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白川郷・五箇山の合掌造り集落

2021年3月17日

概要

文化遺産
資産名:
白川郷・五箇山の合掌造り集落
Historic Villages of Shirakawa-go and Gokayama
国名:日本
登録年:1995年
登録基準:(iv) (v)
概要:
岐阜県の白川村荻町、富山県の五箇山(相倉地区、菅沼地区)は、江戸末期から明治時代に建てられた伝統的な合掌造り家屋が多く残る集落群です。中でも、白川郷(荻町地区)は合掌造り家屋がいまでも日常生活で使われている点が貴重です。合掌造り家屋の最大の特徴は茅葺き屋根で、30年〜40年に一度行われる葺き替えは、「結」と呼ばれる伝統的な相互扶助組織を動員して行われています。白川郷では村民100〜200人が総出となり、1日で葺き替えを終わらせたそうです。

構成資産の紹介

白川村荻町地区

荻町地区は、白川郷と越中五箇山に特徴的な「合掌造り」の家屋群で、江戸時代中期から養蚕と焔硝製造の発展によって合掌造り民家が発達しました。集落の中心部は庄川の東側右岸に広がる三日月形の河岸段丘に位置し、屋敷地は耕作地の間に点在しています。合掌造り民家の棟方向は庄川筋に沿っており、周囲には旧道や田畑、用水などの自然的な農耕形態と調和した独特の集落景観が保たれています。

この地区は、選定から40年間で220件の保存修理実績があります。また、放水銃を主体とした防災施設事業や地中化事業なども実施されました。さらに、世界遺産白川郷合掌造り保存財団による修景助成も行われ、令和元年度までに381件の修景助成が行われました。

平村相倉地区

平村は、富山県南西部に位置し、面積94.06km2、人口1,383人の山村です。村の中央を庄川が流れ、豪雪地帯でもあります。古代から富山平野と飛騨地方を結ぶ要所であったことが知られ、中世には浄土真宗の教徒による集落づくりが進められました。近世には加賀藩領となり、五箇山の語源となる地域が形成されました。近代になると自動車道や電源開発が進み、村民の生活の近代化が進んでいきました。農業生産では稲作よりも和紙、塩硝、養蚕が主要な産品でした。平村には相互扶助の組織があり、屋根の普請や茅屋根の葺き替え時には、ユイ(結い)やコーリャク(合力)と呼ばれる互助制度が行われています。

上平村菅沼地区

菅沼集落は、戸数8戸、人口40人(1994年8月現在)の小さな集落です。しかし、1889年の記録によると、当時は13戸あり、上平村の19の集落の中で9番目に多い戸数でした。集落は庄川が蛇行しながら東へ流れを変える地点の右岸に位置しており、南北約230m、東西約240mの舌状に北に突出した河岸段丘面に広がっています。標高は約330mで、ほぼ平坦な地形ですが、南東部がやや高く、北西方向には7mほど下がっています。集落の背後は急傾斜の山地であり、ブナ、トチ、ミズナラなどの大木が茂る雪持林として保存されています。

屋敷地は平坦部の南東に配置されており、各家屋は主屋から離れた場所に板倉や土蔵などの附属屋を持っています。主屋と附属屋は一緒に配置されず、敷地は狭く、周囲には塀や生け垣はありません。耕作地としては、集落の北西部にまとまった水田がありますが、屋敷地の周囲にも小さな水田や野菜、豆類の畑が点在しています。水田はかつては桑畑だった土地であり、1945年に対岸からの水を引いて水田化されました。

地図

スライドショー

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合掌造り家屋の最大の特徴である茅葺きの大屋根は、積雪を防ぐため45〜60度の傾斜をもつ。また雪の重みと風の強さに耐えるため部材の結合には釘などの金属はいっさい使用せず、縄でしばって固定する工法が用いられるなど、厳しい自然環境から家屋を守る工夫が随所に施されている。

