世界遺産プラハのクリスマス(CC: Flickr)

クリスマス特集

「世界遺産を学ぶ」クリスマス特集

2021年12月19日

はじめに

今年もクリスマス・シーズンになりました。世界遺産の街でも、クリスマスに向けての準備が着々と進んでいるようです。『世界遺産を学ぶ』のHPでも、この年に一度のイベントを記念して、「クリスマス特集」のページを開設することにしました。ユネスコの世界遺産は、もともと欧米諸国が中心になって始めたことなどの事情があり、キリスト教関係の遺産が多く登録されています。それだけに、クリスマスやイエス・キリストにちなむ建造物、遺跡、街並み、行事、芸術作品が世界遺産として数多く登録されています。そこで、今回は、とくに世界遺産の中でクリスマスに縁の深い場所をいくつかピックアップして、「クリスマスの世界遺産めぐり」を楽しんでいただきたいと思います。

世界遺産『ベツレヘム』:イエス・キリスト生誕の地

ベツレヘムのクリスマスはいま、

クリスマスのベツレヘム聖誕教会
Manger Square at Christmas, Bethlehem, Palestine
Photo by Ben & Gab, December 26, 2012 (CC: Flickr)

コロナの影響で、昨年の2020年12月25日、キリスト教の聖地ベツレヘムは寂しいクリスマスを迎えました(下のリンク『朝日新聞』記事を参照)。

キリスト教の聖地も寂しいクリスマス きっと来年は…:朝日新聞デジタル
キリスト教の聖地も寂しいクリスマス きっと来年は…:朝日新聞デジタル

 クリスマスを迎えたキリスト教の聖地が、閑散としている。新型コロナウイルスの感染拡大で都市封鎖が相次ぎ、祝祭の光景をも変えてしまった。 キリスト生誕の地とされるパレスチナ自治区のベツレヘム。例年、クリ ...

続きを見る

今年のクリスマスはどうでしょうか?『朝日新聞』の報道によれば、今年はベツレヘムでもクリスマスツリーが点灯され、花火も打ち上げられて、観光客の増加に向けて希望の灯火がともったとのことです。

ベツレヘムでクリスマスツリー点灯式 コロナで観光には打撃続く:朝日新聞デジタル
ベツレヘムでクリスマスツリー点灯式 コロナで観光には打撃続く:朝日新聞デジタル

 イエス・キリストの生誕の地とされるパレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区のベツレヘムで4日、クリスマスツリーの点灯式があった。新型コロナウイルスの影響で人出の少なかった昨年に比べ、今年は地元の人らが多数 ...

続きを見る

本文に進む前に、カーペンターズによる心温まる『きよしこの夜』(Silent Night)をお聴き下さい。

イエス・キリスト生誕の逸話

イエス・キリストが生まれたのは、紀元前4〜6年頃だといわれています。イエスが生まれた日付は聖書にも明記されていません。12月25日としたのは、キリスト教を初めて公認したローマ帝国のコンスタンチヌス帝(313年のミラノ勅令)の時代だったようです。コンスタンチヌス帝は、イエス・キリストが生まれたとされるベツレヘムの岩屋の上に聖誕教会を築きました。この頃から降誕祭が12月25日に行われるようになったと言われています。12月25日はもともと、地中海一帯で信仰されていた太陽神「ミトラス」の主祭日だったことも、イエス・キリストの生誕日をこの日に定めた大きな要因だったのではないかと思われます(若林, 2010)。

けれども、イエス・キリストが生まれたのが北半球では真冬の夜だったというのは、なにか神々しい「聖夜」にふさわしいお話だという気がします。クリスマスをめぐる無数の物語が紡ぎ出される格好の舞台といえるのではないでしょうか。

その「生誕の場所」と生誕のドラマに目を向けてみましょう。イエス・キリストはエルサレム近郊のベツレヘムで生まれたことになっていますが、これも聖書の記述に依る他はありません。イエスがベツレヘムで生まれたことは、新訳聖書のマタイによる福音書とルカによる福音書で簡単に触れられています。

マタイによる福音書の説明

マタイによる福音書では、東方の博士たちが星に導かれてベツレヘムへ行き、幼子のイエス・キリストを祝福し、贈り物を捧げたとあります。

イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は祭司長たちや民の律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ/あなたはユダの指導者たちの中で/決して最も小さな者ではない。/あなたから一人の指導者が現れ/私の民イスラエルの牧者となるからである。』」

そこで、ヘロデは博士たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、こう言ってベツレヘムへ送り出した。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから。」

