概要
文化遺産
資産名:
厳島神社
Itsukushima Shinto Shrine
国名:日本
登録年:1996年
登録基準:(i) (ii) (iv) (vi)
概要:
厳島神社は、瀬戸内海の広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の北東部、弥山の北麓に建てられた寝殿造りの神社である。島全体が古来から神の宿る島として信仰を集めてきた聖域である。厳島に初めて社殿が創建されたのは593年とされる。現在のように海上に本殿や拝殿などの建物が建ち並ぶようになったのは1168年頃で、平清盛が建造したといわれている。前景には海を、背景には弥山を配し、独特の景観を作り出している。宮島のシンボルである大鳥居は、風水害によってしばしば倒壊し、そのたびに再建されている。現在の大鳥居は1850年に台風で倒壊したあと、1875年に再建されたものである。厳島神社は、松島、天橋立と並んで日本三景に指定されている。
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登録基準
登録基準 (i) 人間の創造的才能を表す傑作
12世紀に平清盛によって造営された社殿は、寝殿造りの様式が取り入れられており、海上にせり出した建造物が背後の山と一体になり作り出す優れた建築景観は、設計者の卓越した発想を示している。
登録基準 (ii) ある期間にわたる価値観の交流
周囲の環境と一体になった建造物群の景観は、その後の日本人の美意識の一基準となった作品であり、日本に現存する社殿群の中でも唯一無二のもので、日本人の精神文化を理解する上で重要な資産となっている。
登録基準 (iv) 歴史上の重要な段階を物語る建築物
日本に現存する社殿建築の中でも造営当時の様式をよく残し、鎌倉時代に建築された数少ない建造物となっている。
登録基準 (vi) 生きた伝統,思想,信仰,芸術的作品,あるいは文学的作品
嚴島神社は、日本の風土に根ざした宗教である神道の施設であり、仏教との混交と分離の歴史を示す文化遺産として、日本の宗教空間の特質を理解する上で重要な根拠となるものである。
遺産の概要
「厳島神社」は、広島県広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の北東部にあり、古くから聖域とされていた弥山(標高535m)の北麓に鎮座する。厳島は一般に「安芸の宮島」とも呼ばれ日本三景の1つに数えられている。平家からの信仰で有名で、平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられた。社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に、14棟が重要文化財に指定されている。そのほか、平家の納めた平家納経を始めとした国宝・重要文化財の工芸品を多数納めている。
現存する建造物は、原始的な社殿を現在のような姿に発展させた平清盛の卓抜した構想力と美的センスを示すとともに、日本人の信仰心や精神文化の発展の過程を知る上でも、重要な史料とされる。厳島神社の平舞台(国宝:附指定)は日本三舞台の1つに数えられるほか、海上に立つ高さ16mの大鳥居(重要文化財)は日本三大鳥居の1つである。また、夏に行われる例祭は「管絃祭」として知られる。
こうした建造物の配置や、各社殿における細部の様式、ゆるやかな曲線を持つ「檜皮葺」の屋根などには、平安時代以降、貴族などの支配階級の住宅様式として広がった「寝殿造り」の影響がみられる。
歴史
社伝によれば、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命を祀る社殿を創建したことに始まるとされる。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとする説がある。
厳島神社の鎮座する厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)島」という語源のように、古代から島そのものが神として信仰されたと考えられている。厳島中央の弥山(標高535m)山頂には巨石が連なっており、山岳信仰の対象であったとされる。
平安時代末期、保元・平治の乱などを経て権力を掌握した平清盛は、宋との貿易に力を入れ、その航路となる瀬戸内海の整備を積極的に推進した。それに伴い、かねてより信仰を寄せていた厳島を「海上の守り神」とし、社殿の整備に取り組んだ。仁安3年(1168年)頃、平清盛が社殿を造営し現在と同程度の大規模な社殿が整えられた。平家一門の隆盛とともに、厳島神社も栄えて平家の氏神となった。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けるが、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で建物の全てを焼失している。そのため、現在残る社殿は仁治年間(1240年-1243年)以降に造営されたものである。
