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ガンビア プラス100 検定2級

クンタ・キンテ島と関連遺跡群

2021年11月24日

負の遺産
遺産名:
クンタ・キンテ島と関連遺跡群
Kunta Kinteh Island and Related Sites
国名:ガンビア
登録年:2003年
登録基準:(iii)(vi)
概要:
「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」は、ガンビアにあるユネスコの世界遺産登録物件のひとつである。構成資産の中心的位置を占めるクンタ・キンテ島は、セネガルの世界遺産であるゴレ島とともに西アフリカにおける奴隷貿易の中心地となってきた歴史を持ち、日本では負の世界遺産のひとつと位置づけられることもしばしばである。ただし、この物件はそれだけにとどまらず、後述するようにヨーロッパと西アフリカの交流の諸段階の様子を伝えていることも、登録理由の一つとなった。

当初のポルトガルと西アフリカの交易は友好的なものであり、現地の有力者の許可を得て拠点を築き、そこで金、象牙、香辛料などとヨーロッパの加工品の交換が行なわれた。ポルトガルのエンリケ航海王子によって派遣されたアルヴィーゼ・ダ・カダモストは、1456年にガンビア川を遡上し、地元の小王国の首長バッティマンサと一種の友好条約を結び、交易を行なった。アルブレダ村とその周辺に残るサン・ドミンゴの小集落やポルトガル人の礼拝堂といった遺跡群は、それから間もない時期に築かれたものである。ただし、その後、ポルトガル人の入植は減退していく。カダモストらがガンビア川に積極的に繰り出したのは、そこに多くの黄金が存在していると聞いていたためだが、苛酷な環境の割には大した量の黄金が手に入らなかったからである。

その後、西インド諸島や南北アメリカ大陸でのプランテーション経営の拡大などを受けて、黒人奴隷を商品とする大西洋奴隷貿易が行われるようになり、16世紀後半になるとイギリス人の貿易商会もこの地に進出するようになった。

セネガル川からガンビア川にかけてのセネガンビア地方は大西洋奴隷貿易の初期において、特に重要な奴隷供給地となった。ガンビア川は外洋船でも上流へ300 km以上遡上できる川であり、内陸部の交易部族であったジャハンケ人との交流にも活用された。ジャハンケ人は象牙のほかに奴隷も扱った。16世紀には、ジョロフ王国やマリ帝国の崩壊にともなう民族対立などから、捕虜として奴隷にされる人々がおり、数多くの奴隷が輸出された。

ガンビア川における奴隷貿易の主要な拠点はジェームズ島(現クンタ・キンテ島)であり、1651年に要塞も築かれた。1661年からはイギリスがジェームズ島を支配し、以降、フランスなどとたびたび領有権を巡って争った。1660年にはイギリスで王立アフリカ企業会社が設立され、奴隷貿易を取り仕切った。この独占は1672年の王立アフリカ会社に引き継がれ、自由化された1698年以降は他の商人たちも奴隷貿易に参入した。しかしながら、セネガンビアからの奴隷の輸出は世紀ごとに減っていき、18世紀にはアフリカ全体の3%を占める程度に過ぎなくなった。この島から送り出された黒人奴隷は3世紀の間で300万人に及んだともいわれるが、現在のガンビア領内から連れて行かれた奴隷の正確な数は不明である。

クンタ・キンテ島, Flickr

イギリスは1807年に奴隷貿易の廃止を決め、ガンビア川流域でも違法な貿易を厳しく監視するようになった。この決定に対しては、貿易商人のみでなく、奴隷を商品としていた現地の首長にも反発する者がおり、彼らによって取締りが妨害されることもあった。今は首都になっているバサースト(現バンジュール)の建設は1816年のことだが、当初は違法な奴隷貿易を監視するための拠点づくりが目的とされていた。その都市に設置された六連砲台や対岸のバレン要塞は、密貿易の取り締まりに使われ、成果を挙げた

ガンビア一帯が経験してきた奴隷貿易は、アフリカ系アメリカ人作家アレックス・ヘイリーの小説『ルーツ』と、それを原作とするテレビドラマによって広く知られるところとなった。ヘイリーの先祖とされるクンタ・キンテもまた、ジェームズ島からアメリカ大陸に送られた黒人奴隷であった。この小説とドラマ以来、奴隷として世界に離散した人々の子孫が自らのルーツ探しのために、クンタ・キンテの出身地とされるジュフレや、クンタ・キンテ島などを訪れる事が増えたという。

Roots "Kunta" Africans Selling Africans (TV Series)

(Wikipediaより)

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関連動画へのリンク

Kunta Kinteh Island and Related Sites (UNESCO/NHK)

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