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子がいる場所の上に止まった。博士たちはその星を見て喜びに溢れた。家に入ってみると、幼子が母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

(聖書協会共同訳『新訳聖書』マタイによる福音書, 2章より)

このように、マタイによる福音書では、東方の博士(Magi: 3人?)が、夜空の星に導かれて、幼子イエス・キリストを拝みに行くというストーリーになっています。この場面(adoration of magi)は、多くの絵画や降臨劇でも繰り返し描かれています。

東方三博士による幼子イエスの祝福(トロント聖ミシェル大聖堂)(CC: Flickr)

ルカによる福音書の説明

もう一つのイエス誕生の記述は、「ルカによる福音書」にみられます。ここでは、ベツレヘム地方の羊飼いたちが羊の群れの番をしていると、天使が現れ、救い主が生まれたことを告げ、「あなたがたは産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるだろう」と言ったので、羊飼いたちがベツレヘムへ行き、マリアとヨセフ、飼い葉桶の幼子イエスを捜し当てた、とされています。

マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。

さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」

すると、突然、天の大軍が現れ、この天使と共に神を賛美して言った。「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使から告げられたことを人々に知らせた。

(聖書協会共同訳『新訳聖書』ルカによる福音書, 2章より)

ベツレヘムにある『羊飼いの野の礼拝堂』(The Shepherds' Field Chapel)には、「ルカによる福音書」で羊飼いたちが天使からメシア生誕を告げられる場面の壁画があります。

羊飼いが天使から誕生告げられる場面(CC: Flickr)

羊飼いの野の礼拝堂 The Shepherds' Field Chapel

ベツレヘムの南東郊外に、『羊飼いの野の礼拝堂』という教会があります。この教会は、聖書の「ルカによる福音書」で天使が最初にキリストの誕生を告げたいわれる場所に建っています。

『羊飼いの野の礼拝堂』(CC: Flickr)

この近くの丘には洞窟があり、キリストの時代に羊飼いが避難場所として使っていたという言い伝えがあり、礼拝堂とともに、『羊飼いの野』としてクリスチャンの巡礼地になっています。

聖誕教会とキリスト生誕祈念碑

ベツレヘムでキリスト生誕関連のいちばんの中心は、聖誕教会です。ローマ帝国のコンスタンティヌス帝の時代に、イエス・キリストが生まれたとされていた洞窟の上に建設された聖堂で、339年に完成しました。ただし、この聖堂は6世紀火災で焼失し、モザイクの床がわずかに残っているだけです。ユスティニアヌス1世の時代に再建され、それが現在の聖誕教会の基礎になっています。

聖誕教会(Shutterstock)

この聖誕教会の地下洞窟には、イエス・キリストが生まれた場所という祭壇があり、シルバーの十四芒星が埋め込まれています。もちろん、これは聖書による言い伝えを再現したものにすぎません。

『イエス・キリストが生まれた』とされる場所(CC: Flickr)

イエス・キリストの生誕場面から生まれた数々の芸術、文化

このようにして、幼子イエスと、母のマリア、父のヨセフ、東方三博士、羊飼い、動物たちからなる馬小屋の生誕場面が聖書の二つの福音書によって作られました。これ以降、古今東西で数え切れないほどの絵画、彫刻、ミニチュアがつくられ、これらを題材として、音楽や劇、神話、装飾などがつくられてきました。以下では、こうしたクリスマスに関わる芸術、文化を世界各地の世界遺産をテーマとして探訪したいと思います。

ベツレヘムの洞窟でイエスを見守る人と動物たち(CC: Flickr)

オーストリア:『きよしこの夜』が誕生した地

世界中の誰もが知っている美しいクリスマス・ソングといえば、まず思い浮かべるのが『きよしこの夜』(Silent Night)ですね。まず、この純真無垢の少女が歌うSilent Nightをお聴き下さい。まさにクリスマスに歌う『聖夜』にふさわしいですね。

「きよしこの夜」の歌は、「平和と団結を象徴する」ということで、2011年にオーストリアのユネスコ無形文化遺産に登録されました。いまでは、300以上の言語に翻訳されて、世界中の人びとに愛唱されています。

Silent Night (英語)

Silent night, holy night!
All is calm, all is bright.
Round yon Virgin, Mother and Child.
Holy infant so tender and mild,
Sleep in heavenly peace,
Sleep in heavenly peace

Silent night, holy night!
Shepherds quake at the sight.
Glories stream from heaven afar
Heavenly hosts sing Alleluia,
Christ the Savior is born!
Christ the Savior is born

Silent night, holy night!
Son of God love's pure light.
Radiant beams from Thy holy face
With dawn of redeeming grace,
Jesus Lord, at Thy birth
Jesus Lord, at Thy birth

Stille Nacht(ドイツ語)

Stille Nacht, heilige Nacht,
Alles schläft; einsam wacht
Nur das traute hochheilige Paar.
Holder Knabe im lockigen Haar,
Schlaf in himmlischer Ruh!
Schlaf in himmlischer Ruh!

