概要
文化遺産
資産名:
平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群ー
Hiraizumi – Temples, Gardens and Archaeological Sites Representing the Buddhist Pure Land
国名:日本
登録年:2011年
登録基準:(ii) (vi)
概要:
平泉には、仏教の中でも、とくに浄土思想にもとづいて造られた寺院、庭園、遺跡が点在しており、このうち中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の5資産が世界遺産として登録されています。平泉の遺跡群は、11世紀から12世紀にかけて東北の豪族だった藤原清衡とその一族が、浄土の世界観をもとに東北の地に極楽浄土を実現しようとして築いたもので、日本古来の自然崇拝や神道と融合した浄土信仰を表しています。
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世界遺産登録の経緯 ー 「平泉ショック」とその後
2006年12月、日本政府は「平泉 - 浄土思想を基調とする文化的景観」という登録名で推薦書をパリの世界遺産センターに提出した。このときの構成資産は中尊寺、毛越寺、無量光院跡、金鶏山、柳之御所遺跡、達谷窟(以上平泉町)、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺跡(以上奥州市)、骨寺村荘園遺跡と農村景観(一関市)の9件であり、登録名にもあるように、周辺の自然環境と寺院群によって浄土が再現された文化的景観としての申請であった。
2007年8月27日から29日には、ICOMOS の専門家ジャガス・ウイーラシンハ(スリランカ人の美術史家・考古学者)が現地を視察した。ICOMOS はその視察結果も踏まえて2008年5月に「登録延期」を勧告した。2008年7月の第32回世界遺産委員会では、ICOMOSの勧告通り「登録延期」と決議された。
日本政府が推薦して登録が認められなかった物件は平泉が初めてであり、暫定リスト記載物件を抱える、あるいは暫定リスト入りを目指していた日本の他の自治体にも衝撃を与え、関係者からは「平泉ショック」などと呼ばれたりもした。「登録延期」決議を踏まえて再検討をした結果、日本政府や岩手県は ICOMOS の勧告に従い、基準 (ii) に基づく推薦に切り替えることを2009年に決めた。そのため、登録名を「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」と変更し、ICOMOS から除外すべきと指摘されていた達谷窟、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺跡、骨寺村荘園遺跡の4件の除外を決め、残る6件の資産で再構成することになった。平泉の文化遺産は2011年(平成23年)6月19日から29日に開催された第35回世界遺産委員会(パリ)で審議され、6月26日に世界遺産リストへの登録が決議された
概要
6世紀に中国、朝鮮半島を経由して伝来した仏教は、日本古来の自然崇拝と融合しながら独自の発展を遂げた。平泉は、大陸から伝来した伽藍建築に関する理念や意匠、技術、作庭思想が、日本古来の伝統と融合しながら独自に発展し、広がっていった過程を証明している(登録基準ii)。
浄土思想は、阿弥陀如来を信仰し、西方極楽浄土に往生することを目指す思想である。日本では特に平安末期の末法思想の流行や、それを裏付けるかのように相次いだ戦乱と相俟って、人々の間に浸透していった。ことに平安末期の有力者たちへの浸透は、多数の来迎図の作成や阿弥陀堂の建立、浄土式庭園の作庭などに結びついた。奥州藤原氏の初代清衡も仏教に深く傾倒し、相次ぐ戦乱の犠牲者たちが敵味方の区分なく浄土に往生できるように、中尊寺を建立した。
藤原清衡は堀河天皇の勅命を受けて中尊寺を再興し、金色堂を建立した。2代基衡は毛越寺を再興。無量光院は3代秀衡が造営している。浄土思想は日本人の死生観の醸成に重要な役割を果たし、当時の建築や庭園にもその思想があらわれている。金色堂は、阿弥陀如来の仏国土(浄土)を表現した仏堂建築であり、自然崇拝と仏教の融合は、庭園設計と造園によって仏国土(浄土)を現世に創り上げるという、日本独自の方法を編み出した(登録基準vi)。
