文化遺産
遺産名:
マサガン(アル・ジャジーダ)のポルトガル都市
Portuguese City of Mazagan (El Jadida)
国名:モロッコ
登録年:2004年
登録基準:(ii)(iv)
概要:
歴史上、アル・ジャディーダは、モロッコ人、古代ローマ人、ポルトガル人などがめいめいに呼んできたため、いくつかの異称を持っている。マザガン(マサガン)もその一つである。この町の最古の言及者は、カルタゴの航海者ハンノである。その数世紀後には、プトレマイオスが、彼の緯度表記でいうところの6度40分に位置する港ルシビス (Rusibis) に言及しているが、これは現在の北緯32度10分に位置するアル・ジャディーダに対応している。
時代が下ると、戦略的重要性からポルトガル人がこの町を占拠した。彼らは、1506年頃にマサガン砦を築き、1542年には町自体が要塞化され、分厚い壁がぐるりと取り囲む堅牢なシタデル(城塞都市)となったのである。
モロッコは長きに渡って町からポルトガル人を追い出そうとし、2世紀の間、絶えず攻撃を仕掛けたが、都市はこれに抵抗した。ポルトガル人はこの攻撃に長く持ちこたえるために水を蓄える必要があったことから、穀物庫を貯水槽に変えることを余儀なくされた。
しかし、1769年にシディ・モハメド・ベン・アブダラ (Sidi Mohamed Ben Abdallah) によって都市は陥落し、ポルトガル人は撤退した。なお、最後の攻撃に先立って、現地責任者は都市から撤退するように命令を受けており、全ての城壁に爆薬を仕込んでいったため、城壁が壊れた際の一連の爆発で攻撃側の多くの犠牲者が出た。この時期から19世紀初頭までは、アル・ジャディーダはマフドゥマ (Mahdouma) という名だった。1832年にスルタンのアブデラフマーヌ (Abd al-Rahman) が城塞の再建を決めるとともに、町の名前をアル・ジャディーダ(「新しいもの」)と改称した。1769年までポルトガル領であったため、現存する貯水槽や聖母被昇天聖堂などにはマヌエル様式、城塞にはルネサンス初期の様式がみられる。
今日のアル・ジャディーダはポルトガル人が築いた城塞都市を訪れる歴史愛好家、オーソン・ウェルズの足跡を辿る映画ファン、そして数え切れない避暑客たちを引き寄せる都市となっている。
(Wikipediaより)