Stille Nacht, heilige Nacht,
Hirten erst kundgemacht
Durch der Engel Halleluja,
Tönt es laut von fern und nah:
Christ, der Retter ist da!
Christ, der Retter ist da!

Stille Nacht, heilige Nacht,
Gottes Sohn, o wie lacht
Lieb' aus deinem göttlichen Mund,
Da uns schlägt die rettende Stund'.
Christ, in deiner Geburt!
Christ, in deiner Geburt!

きよしこの夜(日本語)

きよしこの夜 星は光り
救いの御子みこ
馬槽まぶねの中に
(み母の胸に)
眠り給う いと安く(夢やすく)

きよしこの夜 御告げみつげ受けし
牧人まきびとたちは
御子の御前みまえ
ぬかずきぬ かしこみて

きよしこの夜 御子の笑みに
恵みの御代みよ
あしたの光
輝けり ほがらかに

(由木 康訳)

オーベルンドルフで初演された「きよしこの夜」

この「聖夜」が初演されたのは、1818年12月24日の聖夜、オーストリアの世界遺産の街ザルツブルク近郊のオーベルンドルフ (Oberndorf bei Salzburg)という町の教会のクリスマスミサでした。作詞者は、オーベルンドルフの聖ニコラウス教会の助任司祭ヨゼフ・モア。作曲者は、オーベルンドルフ近郊の村アルンスドルフの教師兼ニコラウス教会オルガン奏者フランツ・グルーバーでした。

オーベルンドルフの町を流れるザルツブルク川(CC: Flickr)

「きよしこの夜」教会(CC: Flickr)

「きよしこの夜」教会のグルーバー記念オルガン(CC: Flickr)

Silent Night : Kings College, Cambridge

The Story of "Silent Night" 「きよしこの夜」誕生の物語

いまでは世界中で歌われている聖夜のクリスマス・キャロル『きよしこの夜』ですが、それはオーストリアのザルツブルクのはずれにあった小さな町オーベルンドルフで2人の助任司祭によって作られました。上のYouTube動画にその経緯が簡単に紹介されています。若林ひとみ著『クリスマスの文化史』他の資料をもとに、この名曲がどのようにして生まれ、広がっていったかを振り返ってみたいと思います。

若林ひとみ『クリスマスの文化史』


オーベルンドルフの位置

これほど有名になったオーベルンドルフは、いったいどこにあるのでしょうか?Googleマップで検索してみると、ザルツブルクからザルツァッハ川に沿って北東に約20kmの地点にあることがわかります。ただし、それは現在のオーベルンドルフの町です。実際には、ザルツァッハ川の度重なる氾濫のため、同じザルツァッハ川の上流に町ごと移転していたのです。移転後に、聖ニクラウス教会は取り壊され、それに代わって1937年、「きよしこの夜」教会が建てられ、その横に「きよしこの夜博物館」と「きよしこの夜特別郵便局」が敷設されています。

1818年のクリスマス・イブに起こった奇跡

「きよしこの夜」(Stille Nacht)の歌が生まれた瞬間、それはまさにクリスマス・イブの奇跡といってもよい出来事でした。

1818年12月24日の寒い夜のこと。オーベルンドルフの聖ニクラウス教会の助任司祭ヨーゼフ・モア(Joseph Franz Mohr : 1792-1848)は、隣町のアルンスドルフまでの約3kmの道を歩いていました。手には、2年前に自ら作った詩(きよしこの夜)を携えていました。アルンスドルフに住む友人のフランツ・グルーバー(Franz Xaver Gruber: 1787-1863)に会って、詩に音楽をつけてもらおうと思ったのです。グルーバーは、アルンスドルフの教師兼聖ニクラウス教会の聖歌隊指揮者、オルガン奏者で、モアの親しい友人でもありました。

聖ニクラウス教会はザルツァッハ川の氾濫の被害を受け、オルガン演奏ができない状態にありました。そこで、モアはグルーバーに頼んで、自分が作った詩にテノールとバスと合唱、ギターの伴奏つきの曲をつけてもらうことにしたのです。