浄土思想と世界遺産
浄土思想は、阿弥陀如来を信仰し、西方極楽浄土に往生することを目指す思想である。日本では特に平安末期の末法思想の流行や、それを裏付けるかのように相次いだ戦乱と相俟って、人々の間に浸透していった。ことに平安末期の有力者たちへの浸透は、多数の来迎図の作成や阿弥陀堂の建立、浄土式庭園の作庭などに結びついた。浄土式庭園は、建造物群、池、橋などが織りなす景観を浄土と関連付け、その存在を視覚的・体感的に認識させようとする営為である。
奥州藤原氏の初代清衡も仏教に深く傾倒し、相次ぐ戦乱の犠牲者たちが敵味方の区分なく浄土に往生できるように、中尊寺を建立した。その中で彼が最初に建立したのは多宝堂だが、そこで採用した様式は、京都などで一般的だった大日如来に見立てる密教系の様式ではなく、東アジアで主流となっていた様式、すなわち法華経に題材を採った「釈迦多宝二仏並座」の様式であった。この点は平泉の仏教が備えていた自立性と国際性を示すものとされる。また、「釈迦多宝二仏並座」の多宝堂は宇宙の中心を象徴するものであり、彼が幹線道路である「奥大道」沿いに笠卒塔婆や伽藍を整備しようとしたという伝承とともに、清衡が東北日本にある種の「仏教王国」を築こうとした意図の表れとも指摘されている。
この時点での浄土思想は、平泉における仏教思想の中枢を占めてはいなかったが、3代秀衡の無量光院建立に至って、浄土教が中心的地位を占めるようになった。その過程で浄土思想と深く結びつく建造物や庭園群が建立されるとともに、平泉は仏教色の強い大都市として整備されていった。世界遺産の主要部分はそれらの寺院(跡)の数々によって構成されており、かつて平泉に展開された仏教的な平等主義と平和主義の理想を今に伝えている。
世界遺産は、金鶏山を含む5つの資産で構成される。中尊寺、毛越寺、観自在王院、無量光院の4つの寺院は、それ自体が仏国土を表現した庭園を備えていた。平泉中央部の西側に位置する金鶏山は、仏国土(浄土)の方角を象徴する意味を持つ聖地とされ、山頂部には経堂などが置かれていた。
歴史
平泉は北を衣川、東を北上川、南を磐井川に囲まれた地域である。この地を11世紀末から12世紀にかけて約90年間拠点としたのが、藤原清衡に始まる奥州藤原氏である。「平泉」という地名を史料的に確認できる最古の例は『吾妻鏡』の文治5年(1189年)の項目で、時期的に重なっている。その語源は、泉が豊富だったという地形的要因に基づく説がある一方で、仏教的な平和希求の理念に基づくという説もある。
藤原清衡は康和年間に平泉に本拠地を移し、政庁となる「平泉館」を建造した。さらに中尊寺を構成する大伽藍群を建立していったが、この時点の平泉にはその2つの建造物群しかなく、都市機能は衣川を挟んだ対岸の地区にあった。当時、平泉を含む日本の北方地域と京都を中心とする中央政権の間では、奥州の主要な産出品であった金などによる交易が盛んに行われていた。その財力を背景に、清衡は「浄土思想」の宇宙観に基づく「現世の仏国土(浄土)」の実現を目指した。
中尊寺金色堂建立の頃を境に建造物は南へと伸長していくようになり、奥州藤原氏2代目当主の基衡の時代には、平泉館での新しい中心地となる大型建物の新築、慈覚大師円仁によって開かれた毛越寺の建立やそれに合わせた東西大路の整備などが行われ、都市機能が着実に整備されていった。基衡の死後には、その妻によって毛越寺の東に隣接する観自在王院も建立された。3代目の秀衡の時代には、平泉館の大改築、無量光院の建立やそれにともなう周囲での新市街の形成など、平泉全体の都市景観が大きく様変わりした。初代から3代のそうした変化を、順に「山平泉」「里平泉」「都市平泉」と位置付ける者もいる。
1187年、源頼朝の弟である源義経が、兄の追討を逃れて秀衡のもとに身を寄せたが、1189年、4代泰衡は、頼朝の力を恐れ、義経を自害に追い込んだ。しかし同年、源頼朝によって滅ぼされ、平泉に込められた独自の仏教理念が引き継がれることはなかったが、平泉の建造物群については保護された。それに関連し、頼朝は平泉陥落直後(1189年)に中尊寺や毛越寺の僧侶に対し、報告書の作成と提出を命じた。それが『吾妻鏡』文治5年9月17日条に収録された「寺塔已下注文」で、当時の平泉を窺い知る上での一級史料と評価されている。後の時代の火災などによって失われた建造物群も少なくないが、昭和から平成にかけての発掘調査などによって、寺院跡などが発見・復元されるようになっている。
