キルワ・キシワニの遺跡 , Flickr

タンザニア 検定1級 負の遺産

キルワ・キニワニとソンゴ・ムナラの遺跡

2021年11月24日

文化遺産、負の世界遺産
遺産名:
キルワ・キニワニとソンゴ・ムナラの遺跡
Ruins of Kilwa Kisiwani and Ruins of Songo Mnara
国名:タンザニア
登録年:1981年
登録基準:(iii)
概要:
キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群(キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラのいせきぐん)は、タンザニアにあるユネスコの世界遺産に登録されている物件のひとつ。キルワ島は中世には重要な交易地として栄えた。現在は木々に埋もれて廃墟と化した遺跡が残るのみである。

キルワ島は東アフリカ(現タンザニア領内)沖に浮かぶ島で、イスラム教徒のコミュニティが今もある。

9世紀に、この島は商人アリ・ビン・アル=ハサン (Ali bin Al-Hasan) に売り渡され、以降の数世紀にわたり、交易の拠点たる大都市として成長を遂げた。取引されていたのは、ジンバブエからの黄金や鉄、タンザニアからの象牙や奴隷、アジアからの繊維、宝石、陶磁器、香辛料などだった。

13世紀までに、マフダリ家 (Mahdali) の支配の下で、キルワは東アフリカ沿岸部最大の都市となり、その影響力はモザンビークにまで及んだ。モロッコの旅行家で学者のイブン・バットゥータは1330年頃にこの島を訪れ、「世界でもっとも美しい都市のひとつ」と評した。この時期よりあとに、フスニ・クブワ宮殿 (Palace of Husuni Kubwa) の建造や、キルワの大モスク (Great Mosque of Kilwa) の拡張が行われた。

大モスク跡 , Flickr

16世紀初頭に、ヴァスコ・ダ・ガマがこの優れた国から貢物を受け取ったが、それからほどなくしてポルトガルが支配下に置いた(1505年)。1512年まではポルトガルの手にあったが、その年にアラブ商人たちに奪還された。都市は幾許かの栄光を取り戻しはしたが、1784年にはザンジバル島に入植していたオマーンの支配を受けた。その後、フランスがキルワの島北端に要塞を築いたが、島自体も1840年に打ち棄てられた。1886年から1918年の間はドイツ領東アフリカの一部とされたが、本格的な考古学調査は1950年代に始まった。

特筆すべき廃墟は大モスク跡フスニ・クブワ宮殿  跡などである。

グレート・モスクは、タンザニアのキルワ・キシワニ島にある信徒用モスクである。創建は10世紀と思われるが、2つの大きな建設段階はそれぞれ12世紀または12世紀と13世紀にさかのぼる。スワヒリ海岸に現存する最古のモスクの一つである。

北側の小さな礼拝堂は、最初の建設段階のものである。9本の柱で支えられた16のベイは、最初は珊瑚で彫られていたが、後に木材に置き換えられた。全体的に屋根のある構造で、おそらくこの地域で中庭のないモスクとしては初めてのものだった。

フスニ・クブワの宮殿もキルワの著名な建造物である。宮殿の大部分は14世紀にスルタン・アル・ハサン・イブン・スレイマンが建てたもので、近くにあるキルワ大モスクの増築も行っているが、一部は13世紀にさかのぼる可能性もある。

宮殿は、インド洋を見下ろす高台に珊瑚石で造られており、スワヒリの建築様式を踏襲しています。主な構成要素は、主に商業施設として使われる南側のコート、100以上の部屋からなる居住施設、そして浜辺のモスクへと続く広い階段である。

2004年、キルワ・キシワニはユネスコの「危機に瀕した世界遺産リスト」に登録された。浸食や植生など様々な要因により、この2つの島の考古学的・記念碑的遺産が急速に悪化していることが深刻である。例えば、フスニ・クブワの宮殿の東側の部分は、徐々に失われつつある。雨水による土壌の侵食は、崖っぷちに残された建造物の崩壊の危険性を高めている。崖の上に生い茂る植物は、雨水の影響の進行を抑えているが、石積みの構造物の崩壊を引き起こしている。世界記念物基金は、2008年にキルワを「最も危機に瀕している100の遺跡」のウォッチリストに含め、2008年以降、様々な建物の保存作業を支援している。2014年にはリストから削除された。

The 18th century Makutani  Palace , Flickr

(Wikipediaより)

動画による紹介

世界遺産クイズ

キルワ・キニワニとソンゴ・ムナラの遺跡の説明として、正しいものはどれか

-タンザニア, 検定1級, 負の遺産
-