、アントニオ・ヴィヴァルディが教えたピエタ慈善院と提携している。現在では、教会はクラシックコンサートの会場としてよく使用されている。

Santa Maria della Visitazione, , Flickr
Chiesa della Pieta
The present church of Santa Maria della Visitazione, or della Pietà as it is popularly known, a jewel of Venetian architecture, was built between 1745 and 1760 according to the design of Giorgio Massari. The original church of the XV century stood on the area of the present Hotel Metropole. The facade, imitating the classical style with tympanum and twin columns, was incomplete at the lower third of the columns and was completed in 1906 following the original Massari model. The interior is one of the most harmonious and elegant, sacred Venetian premises of the 1700’s., with an ovoid shape, vaulted ceiling and flat presbytery; along the side walls, between the twin columns supporting the cornice, two choir stalls open with elegant wrought iron work; on the entrance wall there is a double layered choir stall. In these choirs, the “putte”, the young girls living in the institute, gave their famous concerts of music and song. This is the church where Antonio Vivaldi, the famous composer and musician, also called the "red priest" for the color of his hair, lived and performed his activity. (from "Music in Venice")
アントニオ・ヴィヴァルディは、イタリアのヴェネツィアに生まれ、オーストリアのウィーンで没した。サン・マルコ大聖堂付きオーケストラのヴァイオリニストで理髪師の父ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィヴァルディからヴァイオリンを学ぶ。10歳より教会附属の神学校に入るとともにサン・マルコの見習いヴァイオリニストになり、13歳で父の代理を務める様になる。15歳で神学校に入学し、25歳で司祭に叙階された。赤毛であったことから、「赤毛の司祭」Il Prete Rosso(イル・プレーテ・ロッソ)と呼ばれるようになった。
司祭になった年までに全12曲の『トリオ・ソナタ集』作品1を出版し、在俗司祭となってヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院 のヴァイオリン教師に就く。後に楽器演奏全ての指導者「マエストロ・デ・コンチェルティ(maestro de concerti / de'concerti)」として、多くの器楽曲と、後には宗教曲もピエタに提供し、リハーサルと指揮をする義務を負った。一方、オペラ作曲家としての名声も次第と揺るぎないものになり、ヴァイオリンのヴィルトゥオーソとしての演奏旅行の他、オペラ上演のためにヨーロッパ各地を回った。彼の残した作品は死後長らく忘れられた存在であったが、20世紀に入り多くの作品が再発見され、再評価されることになった。 (Wikipediaより)
I Virtuosi Italianiのコンサート・チケット予約
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イル・レデントーレ教会
ヴェネツィア内のジュデッカ島にあるカトリックの教会。イル・レデントーレ教会は、ヴェネツィア共和国にも猛威を振るったペストの脅威(共和国の人口の25-30%に当たる約46,000人がペストにより死亡した)が、1576年に収束したことへの記念及び神への感謝を込め1577年より建設が始まり1599年に完成した。共和国の大評議会から任命されたアンドレア・パッラーディオは、当初大評議会から正方形を基本とした教会の設計を依頼されていたが、最終的に身廊の両サイドに礼拝堂を擁する形(十字架の形)で設計した。パッラーディオの設計により教会正面はパンテオンを彷彿とさせるデザインや巨大な脚座を使用している。イル・レデントーレ教会は、パッラーディオが設計した建造物の中で最高傑作と言われている。巨大な白いドームを擁し、教会正面は凱旋門を彷彿とさせるデザインとなっている。

イル・レデントーレ教会 (Flickr)

イル・レデントーレ教会 正面(Flickr)
サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂
サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂(Basilica di San Giorgio Maggiore)はイタリアのヴェネツィアにあるベネディクト会の教会である。現在の建物はアンドレア・パッラーディオ (Andrea Palladio)により設計され1566年から1610年にかけ同名の島に建設された。
790年頃に最初の教会の建設が始まり、982年に島全体をヴェネツィア共和国の総督Tribuno Memmoの命令によりベネディクト会へ与えられた。ベネディクト会は修道院として使用していたが、1223年の地震により建物全体が崩壊してしまう。 地震後に修道士の手により教会は再建されたが、1565年にアンドレーア・パッラーディオの手により大幅な改修がなされ、1575年には教会本体は完成しその後継続的に改修や内装が施され1610年に完成した。鐘楼も1791年に完成し、現在はエレベーターが設置されており最上部からはヴェネツィアの町全体を見回すことが出来る。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂 (Flickr)
教会正面は明るい白を基調としており古典主義様式の様相を呈しているが、高さのある身廊と低い側廊をもつ教会へとうまく融合している。これは建築を担当したパッラーディオが苦心した部分であり、2つの正面部分を組み合わせた結果である。大きく広がった切妻を使った正面部分を側廊の部分まで覆い、その上に4つの巨大な柱をもった身廊の部分のみを覆う狭い切妻の正面部分を乗せることで解決している。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂 正面(Flickr)
ムラーノ島
ヴェネツィアの北東約2kmにあるムラーノ島はヴェネツィアングラスの産地として有名である。ヴェネツィアの主要な輸出品であったガラス工芸品の作成技術を他の国に流出することを恐れたヴェネツィア政府がムラーノ島に職人達を集めたのが始まりといわれる。現在でも100を越える工房があり、見学も可能。
(Wikipediaより)