厳島は神の住む島として禁足地とされ、鎌倉時代頃までは地御前神社(外宮)において主な祭祀が行われていた。鎌倉時代末期から南北朝時代以降、社人・僧侶が禁を破って住むようになったとされる。
戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢は徐々に衰退する。毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収めて厳島を含む一帯を支配下に置き、厳島神社を崇敬するようになると再び隆盛した。元就は大掛かりな社殿修復を行なった。また、豊臣秀吉も九州遠征の途上で厳島神社に参拝し、大経堂(現 千畳閣)の造営を行なっている。
厳島のシンボルである海上の大鳥居は、しばしば倒壊と再建を繰り返した記録が残されており、1547年の再建の際に控柱を持つ両部鳥居の形式となった。
明治維新後、明治新政府が派遣した大参事によって社殿が「仏式」と判断され、神仏分離の原則によって社殿の焼却が命じられた(廃仏毀釈)。厳島神社の棚守(宮司に相当)が東京の明治新政府に直訴したことによって社殿の焼却は免れたものの、仏教的と考えられた社殿の彩色がすべて剥がし落とされて「白木造」に改められ、千木と鰹木が新設されるなどの「復古」が行われた。また大経堂(千畳閣)は内陣の木鼻を切り落とし、仏像などを撤去したうえで末社「豊国神社」に改めるなど、社殿の損壊と分離が行われ、大聖院(旧別当寺)、大願寺といった寺院が独立した。
明治4年(1871年)近代社格制度において国幣中社に列し、明治44年(1911年)に官幣中社に昇格した。明治末に社殿が国宝に指定されたことを機に、廃仏毀釈で破壊された部分が明治末の大修理と大正の修理で復旧され、千木と鰹木も撤去された(このため、明治時代の厳島神社の写真にのみ千木と鰹木が写っている)。
(Wikipediaより)
主な構成資産
本社本殿
1168年頃、宗像三女神を祀る厳島神社を平家一門の守護神と位置づけ、篤い信仰を寄せる平清盛によって社殿が整えられ、色鮮やかな朱色の建造物が海にせり出した姿が完成した。建造物には、平安時代の貴族の住宅建築様式である寝殿造りが取り入れられている。寝殿造りはそれまでの神社建築には見られなかったもので、独立した各部屋を渡り廊下でつなぐことに特徴がある。
本殿、幣殿、拝殿、祓殿、高舞台、平舞台など主要建造物が、海上の大鳥居との一直線の軸上に並ぶよう配されている。平舞台中央の高舞台では、1,000年以上代々の神職によって守り伝えられてきた舞楽が行われる。
江戸時代の1680年に改築された能舞台は、日本で唯一の海に浮かぶ能舞台である。海上にせり出し、足拍子がよく響くように床が一枚板のようになっている。日本三舞台の一つである。
大鳥居
宮島のシンボルである海上大鳥居は、4本の控え柱で支える両部鳥居である。これは風水害によってしばしば倒壊していた大鳥居を、1537年の再建で控え柱をもつ構造に改めたもの。また、現在の大鳥居は1850年に台風で倒壊した後、1875年に再建されたものである。海底に延びる柱の根元は固定されておらず、自重で立っている。奈良の春日大社・敦賀の気比神宮の大鳥居とともに「日本三大鳥居」に数えられる。
近年、大鳥居にできた亀裂の部分に、一部の観光客によって硬貨が差し込まれるケースが多発している。神社側は「鳥居の柱の老朽化が進むおそれがあり、止めてほしい」と呼び掛けている。
弥山原始林
宮島(厳島)の中央部にある標高535 mの山。古くからの信仰の対象になっている。北側斜面には、国の天然記念物となっている「瀰山原始林」が存在し、暖温帯性針葉樹のモミと南方系高山植物ミミズバイの同居やヤグルマの群落など、特異な植物・植生の分布が見られる。登山中には鹿(宮島の鹿)に出会うこともある。
平安時代の大同元年(806年)に空海(弘法大師)が弥山を開山し、真言密教の修験道場となったと伝えられる。空海が宮島で修行したときに焚かれた護摩の火が1,200年燃え続けているという「消えずの霊火」が山内に残る。山頂一帯に見られる巨石群は磐座とみられる。磐座を祭祀対象とする山岳信仰の開始は一般に古墳時代以降とされる。弥山は古代より御神体として崇められている。
関連動画へのリンク
旅するように学ぶ世界遺産(短縮版)『厳島神社』
4K 宮島と厳島神社
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UNESCO公式HP(英語版)へのリンク
https://whc.unesco.org/en/list/776