文化遺産
遺産名:
頤和園:北京の夏の離宮と皇帝庭園
Summer Palace, an Imperial Garden in Beijing
国名:中国
登録年:1998年
登録基準:(i)(ii)(iii)
概要:
頤和園(いわえん)は、中華人民共和国北京市海淀区に位置する庭園公園。中国の歴代皇帝により整備され、面積は297haと広大である。園地の大部分を占める人工湖「昆明湖」と高さ60mの人工山「万寿山」が特徴である。1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
頤和園が現在の規模になったのは清朝6代皇帝乾隆帝の時代で、当時は「清漪園」と呼ばれていた。1750年(乾隆15年)、乾隆帝は母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い、西湖の西に高水湖及び養水湖を掘削し拡張した。乾隆帝は3つの湖を合わせて「昆明湖」と命名した。これは漢の時代に漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因む。また、湖の掘削で発生した土砂を利用して甕山を拡大し「万寿山」と改称した。1764年(乾隆29年)、洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が概ね完成した。湖の水は農業用水としても利用された。当時の清漪園は居住及び政務施設が乏しかったため乾隆帝の行幸は日帰りに限られていた。
1875年に即位した光緒帝はわずか3歳で、実権は母の姉にあたる西太后が掌握した。西太后は自身の居所である清漪園の再建に莫大な費用をかけた。工事は1884年から1895年にかけて行われ、完成後「頤和園」と改称された。しかし、この経費は北洋艦隊を整備する海軍予算を総理海軍事務衙門大臣であった醇親王奕譞を通して流用したもので、清朝の軍備増強に大きく影響し、日清戦争敗北の原因の1つになったと言われている。1900年(光緒26年)、義和団の乱を鎮圧すべく出兵した八ヶ国連合軍の一部により破壊を受けたが、1902年(光緒28年)に修復されている。
中華民国が成立すると頤和園は清室の私有財産とされ、1914年には有料での一般開放がなされた。1924年に溥儀が紫禁城から放逐されると、頤和園は北平特別市政府に接収され公園とされた。
(Wikipediaより)