室町時代になると、平泉の寺院群は、参詣の霊場として一般の庶民からも信仰を集めるようになり、再び繁栄期を迎えた。中尊寺の参道である月見坂が整備された江戸時代以降は、俳人の松尾芭蕉をはじめ、多くの文人墨客がこの地を訪れた。
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐ つて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
松尾芭蕉『奥の細道』より
主な構成資産
中尊寺
寺伝によれば開山は9世紀の円仁で、中尊寺の寺号は清和天皇より下賜されたものという。ただし、中尊寺の寺観が整ったのは、12世紀の藤原清衡による伽藍造営時である。清衡は前九年の役で父と安倍一族、後三年の役で弟など相次いで家族を亡くしたこともあり、敵味方を区別せずに戦没者の魂を浄土へ導くことと、東北に優れた仏教文化を根付かせることを目指し伽藍を建立した。1126年の建立に関わる『供養願文』には、奥州の戦で亡くなった人の霊を敵味方の区別なく浄土へ導くとともに、辺境とされた奥州の地に現世の仏国土(浄土)を築こうとした清衡の強い願いが示されている。
金色堂は国宝に指定されている阿弥陀堂である。藤原清衡によって建立され、棟木銘から1124年(天治元年)に完成したことが判明する。高さ8m、平面の一辺が約5.5m で、堂内外の全面に金箔を張り、柱や須弥壇には蒔絵、螺鈿、彫金をふんだんに使った華麗な装飾がほどこされている。阿弥陀如来の仏国土(浄土)を表す方三間[1]伝統的な日本建築の1つ。正方形の一辺に柱が4本あり、柱の間が3つある(三間)ということ。寸法の間とはちがう。の仏堂建築は、同形式の阿弥陀堂建築の中では国内最古のもの。中尊寺では唯一現存する創建当時の建造物である。
毛越寺(もうつうじ)
毛越寺は平泉町の寺院である。2代基衡が造営、慈覚大師円仁が開山。。1226年の火災で多くの伽藍が失われ、1573年に完全に焼失した。そのため、当時の本堂は残っていないが、浄土式庭園は特別名勝に、境内は特別史跡に指定されている。当時としては最大級の規模を誇る寺院であった。『吾妻鏡』の「寺塔已下注文」によれば、中尊寺が「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」に対し、毛越寺は「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」とされていた。堂宇の南側には大きな園池が広がり、北東側に設けられた遣水は平安時代の遺構としては日本で唯一かつ最大。
観自在王院跡
観自在王院は2代基衡の妻によって建立された寺院だが、1573年に焼失した。昭和時代の二度にわたる発掘調査と、修復事業(1973年 - 1978年)によって、当時の姿を偲ばせる庭園が復元された。園池を中心とする浄土庭園で、背後の金鶏山と一体となった景観によって阿弥陀如来の極楽浄土を表現していた。
無量光院跡
『吾妻鏡』は3代藤原秀衡が宇治の平等院鳳凰堂を模して、12世紀後半に建立したと伝えており、1952年の発掘調査の結果もそれを支持するものであった。平泉で京都の様式を全面的に模した寺院が建立されたのはこれが初めてで、京都に比肩する北の王都を建造しようという秀衡の意図の表れと指摘されている。
金鶏山
平泉中心部の西に位置する標高98.6mの小丘。平泉中心部から目視できる位置にあるため、古くから方位を示す目印とされ、居館などを築く際にその位置関係が重視された。金鶏山は奥州藤原氏の都市計画において基準点をなしたと推測されており、山頂の真南には毛越寺境内や幹線道路と直行する道路の端が存在している。また、彼岸の時期に無量光院の堂宇を庭園の中島から眺めると、堂宇の背景で金鶏山の山頂と日没が重なるように見ることができたとされ、単なる基準点にとどまらず、西方極楽浄土を想起させる空間設計上も重要な位置を占めた。
世界遺産クイズ
世界遺産検定クイズ
UNESCO公式HP(英語版)へのリンク
https://whc.unesco.org/en/list/1277