驚くべきことに、グルーバーはモアから受け取った詩をもとに、わずか数時間で曲を完成させました。モアはすぐに合唱団のメンバーを呼び集めて練習を行い、深夜の12時に聖ニクラウス教会のミサで「きよしこの夜」の初めての演奏を行ったのでした。モアがギターを弾きながら上のメロディを歌い、グルーバーが下のメロディを歌い、教会の聖歌隊が終わりの4小節を四声で繰り返したといわれています。

「きよしこの夜」はどのようにして世界に広まったか

「きよしこの夜」をこのオーストリアの小さな村から世界へと広める最初の橋渡し役(普及エージェント)になったのは、ツィラー渓谷のフュゲンというチロルの村に住む、オルガン職人のカール・マウラッハー(Karl Mauracher)でした。マウラッハーは、モアとグルーバーの共通の知人で、アルンスドルフとオーベルンドルフに何度か滞在し、アルンスドルフの巡礼教会と聖ニコラウス教会のオルガンを修理したり、1825年にはオルガンを再建したりしていました。このマウラッハーが「きよしこの夜」の楽譜をフュゲンに持ち帰り、1819年にはクリスマス・ミサでこのキャロルが演奏されていたようです。そして、フュゲンの教会の聖歌隊で歌っていたライナー兄妹がこれを拡げるのに一役買ったといわれています。

 

ツィラー渓谷(CC: Flickr)

ツィラー渓谷では、多くの家族が合唱団をつくり、冬場は各地に演奏旅行をして家計の足しにするという習慣がありました。ライナー・ファミリーもその一つで、1822年10月初旬には、フューゲン城の皇帝の間で、オーストリア皇帝フランツ1世とロシア皇帝アレクサンダー1世の前で演奏したことで、ライナー・ファミリーの歌唱団としてのキャリアがスタートしました。皇帝とツァーリは、ヴェローナ会議に出席するために立ち寄ってこの城を訪れていたのです。このコンサートで「きよしこの夜」が歌われたことは、伝説になっています。 ライナー・ファミリーは、1824年から1843年にかけて、さまざまな形で国際的なツアーを行いました。彼らはドイツ、イギリス、ロシアを訪れ、公園、旅館、サロン、コンサートホール、劇場などで歌い、人びとの注目を集めました。こうして、きよしこの夜は海外へと広がって行ったのです。ライナー・ファミリーはアメリカからも招待を受け、1839年にはニューヨークを訪れ、クリスマス当日、ハミルトン記念墓地で「チロルの歌」としてきよしこの夜を歌いました。これが、「きよしこの夜」のアメリカ初演でした。

もう一組、きよしこの夜を海外に広めるのに大きく貢献したのは、チロルのライマッハの旅商人一家のシュトラッサー・ファミリー合唱団です。シュトラッサー夫妻は、小さな農場のほかに手袋の取引も行っていましたが、夫人が亡くなり、父親のローレンツ・ストラッサーは、子供たちのアンナ、アマーリエ、カロリーヌ、ヨーゼフ、アレクサンダーとともに、近辺や遠方の市場に出向き、手袋、ベッドリネン、下着、包帯などを販売しました。商品に注目してもらうために、子供たちは歌のグループを作って、客の人気を博しました。1831年にはライプツィヒのクリスマス市に出店し、ここで「きよしこの夜」を歌いました。ライプツィヒのカトリック・ディアスポラ教区のオルガニスト兼カンタウトーレであるフランツ・アルシャーは、市内でこの歌を聞き、プレセンブルクのカトリック礼拝堂で行われるクリスマスのミサで、兄弟姉妹にこの歌を歌ってほしいと頼みました。チロルの合唱団は町の話題の中心となりました。出発前の1832年1月19日には、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスで行われたコンサートの合間に演奏しています。

シュトラッサー兄妹は1832/33年の冬に再びライプツィヒに戻り、1832年12月15日に旧オテル・ド・ケルンのホールで自分たちのコンサートを開きました。プログラムに含まれていなかったにもかかわらず、ライプツィガー・タグブラット紙に掲載された匿名の読者の手紙の要請に応じて、「きよしこの夜」が演奏されました。 このときも、まず1833年にはチラシで、1840年にはA.R.フリーゼの出版社(ドレスデンおよびライプツィヒ)で「きよしこの夜」の楽譜が印刷されました。