ムラーノ島 (Flickr)
ヴェネツィアの浸水被害とモーゼ計画
深刻化する浸水被害
地盤沈下と海面上昇に悩まされているヴェネツィアは、最悪の場合、2100年には水没してしまう可能性があるといわれています。科学者たちは、この沈みゆく都市を、環境問題解決のための実験室と見なしています。
かつてはまれだった「アクアアルタ」と呼ばれる異常潮位は、世界の海面上昇とともに今や新たな日常となりつつあります。過去100年間にベネチアを襲ったアクアアルタのうち、特に被害が大きかった25回の記録を見ると、いずれも潮位が1.37メートルを超えており、そのうち半分以上が2009年12月以降に起こっています。
そのため、ヴェネツィアは莫大な予算を投じて、高潮から街を守るための可動式の水門を設置する計画を立てました。「モーゼ」と名付けられたその水門は、アドリア海北部とベネチアの潟を結ぶ入り口に設置され、満潮のときに海水が潟に入り込み、街に押し寄せるのを防ぎます。
1. モーゼ計画の概要
モーゼ(MOSE)とは、「電気機械式実験モジュール(Modulo Sperimentale Elettromeccanico)」の略称であり、旧約聖書の「海を割った預言者モーゼ」にもちなんでいます。ヴェネツィアのラグーン(潟)とアドリア海を結ぶ3つの入り口(リド、マラモッコ、キオッジャ)に、可動式の防潮堤を設置し、高潮が街に流入するのを防ぐのが目的です。
ゲート数:計78枚(4か所の障壁に分割)
総工費: 約60億〜70億ユーロ(約1兆円前後)
設計耐用: 海面が最大60cm上昇しても対応可能、最大3mの高潮まで防護。

モーゼの最大の特徴は、「普段は海底に沈んでおり、景観を損なわない」点にあります。
1. 通常時:鋼鉄製の巨大な箱型ゲート(幅20m、厚さ4〜5m)の内部を水で満たし、海底の格納庫に沈めておきます。これにより、船の往来やラグーンの潮流を妨げません。
2. 稼働時: 高潮(通常110cm以上)が予測されると、ゲート内に圧縮空気を送り込み、水を排出します。
3. 浮上:浮力を得たゲートが蝶番を中心に斜めに立ち上がり、海を遮断する「壁」となります(浮上には約30分、戻すのに約15分かかります)。
2. これまでの歩みと現状(2026年時点)
モーゼ計画は1980年代に構想され、2003年に着工しましたが、完成までに20年以上の歳月を要しました。
相次ぐ遅延とスキャンダル: 汚職事件による市長らの逮捕、予算の膨張、技術的な不具合により、当初の完成予定(2011年)から大幅に遅れました。
初稼働の成功: 2020年10月、記録的な高潮に対して初めて全ゲートが稼働し、サン・マルコ広場を浸水から守ることに成功しました。
現在の状況:2026年現在、システムは日常的に運用されています。2025年までに通算100回近い稼働を記録しており、もはやヴェネツィアの守り神として不可欠な存在となっています。
3. 直面している主な課題
成功の一方で、いくつかの深刻な問題が議論の的となっています。
1. 莫大な維持費
稼働1回あたり数十万ユーロ(数千万円)のコストがかかるとされ、年間のメンテナンス費用も100億円規模に達しています。この財源確保が常に課題となっています。
2. 環境への影響
ゲートを閉じることは、ラグーン内の水の入れ替えを止めることを意味します。稼働頻度が高まると、ラグーン内の酸素濃度が低下し、独自の生態系や水質に悪影響を及ぼす懸念があります。
3. 気候変動との追いかけっこ
IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の予測によれば、今世紀末には海面が大幅に上昇する可能性があります。海面が上がり続けると、モーゼを「ほぼ毎日」閉じなければならなくなり、そうなるとラグーンが完全に閉鎖された「湖」になってしまうというジレンマを抱えています。
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