共通点の一つに、「結」と呼ばれる相互扶助組織がある。白川郷と五箇山では、伝統的に隣人同士の結束力が強かった。これは浄土真宗への信仰心がもとになっているが、厳しい自然環境も大きく作用している。豪雪地帯での生活は家族だけでは成り立ちにくく、結による協力体制が発展した。

登録基準の内容

登録基準 (iv)

合掌造り家屋は、雪の重みと風雨に耐えるために釘などの金属物を一切使用しないなど、環境と風土に合わせた建築技術だった。

登録基準 (v)

合掌造り集落は、山間部で暮らす人々の文化を代表する伝統的集落であり、大家族制度といった特性や、伝統に見合った土地利用の顕著な見本である。

概要

白川郷の荻町地区は合掌造りの集落で知られる。独特の景観をなす集落が評価され、1976年重要伝統的建造物群保存地区として選定、1995年には五箇山(相倉地区、菅沼地区)と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。白川郷の萩町の59棟、五箇山の相倉の20棟、五箇山の菅沼の9棟が世界遺産に登録された。白川郷の荻町地区は、今も実生活の場として使われているところに価値があり、それが他地域の合掌民家集落と違うところである。「世界遺産白川郷合掌造り保存財団」などがその保存にあたっている。毎年1月と2月頃の週末には夜間ライトアップが行われる。

この地域は、標高2,702mの白山を中心とした山岳地帯にあり、冬は一面が雪に閉ざされる日本でも有数の豪雪地帯として知られ、3つの集落では、1950年代までほかの地域との交流が大幅に制限されていた。また農業はわずかな畑作などに限られていた。それに代わる産業として盛んに行われていたのが、養蚕や和紙漉き、火薬の原料となる塩硝などの生産である。こうした隔絶された環境と地域特有の社会環境や経済事情が、合掌造りというほかの地方では見られない建築様式をはじめ、独自の生活文化を生み出す土壌となった。

合掌造りについて

「合掌造り」はそれほど古い用語ではなく、1930年頃にフィールドワークを行なった研究者らによって使われはじめたと推測されている。その定義は一様ではないが、日本政府が世界遺産に推薦した際には、「小屋内を積極的に利用するために、叉首(さす)構造の切妻造り屋根とした茅葺きの家屋」と定義づけた。名称の由来は、掌を合わせたように三角形に組む丸太組みを「合掌」と呼ぶことから来たと推測されている。

合掌造り家屋の特徴である45〜60度の急傾斜の屋根は、豪雪地帯であるとともに、月の平均雨量が180mmに達するこの地域の気候条件に合わせて生み出されたもので、雪おろしの負担軽減や水はけを良くする効果を持つ。

合掌造り家屋の中では、家内工業として和紙漉き、塩硝作り、養蚕が行なわれていたが、このうち明治時代以降も継続され、家屋の大型化にも大きく寄与したのは養蚕業であった。養蚕は地域によっては住居と別棟を作って行うこともあったが、山間にあった集落では少しでも農地を確保するために、住居の屋根裏を活用する必要があったと考えられている。合掌造りが切妻屋根を採用したのも、入母屋造や寄棟造に比べて屋根裏の容積を大きく取れるからであると指摘されている。また、屋根の勾配を急にしたことは、屋根裏に二層もしくは三層の空間を確保することにつながり、豪雪への対策以外に養蚕業にとっても都合が良いものであった。屋根組みには釘を1本も使わず、丈夫な縄で固定する。これは、雪の重さや風の強さに対する柔軟性を生み、家の耐久性を増す工夫とされている。また、秋から冬にかけて、平均風速20mの風が吹く萩町では、家屋の妻側を南北に向けて、風を受け流すよう工夫されている。

合掌造りの家屋は、一般の家屋に比べて、床面積が広い。塩硝の生産には、広い床面積が不可欠だった。また、伝統的に大家族制が守られていたため、広い居住スペースを必要としていた。

