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オーストリア 検定1級

グラーツ:歴史地区とエッゲンベルク城

2021年11月4日

文化遺産
遺産名:
グラーツ:歴史地区とエッゲンベルク城
City of Graz – Historic Centre and Schloss Eggenberg
国名:オーストリア
登録年:1999年
登録基準:(ii)(iv)
概要:
グラーツの市街-歴史地区とエッゲンベルク城はオーストリアの世界遺産の一つであり、中央ヨーロッパの街並みの中で、時代ごとに異なる様々な建築様式の流入と調和をよく保存していることが評価された文化遺産である。1999年にグラーツの歴史地区のみが登録され、その価値を補強するものとして2010年に郊外のエッゲンベルク城が拡大登録された。

グラーツ一帯の定住の痕跡は新石器時代にまで遡れるものではあるが、シュタイアーマルク州の州都にしてオーストリア第2位の人口を擁する現代のグラーツの歴史は10世紀に始まる。そのころ、この地にはスラブ系の住民たちが移り住み、小高い丘の上に城砦を築いた。スラブ語で「小さな城」を意味するグラデツ (gradec) がグラーツの語源である。この丘は現在シュロスベルク(城山)と呼ばれている。12世紀には丘の麓に市場が形成され、ついで教会、庁舎なども建てられた。

14世紀にはハプスブルク家の分家に当たるレーオポルト家がグラーツを居住地とし、そこから15世紀に神聖ローマ皇帝となるフリードリヒ3世が輩出されたことで、グラーツは神聖ローマ帝国の首都となった。この時期に王宮と大聖堂が築かれた。

15世紀以降、オスマン帝国の侵略にさらされるようになると、シュロスベルクの砦の補強をはじめとして、都市の防衛機能が強化された。オスマン帝国の脅威は17世紀後半まで続いたが、その時期にあっても特にオーストリア大公のカール2世の時代には、グラーツは文化的・芸術的な繁栄を享受した。カール2世はオーストリア大公国における知的拠点としてのグラーツ大学を創立したほか、対抗宗教改革の姿勢を示し、イエズス会士たちに神学校などを設立させている。

こうした繁栄はカール2世の子で神聖ローマ皇帝の座に就いたフェルディナント2世がウィーンへ遷都したことで翳りを見せたが、他方で内務長官ハンス・ウルリヒ・フォン・エッゲンベルクがグラーツ郊外にエッゲンベルク城を建設したのは、フェルディナント2世の治世下のことであった。

それ以降は交易の中心地として、あるいは近現代には各種工業生産なども発達し、オーストリア第2の都市としての地位を保っている。その一方で伝統的町並みの保存状態はきわめて良好であり、「中欧で最も完全な歴史的旧市街」と言われることもある

(Wikipediaより)

世界遺産クイズ

グラーツ:歴史地区とエッゲンベルク城

主な構成資産

世界遺産に登録された「グラーツ市街」の範囲内には450件の建造物群が残るが、グラーツの始まりとなったシュロスベルクの城砦はもはやない。ナポレオン戦争の結果成立したシェーンブルンの和約によって、城砦および付随する城壁の撤去が決まったからである。現在のシュロスベルクは公園として整備されており、市民の嘆願によって破壊を免れた鐘塔 (Glockenturm)時計塔 (Uhrturm) だけが残る。時計塔は13世紀に建てられたものであり、16世紀に現在のような外観になった。

Graz: Uhrturm , Flickr

王宮

王宮はフリードリヒ3世の居城だった建物で、現在は州知事官邸として利用されている。ただし、かつての姿をとどめているのは1499年建設の階段塔 (Treppenturm) のみである。この階段塔には「ゴシック建築の逸品」二重の螺旋階段 (Doppelwendeltreppe) が残る。これはその名の通り、2本の螺旋階段を組み合わせたもので、回りながら分岐と合流を繰り返す構造になっている。

Doppelwendeltreppe 二重らせん階段
Herbert Frank , Flickr

グラーツ大聖堂(聖エギディウス大聖堂)

グラーツの大聖堂は1438年から1464年に宮廷聖堂として建てられたもので、元々は後期ゴシック様式の建物だったが、対抗宗教改革期にイエズス会士たちによって内装がバロック様式に変えられた。壁面には1485年の「災厄図」と呼ばれるフレスコ画が残っている。それは、1480年にグラーツを襲った3つの災厄、すなわち蝗害、ペスト、トルコ軍を表現しており、グラーツ現存最古の絵画でもある。内部にはイエズス会士たちがマントヴァから持ち込んだ美しい聖遺物箱なども残っている。

from Wikipedia

マウソレウム(霊廟)

大聖堂に隣接するマウソレウムは皇帝フェルディナント2世の命を受けて、イタリア人建築家ポミスが1614年から1633年に建てたものである。ファサードの様式はルネサンス様式からバロック様式への移行期のもので、マニエリスム様式に分類される。内装を手がけたのはグラーツ出身で「ウィーン・バロック建築の巨匠」のヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハ である。

The Mausoleum, Graz , Flickr

ラントハウス(州庁舎)

ラントハウス (Landhaus) は1557年から1565年に建てられたルネサンス様式の建物であり、ルネサンス建築の傑作と評される。そのファサードは地味なものだが、中庭の美しさは特筆される。手がけたのはドメニコ・デラッリオである

Landhaus , Flickr

聖母救済教会

聖母救済教会 (Mariahilferkirche) は「グラーツにおける最も美しい宗教建築の一つ」とも評される聖堂で、ピエトロ・デ・ポミスが1607年から1611年に建て、後にポミス自身がこの聖堂に葬られた。ただし、現在の聖堂を飾る2本の優雅な塔はバロック様式で、ヨーゼフ・フーバーが1742年から1744年に手がけたものである。

Mariahilferkirche , Flickr

エッゲンベルク城

エッゲンベルク城はグラーツ市街の歴史地区からは約3 km 西方にあり、世界遺産登録面積は 19.124012 haである。

現存するエッゲンベルク城は、17世紀のエッゲンベルク家当主で帝国の内務長官を務めたハンス・ウルリヒ・フォン・エッゲンベルクの時に建てられた。手がけたのはイタリア人建築家のピエトロ・デ・ポミスで、ルネサンス様式からゴシック様式への移行期、すなわちマニエリスム様式の城である。この城館は1625年から1635年に建てられた。18世紀にエッゲンベルク家が断絶した後に城を手に入れたヘルバーシュタイン伯爵の時代に、ルネサンス様式だった庭園ともども、城館はロココ様式の改築が施された。

この城は宇宙的発想が投影されているとされ、4本の塔は四大元素を表す。また、窓の総数365は1年間の日数を、3階の連続する広間の数24は1日の時間を、その広間の窓の数52は1年の週(または日曜日)の数を示す。なお、24の広間はバロック様式の装飾が施されている。同じ階には中国風や日本風の東洋趣味の部屋があり、日本の間の装飾画は、希少な桃山文化期の大坂を描いた屏風絵であることが確認されている。

Schloss Eggenberg ,Flickr

(Wikipediaより)

関連動画へのリンク

グラーツ市-歴史的中心部とシュロスエッゲンベルク(ユネスコ/ NHK)

UNESCO公式HP(英語版)へのリンク

https://whc.unesco.org/en/list/931

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