概要
文化遺産
資産名:
Historic Monuments of Ancient Nara
国名:日本
登録年:1998年
登録基準:(ii) (iii) (iv) (vi)
概要:
710年から74年間、平城京として栄えた歴史と文化を伝える遺産群で、東大寺、興福寺、元興寺、薬師寺、唐招提寺、春日大社、春日山原始林、平城京跡の8箇所から構成されています。平城京跡は初の考古学的遺跡として登録されています。また、春日山原始林は、古くから聖域として守られており、神社と一体化した自然が「文化的景観」として高く評価されています。
地図
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元明天皇によって唐の長安をモデルに造営された平城京は、道が碁盤の目状に配された計画都市。同時代に花開いた天平文化の中心地であった。東大寺には、752年、聖武天皇が発した詔により盧舎那仏(大仏)が建立された。薬師寺は、天武天皇が皇后(持統天皇)の病気平癒を祈願して建立したもの。唐招提寺は、759年、唐から来日した高僧鑑真が創建した講堂が起源。春日山原始林は、春日大社の社叢(神社の森)として古くから聖域として守られてきた。自然崇拝に根ざした日本固有の宗教観をあらわす例として、その文化的景観の価値が認められた。
登録基準の内容
登録基準 (ii)
8世紀に中国大陸や朝鮮半島から伝えられ、日本で独自に発展した仏教建造物群は、当時の日本の木造建築技術が高度な水準を有していたことを物語るとともに、日本と中国、朝鮮との間における密接な文化的交流の歴史を示している。平城京は、唐の長安などをモデルに造営された。
登録基準 (iii)
710年から784年までの74年間という限られた期間の都であった「平城宮跡」[1]平城京の中央北端に位置していた宮城跡。北端の平城京を中心として右京と左京に分かれており、他の都域としては例のない外京を、左京の東側に張り出す形で持っていた。は、失われた考古学的遺跡としての価値も高い。
登録基準 (iv)
登録対象の建造物群は、奈良時代の日本の寺院建築様式をよくとどめており貴重である。
登録基準 (vi)
登録された建造物群は、神道や仏教などの日本の宗教的空間の顕著な特徴を示している。各寺院、神社からは、宗教の影響力の下で律令制が日本全国に定着していき、寺院や神社の力が社会亜的、政治的に大きくなっていった様子が伝わる。春日大社の背後に広がる「春日山原始林」は、自然の山や森を神格化しようとした日本独特の神道思想を示すものである。
歴史
平城京は、奈良時代の日本の首都。藤原京から遷都するにあたり、710年、唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城。現在の奈良県奈良市、大和郡山市に存在する。
中央北域に宮城・平城宮(大内裏)を置き、東西8坊 (約 4.3km) の面積をもち、中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に二分され、さらに南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画され、全域が72坊に区画設定されていた。
平城京への遷都後、まず718年に元興寺と薬師寺が、飛鳥藤原地方から移築され、720年頃には興福寺の造営工事も始まった。745年には、国家鎮護のため東大寺の建造が発願された。751年には金堂(大仏殿)が完成し、さらに翌年には大規模な「大仏開眼法要」が盛大に執り行われた。745年には唐から鑑真が来日し、759年には唐招提寺の建立が始まった。春日大社の創建は768年とされるが、756年の「東大寺山堺四至図」では、春日山西麓の場所が「神池」とされていることから、それ以前に神社が完成していた可能性も指摘されている。
平安時代末の1180年、奈良は内乱に巻き込まれ、東大寺と興福寺では、伽藍の大部分が焼失するなど、壊滅的な被害を受けた。明治以降、「古社寺保存法」「国宝保存法」「史跡名勝天然記念物保存法」などが制定され、保護されるようになった。
春日山原始林のバッファー・ゾーンに含まれる若草山においてモノレールの建設が計画され、ICOMOSなどから計画変更などが求められた。
構成資産の紹介
世界遺産 東大寺
概観
東大寺は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗の大本山の寺院。正式には金光明四天王護国之寺ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。奈良大仏として知られる盧舎那仏を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。
盧舎那大仏の像立
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは天平15年(743年)である。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。難工事の末、ようやく大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・バラモン僧正菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。
世界遺産 興福寺
概観
南都七大寺の一つ。本尊は中金堂の釈迦如来。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。
歴史
藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺が当寺の起源である。和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子藤原不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。その後は、天皇や皇后、また藤原氏の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになった。
世界遺産 元興寺
概要
6世紀に蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退した。
世界遺産 薬師寺
概要
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して発願し、飛鳥の藤原京の地に造営が開始され、平城遷都後の718年に現在地の西ノ京に移転したものである。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地)に移転した。平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災によって金堂、東塔、西塔を残し、講堂、僧坊、南大門など多くの建物が焼失した。金堂前面の東西に白鳳文化の代表例とされる三重塔が立つ「薬師寺伽藍配置」で知られるが、現存する創建時の建物は東塔のみである。
1967年(昭和42年)、名物副住職として知られた高田好胤が管主に就任すると、翌1968年(昭和43年)から百万巻お写経勧進による白鳳伽藍復興事業が開始された。これにより、1976年(昭和51年)に金堂が再建されたのを始め、1981年(昭和56年)に西塔、1984年(昭和59年)に中門、1995年(平成7年)に東西回廊の一部、2003年(平成15年)大講堂などが次々と再建された。2017年(平成29年)には僧の食事に使われた食堂(じきどう)が再建され、復興事業はほぼ最終段階を迎えた。
世界遺産 唐招提寺
概要
唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名は当初は「唐律招提」と称した。「唐律招提」とは、「唐の律を学ぶ道場」の意であり、後に官額を賜ってから「唐招提寺」と称するようになった。
天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいた。彼らが揚州の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩国に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は天平勝宝7年(755年)から東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった。
金堂は、奈良時代の金堂建築として唯一残るもの。
世界遺産 春日大社
概要
奈良時代の神護景雲2年(768年)に平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る。藤原氏や朝廷の崇敬を受けて繁栄した。平安時代後期には興福寺と一体化されたが、明治の「神仏分離令」によって再び分けられた。主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。全国に約1,000社ある春日神社の総本社である。本殿は春日造で春日神と称される四柱が4棟に分かれて祀られている。
(Wikipediaより)
世界遺産 春日山原始林
春日山原始林は、春日大社の社叢(神社の森)として古くから聖域として守られてきた。841年に神域となって以来、1,000年以上にもわたって人の手が加えられていない自然が残されている。自然崇拝に根ざした日本固有の宗教観をあらわす例として、その価値が認められている。1955年には特別天然記念物に指定された。山中の水源には、枯渇しないように水神、雷神がまつられ、都の守護神とされていた。
世界遺産 平城京跡
世界遺産クイズ
世界遺産検定クイズ
UNESCO公式HP(英語版)へのリンク
https://whc.unesco.org/en/list/870