合掌造りの家屋のもう一つの特徴は、「ウスバリ構造」である。ウスバリとは、小屋組[1]屋根を支える骨格構造の底辺(床)を構成する部分で、これにより小屋組と軸組は構造的、空間的に分離されていた。

合掌造りはその保全のために、30年から40年に一度のピッチで大規模な補修や屋根の葺き替えを行う必要がある。これは多くの人手と時間を要する大掛かりなものであり、住民総出で行われた。住民たちは近隣で「組」(くみ)と呼ばれる互助の組織を形成し、その単位を土台として「結」(ゆい)を行う。屋根の葺き替えにおいて重要な「結」は、鎌倉時代にこの地に根付いたとされる浄土真宗の信仰に起源を持つ

1930年代に日本の主要な建築物を見て回っていたドイツの建築家ブルーノ・タウトは、1935年(昭和10年)5月17日と18日に白川村を訪れ、同じ年の講演においてこう評した。

これらの家屋は、その構造が合理的であり論理的であるという点においては、日本全国を通じてまったく独特の存在である。

— ブルーノ・タウト、「日本建築の基礎」(於華族会館、1935年10月)

タウトのこの評言は、後に日本政府が世界遺産に推薦する際に、合掌造り集落が持つ顕著な価値の証明としてそのまま引用することになった。

(Wikipediaより)

集落による相違点

集落による相違点としては、煙抜きの有無があげられる。五箇山の家屋には屋根に煙抜きが設けられているが、白川郷には煙抜きがみられない。雪下ろし作業の際に煙抜きがあると邪魔になるが、五箇山の集落では1年中囲炉裏の火を絶やさないため、煙抜きがないと室内に煙が充満してしまう。また、入口にも「平入り」と「妻入り」の違いがある。白川郷では、屋根がある側に入口をもつ平入りの家屋が主流。反対に五箇山、特に菅沼では、切妻側に入口をもつ妻入りの家屋が多く、庇をつけた入母屋風の外見の家屋が一般的である。

歴史

白川郷(岐阜県大野郡白川村)と五箇山(富山県南砺市)は、いずれも飛越地方庄川流域の歴史的地名で、白川郷は上流域、五箇山は中流域である。この地域は、「白山信仰」の修験者や平家の落人伝説とも結びつきが深い。地名としての白川郷は12世紀半ば、五箇山は16世紀にそれぞれ確認できるが、合掌造りがいつ始められたのかは定かではない。江戸時代中期にあたる17世紀末に原型ができたと推測されている。

13世紀半ばには、白川郷を中心に浄土真宗が広まり、集落ごとにその寺院や布教のための道場が設けられていった。江戸時代の白川郷は高山藩領と浄土真宗照蓮寺領となり、前者はのちに天領となった。一方の五箇山は加賀藩領となり、塩硝生産が保護されていた。塩硝は火薬の原料となる硝酸カリウムで、五箇山では雑草と蚕の糞を利用して抽出する培養法が行われていた。五箇山は流刑地にもなっていた陸の孤島である分、原料調達の長所のほかに秘伝の漏洩を防ぐという意味でも適しており、稲作に不向きな土地柄で養蚕とともに発達した家内工業の一つであった。一帯では現在は水田が見られるが、それらのうち少なからぬ部分が戦後に転作されたものであり、もともとの農業の中心は、焼畑によるヒエ、アワ、ソバ、および養蚕のための桑である。ヒエやアワの収穫は自給分が精一杯であったから、その分家内工業の存在が大きくなった。

浄土真宗の思想はその後も長く浸透し、隔絶された環境に暮らす隣人同士の強い結束を育むとともに、相互扶助組織である「ゆい」など、この地域独自の社会制度を生み出す土壌となった。

紹介動画

白川郷、五箇山の合掌造り集落(前編)

白川郷、五箇山の合掌造り集落(後編)

白川郷の散策

世界遺産クイズ

世界遺産検定クイズ

UNESCO公式HP(英語版)へのリンク

https://whc.unesco.org/en/list/734

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