ライプツィヒでの成功を機に、シュトラッサー・ファミリーは歌に専念するようになり、旅回りの歌手集団としてドイツ各地を回りました。ベルリンでは、大聖堂の聖歌隊がクリスマスのミサで「きよしこの夜」を引き継ぎ、国王フリードリヒ・ウィリアム4世のお気に入りの歌となりました。それまでチロルの民謡とされていたこの曲について、1854年に謙虚なフランツ・グザバー・グルーバーがようやく自分が作曲者であると認めたのは、このおかげです。

サンタクロースがやってきた




 

聖ニコラウスとは誰か  Saint Nicholas

聖ニコラウスは4世紀頃、東ローマ帝国・小アジア(現在のトルコ)のミラの司教でした。ニコラウスは貧しい人々に惜しみない贈り物をしたことで有名で、特にある敬虔なキリスト教徒の貧しい3人の娘に、娼婦にならずに済むように持参金を贈ったことで知られています。

「ある時ニコラウスは、貧しさのあまり三人の娘を身売りしなければならなくなる家族の存在を知った。ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、窓から金貨を投げ入れた。このとき暖炉には靴下が下げられていており、金貨はその靴下の中に入ったという。この金貨のおかげで家族は娘の身売りを避けられた」(Wikipediaより)

この逸話が由来となり、「夜中に家に入って、靴下の中にプレゼントを入れる」という、サンタクロースの伝承が生まれたといわれています。

また、1087年、ニコラウスの遺骸はイタリア南部の都市であるバーリに移されたとも言われています。それによると、イタリアの都市バーリの商人たちが、ミラのギリシャ教会にある石棺からニコラウスの主要な骨を取り出したということです。ミラの修道士たちの反対を押し切って、船乗りたちは聖ニコラウスの骨をバーリに運び、現在はサン・ニコラ大聖堂に安置されています。バーリの船員は、ニコラウスの骨の半分だけを集め、細かい破片はすべて教会の石棺に残しました。これらはその後、第一回十字軍の際にヴェネツィアの船乗りが持ち帰り、ヴェネツィアのサン・ニコロ・アル・リドに船乗りの守護神である聖ニコラウスを祀る教会が建てられました。

このようにして、聖ニクラウス崇拝は9世紀にはイタリアやビザンチンに、10世紀頃にはライン川一帯やハンザ同盟都市に伝わり、12世紀にはフランスに広がりました。中部ヨーロッパ各地に多くの聖ニコライス教会が建てられました。オランダでは、アムステルダムの守護聖人にもなりました。

サンタクロースの誕生

オランダ語では、「聖ニクラウス」は「シンタクラース」(Sinterklaas)と言います。オランダでは14世紀頃から聖ニコラウスの命日の12月6日を「シンタクラース祭」として祝う慣習がありました。その後、17世紀アメリカに植民したオランダ人が「サンタクロース」と伝え、サンタクロースの語源になったようです。

サンタクロースの原型である「ファーザー・クリスマス」(Father Christmas)は、16世紀のヘンリー8世の時代のイングランドにまで遡ります。当時は、毛皮で裏打ちされた緑または緋色のローブを着た大柄な男性として描かれていました。ファーザー・クリスマスは、平和、喜び、美味しい食べ物やワイン、そして酒宴をもたらす、クリスマスの陽気な精神の典型でした。 ヴィクトリア朝のクリスマスでは、ファーザー・クリスマスは陽気さの象徴として扱われた。 その外見は様々でした。有名なイメージとしては、チャールズ・ディケンズの古典『クリスマス・キャロル』(1843年)に登場する「クリスマス・プレゼントの幽霊」をジョン・リーチが描いたものがあります。毛皮のついた緑のコートを着た大柄で温厚な男性が、クリスマスの朝にスクルージをロンドンの賑やかな通りに案内し、幸せな人々にクリスマスのエッセンスを振りまくというものです 。

サンタクロースが子供達にプレゼントを渡す日を、聖ニクラウス祭りの12月6日ではなく、クリスマスイブに変えたのは、マルティン・ルターだったと言われています。聖人崇拝を否定したマルティン・ルターは、12月6日の聖ニクラウス祭を廃止しようと思っていました。けれども、ルターの子供達が聖ニコラウス祭の贈り物を楽しみにしていたことから、聖ニクラウス祭の代わりに、「聖なるキリスト」が12月24日のクリスマスイブに贈り物を持ってくることを思いついた、ということです。

サンタクロースはアメリカ生まれか?

