文化遺産、負の遺産
資産名:
ルワンダ虐殺の記憶の場:ニャマタ、ムランビ、 ギソジ、ビセセロ
Memorial sites of the Genocide: Nyamata, Murambi, Gisozi and Bisesero
国名:ルワンダ
登録年:2023年
登録基準:(vi)
概要:
1994年4月から7月にかけて、ルワンダ全土で推定100万人が、ツチ族を標的にし、穏健なフツ族やトワ族も処刑したフツ族の武装民兵組織「インテラハムウェ」によって殺害された。ジェノサイドの犠牲者は、4つの記念碑からなるこのシリアルサイト登録資産で追悼されている。これら4つの資産のうち2つは、大量虐殺の現場となった建物であり、1980年にニャマタの丘に建てられたカトリック教会と、1990年にムランビの丘に建てられた技術学校である。キガリ市のジソジの丘には、1999年に建てられたキガリ・ジェノサイド記念碑があり、25万人以上の犠牲者が埋葬されている。一方、西部州のビセセロの丘には、1998年に建てられた記念碑があり、絶滅させられるまでの2ヶ月以上、加害者に抵抗した人々の戦いを記憶している。(世界遺産センターHPより)
1990年、ルワンダ愛国戦線(RPF)は、主にツチ難民で構成された反政府武装集団であり、ウガンダの拠点からルワンダ北部に侵攻し、ルワンダ内戦を開始した。その後3年間、両陣営とも決定的な優位に立つことはできなかった。戦争を平和的に終結させるため、フツ族大統領ジュベナル・ハビャリマナ率いるルワンダ政府は1993年8月4日、RPFとの間でアルーシャ合意に調印した。しかし、1994年4月6日、ハビャリマナが暗殺され、権力の空白が生まれ、和平協定は終了した。翌日から虐殺が始まり、大多数のフツ族の兵士、警察、民兵が主要なツチ族と穏健なフツ族の軍事・政治指導者を殺害した。ジェノサイドの規模と残虐性は世界中に衝撃を与えたが、殺害を強制的に止めるために介入した国はなかった。ジェノサイドが始まるとRPFはすぐに内戦を再開し、すべての政府領土を占領し、ジェノサイドを終結させ、政府とジェノサイドをザイール(現在のコンゴ民主共和国)に追いやった。(Wikipediaより)
本遺産は、ルワンダ初の世界遺産であると同時に、「記憶の場」というカテゴリーの世界遺産として初めて登録されたものである。「記憶の場」とは、国家とその国民(少なくとも国民の一部)もしくはコミュニティが、記憶に残したいと考える出来事が起こった場所のことである。また、そこは平和と対話の文化を促進する教育的な場所でなければならないとされている。これは「負の遺産」と似ているように思えるが、「負の遺産」は正式に定義されていないのに対し、「記憶の場」は「近年の紛争(リーセント・コンフリクツ)」に関連して正式に定義されている点が大きく異なる。
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