このように、サンタクロースの原型は聖ニクラウスであり、それがクリスマスイブに贈り物を届けるファーザー・クリスマスへと受け継がれたわけですが、それが今日のサンタクロースに大変身を遂げるのは、オランダのピューリタンたちが新大陸のアメリカに渡ってからのことです。

しかし、サンタクロースは本当にオランダ移民と一緒にアメリカに渡って今日ある姿に変容していったのでしょうか?それとも、この通説とは違う、別のサンタクロースの歴史が隠されているのでしょうか?以下では、「通説」と「異説」をそれぞれ紹介し、サンタクロースの真実を明らかにしていきたいと思います。

トナカイの引くソリで空を飛ぶサンタクロース(CC: Flickr)

ジョーンズによる通説

アメリカにおけるサンタクロースの由来についての通説ができたのは、1953年にカリフォルニア州立大学バークレー校の歴史学教授だったチャールズ・W・ジョーンズ(Charles W. Jones)がニューヨーク歴史教会で行った講演と、そのあとに発表した「オランダ移民のサンタクロース」("Knickerbocker Santa Claus")という論文によってだといわれています。それによると、サンタクロースは4世紀の司祭ミラの聖ニコラウスのアメリカ版であり、それがオランダで人気のある贈り物の主になり、ワシントン・アーヴィンが1809年発行の『ニューヨークの歴史』の中でオランダの伝統をニューヨークに持ち込んだのだ、としています。通説によれば、サンタクロースをニューヨークに持ち込み、アメリカ独自のサンタクロース像を広く普及させた立役者としてあげられているのは、ワシントン・アーヴィン(Washington Irving)、クレメント・ムーア(Clement Clark Moore)、トーマス・ナスト(Thomas Nast)の3名です。以下、ジョーンズの論文("Knickerbocker Santa Claus")と、若林ひとみさんの解説(『クリスマスの文化史』)をもとに、通説に沿ってサンタクロースのアメリカでの誕生と成長のストーリーを追ってみたいと思います。

Knickerbocker Santa Claus ::: St. Nicholas Center
Knickerbocker Santa Claus ::: St. Nicholas Center

Everything about St Nicholas: stories, customs, crafts & more.

続きを見る

ジョーンズによれば、1809年12月6日、26歳の若き作家ワシントン・アーヴィン (Washington Irving)が『ニューヨークの歴史』という本を出版し、その中で、ニューアムステルダム(現在のニューヨーク)に入植したオランダ人が、聖ニコラスの祝日である12月6日の前夜に聖ニコラスが暖炉に吊したストッキングにプレゼントをい入れるというオランダの伝統をアメリカに持ち込んだとしています。ジョーンズはこの論文の中で、「サンタクロースはワシントン・アーヴィンが作った」とはっきり述べています。

クレメント・クラーク・ムーアの詩

現代のサンタクロース像を最初に作ったのは、クレメント・クラーク・ムーア(Clement Clarke Moore)だったと言われています。それによると、コロンビア大学の神学教授だったムーアは、1822年のクリスマス・イブに、「聖ニコラスの訪問」(A Visit from St. Nicholas)という詩をチェルシーの自宅に集まった家族や親戚の前で読み聞かせました。この詩の内容はおよそ次のようなものでした。

クリスマスイブの夜、家族が眠りにつこうとしていた時、父親が外の芝生の上で物音がするのに気づく。窓の外を見ると、8頭のトナカイに引かれたそりに乗った聖ニコラスの姿があった。そりを屋根に着けた聖ニコラスは、おもちゃの入った袋を持って煙突から家の中に入ってきた。暖炉のそばに吊るされたストッキングに、聖ニコラスがおもちゃを詰めるのを見て、父親は思わず笑ってしまった。聖ニコラスは再び煙突を登って行った。聖ニコラスは、"すべての人に幸せなクリスマスを、そしてすべての人におやすみを "と言って飛び去っていくのでした。(Wikipediaより)

詩の原文とその日本語訳を以下に引用しておきます。

‘Twas the night before Christmas, when all through the house
Not a creature was stirring, not even a mouse;
The stockings were hung by the chimney with care,
In hopes that St. Nicholas soon would be there;

The children were nestled all snug in their beds,
While visions of sugar-plums danced in their heads;
And mamma in her ‘kerchief, and I in my cap,
Had just settled down for a long winter’s nap,

When out on the lawn there arose such a clatter,
I sprang from the bed to see what was the matter.
Away to the window I flew like a flash,
Tore open the shutters and threw up the sash.

The moon on the breast of the new-fallen snow
Gave the lustre of mid-day to objects below,
When, what to my wondering eyes should appear,
But a miniature sleigh, and eight tiny reindeer,

With a little old driver, so lively and quick,
I knew in a moment it must be St. Nick.
More rapid than eagles his coursers they came,
And he whistled, and shouted, and called them by name;

“Now, Dasher! now, Dancer! now, Prancer and Vixen!
On, Comet! on Cupid! on, Donder and Blitzen!
To the top of the porch! to the top of the wall!
Now dash away! dash away! dash away all!”

As dry leaves that before the wild hurricane fly,
When they meet with an obstacle, mount to the sky,
So up to the house-top the coursers they flew,
With the sleigh full of toys, and St. Nicholas too.

And then, in a twinkling, I heard on the roof
The prancing and pawing of each little hoof.
As I drew in my hand, and was turning around,
Down the chimney St. Nicholas came with a bound.

He was dressed all in fur, from his head to his foot,
And his clothes were all tarnished with ashes and soot;
A bundle of toys he had flung on his back,
And he looked like a peddler just opening his pack

His eyes—how they twinkled! his dimples how merry!
His cheeks were like roses, his nose like a cherry!
His droll little mouth was drawn up like a bow,
And the beard of his chin was as white as the snow;

The stump of a pipe he held tight in his teeth,
And the smoke it encircled his head like a wreath;
He had a broad face and a little round belly,
That shook, when he laughed like a bowlful of jelly.He was chubby and plump, a right jolly old elf,
And I laughed when I saw him, in spite of myself;
A wink of his eye and a twist of his head,
Soon gave me to know I had nothing to dread;

He spoke not a word, but went straight to his work,
And filled all the stockings; then turned with a jerk,
And laying his finger aside of his nose,
And giving a nod, up the chimney he rose;

He sprang to his sleigh, to his team gave a whistle,
And away they all flew like the down of a thistle.
But I heard him exclaim, ere he drove out of sight,
“Happy Christmas to all, and to all a good-night.”

それはクリスマスの前の晩、家中で
生き物は、ネズミさえも動かなくなったころ、
靴下は煙突のそばに下げられていて、
聖ニクラスが来るのを待っていた。

 

 

子供たちはベッドに寝静まって、
頭の中で砂糖入り菓子が踊っていて、

ママは布をかぶっていて、私は帽子をかぶり、
長い夜の眠りについた時に。

 

突然外の庭で大きな音がしたので、
私はベッドから飛び起きて、何だろうと思い、
窓のそばにいって、雨戸を開けた。

 

降ったばかりの雪の上に月が
昼間のように光を投げていた。

 

すると目の前に何と
小さなソリと八頭のトナカイが見えて、

 

御者が元気なおじいさんだったので、
聖ニックだとすぐ分かった

ワシよりも早くトナカイたちは飛んできて
おじさんは大声で名前を呼んだ。

 

 

「そらダッシャー、そらダンサー、それプランサー、ヴィクセン、
行けコメット、行けキューピッド、ドナー、ブリッツェン、
ポーチの上まで、煙突の上まで!
早く走れ、それ走れ、みんな走れ!」

 

ハリケーンの前で枯葉が舞うように、
何かにぶち当たると、ソリは空へ舞いあがる、
だからトナカイたちは家の屋根の上へ飛んで行った、
おもちゃがいっぱいのソリとサンタクロースを載せて。

 

私が驚いていると、屋根の上に
トナカイたちがコトコト動いているのが聞こえた。
頭を引っ込めて、ぐるりと回したら
サンタさんがポンと煙突を下りてきた。

おじさんは頭から足まで、毛皮の服を着て、
それが灰とススにまみれていた。
後ろにはおもちゃを沢山背負って、
包を開く前の行商人のようだった。

 

目が光っていて、えくぼが幸せそうで、
頬は紅色で、サクランボみたいだった。
小さな口を弓のようにして、
あごには雪のように白いヒゲを生やして、

歯にはパイプをきつくかんで、
煙が花輪のように頭をめぐっていた。

おじさんの顔は広くて、丸いお腹は
笑う時に震えて、ジェリーが入ったボウルのようだった。
かわいく太っていて、愉快な妖精のようだった。

思わず笑ってしまった私に
目をウィンクして、頭をかしげたので、

何も怖くないとすぐ分かった。

言葉は何も言わなくて、すぐ仕事に取り掛かって、
靴下をいっぱいにして、くるりと身を回して、
そして指を鼻の脇に置いて、
それからうなづいて、煙突を登っていった。

 

それからソリに飛び乗って、トナカイたちに口笛を吹いて、
枯草が舞うように、飛んでいってしまった。

でも見えなくなる前に、おじさんが叫ぶのが聞こえた。
「クリスマス、おめでとう!みんな、お休み!」

(Wikipediaより)

ムーアが子どものために作ったこの詩は、1823年12月23日に"Account of a Visit from St. Nicholas" として、匿名で『The Troy (N.Y.) Sentinel』誌に掲載されました。この詩をきっかけとして、クリスマス・プレゼントを贈る人が増え、クリスマス・プレゼントというアメリカの習慣が標準化されていった、といわれています。この詩は、これ以後200年間に1000回以上も出版され、アメリカでもっとも人気の高い詩、もっともすぐれた詩として評価されています。アメリカでは、この詩が多くの家庭で子供達に朗読されています。

ソリに乗ったサンタクロースの誕生

ムーアの書いた詩には、クリスマス・イブに聖ニコラスがソリに乗って煙突からプレゼントを届ける様子が描かれていました。けれども、この詩には挿絵はついていませんでした。現存するソリに乗ったサンタクロースの最初の絵は、1821年に出版された『子供達の友達』(Children's Friend)という本に載った挿絵でした。この本は、1941年にアメリカ個物商協会会長のクラレンス・ブリガムが発見した3巻本の第3部です。挿絵の作者はアーサー・スタンズベリーです。これが、世界初のトナカイの引くソリに乗ったサンタクロースの絵だったといわれています。1821年というのは、ムーアがサンタクロースの詩を作る1年前ですから、ムーアがこの絵をヒントにしたことも考えられます。

アーサー・スタンズベリー画(1821年)
「年取ったサンタクロース」
(Tom A. Jerman,"Santa Claus Worldwide"より)

トーマス・ナストによるサンタクロースの大衆化

サンタクロースが当初の聖ニコラスのような聖人のイメージから脱して、満面笑みをたたえた陽気なおじいちゃんへと変身する上で大きな役割を果たした人物といえば、風刺画家のトーマス・ナスト (Thomas Nast)をあげないわけにはいきません。現代風のサンタクロースのイメージを定着させたのは、トーマス・ナストだったと言ってもさしつかえないでしょう。

トーマス・ナストは、1840年、ドイツのランダウで生まれましたが、6歳のときに母親とともにニューヨークに渡り、画才を活かして報道画家となり、数多くの政治風刺画や戦争画を描きました。それと並行して、サンタクロースの漫画も描いて人気を博しました。ナストは1863年、『ハーパーズ・ウィークリー』誌の美術部責任者として採用され、これ以降同誌に数多くの挿絵を掲載しました。

ナストがハーパーズ・ウィークリー誌に初めてサンタクロースを描いたのは、1863年1月3日号で、"Santa in Camp"という絵でした。南北戦争中の北軍兵士にソリの後ろから物資を配っている様子を描いたものです。

Thomas Nast "Santa in Camp" (Wikipediaより)

ナストによるもっとも感動的なクリスマスの絵は、1863年12月26日にハーパーズ・ウィークリー誌に掲載されたもの(下の写真)でしょう。

Thomas Nast, Christmas Morning (CC: Flickr)

この絵の中央には、南北戦争中にクリスマス休暇で帰郷した兵士が妻と子供達から心温まる歓迎を受けている様子が描かれています。左側の絵は、贈り物を詰めた袋を背負ったサンタクロースが暖炉から出てきて、ベッドで眠る子供達を見つめている様子が描かれています。右側の絵は、翌朝目覚めた子供達がストッキングから贈り物を取り出して喜んでいる様子が描かれています。下の中央の挿絵は、クリスマスのディナーで家族が揃ってお祈りをしている様子が描かれています。これらは、いずれも現代のクリスマスと共通するものがあり、興味深いですね。

これ以降、ハーパーズ・ウィークリー誌では、ナストによるクリスマスとサンタクロースの挿絵は、クリスマス・シーズンの定番になり、ナストは売れっ子の挿絵画家として大活躍することになりました。

Thomas Nast 肖像写真(CC: Flickr)

1863年には、早くもナストによるサンタクロースの肖像が確立していたことが、いくつかの挿絵によって分かります。

Thomas Nast 1862 (CC: Flickr)

Thomas Nast, The Coming of Santa Claus (CC: Flickr)

Thomas Nast 1881 (CC: Flickr)

参考文献:

Tom A. Jerman, 2020, Santa Claus Worldwide: A History of St. Nicholas and Other Holiday Gift-Bringers. McFasrland & Company.
若林ひとみ, 2013, 『クリスマスの文化史』白水社

-クリスマス特集