概要
資産名:
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産群
Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region
国名:日本
登録年:2018年
登録基準:(iii)
概要:
17世紀初めに江戸幕府がキリスト教を禁止してから19世紀に明治政府が解禁するまでの2世紀以上にわたり、ひそかにキリスト教の信仰を伝えた「潜伏キリシタン」と呼ばれる人々の歴史を物語る遺産です。2県6市2町に点在する12の構成資産(集落、城跡、聖堂)からなります。主な史跡としては、大浦天主堂、原城跡、平戸の聖地と集落、天草の崎津集落などがあります。
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登録の経緯
長崎におけるカトリック教会の伝来と繁栄、禁教令下の潜伏信仰、そして奇跡のキリシタン復活という、四世紀におよぶ世界に類を見ないカトリック教会布教の歴史を物語る資産として、2001年よりユネスコの世界遺産を目指す運動が始まった。
2014年7月10日に文化審議会の世界文化遺産・無形文化遺産部会は、2016年の世界文化遺産登録を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」について、ユネスコに推薦する候補に選んだ。政府は閣議了解を経て、2015年1月に正式な推薦書を世界遺産センターに提出、同年9月27日から10月6日には諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)の現地調査があり、2016年の第40回世界遺産委員会で審議される予定であったが、2016年2月初旬にICOMOSが推薦内容の不備を(250年の禁教令時代に特化すべきと)指摘したため、政府は推薦取り下げの上、構成資産の再検討に入ることになった
長崎県はICOMOSとアドバイザー契約を結び、4月26日から5月3日にミッションエキスパートが現地を視察した後に提言を示し、新たな推薦書内容を検討する「長崎世界遺産学術委員会」がイコモスの助言に従い、大浦天主堂以外の禁教明け(明治時代)以降に建てられた教会について禁教時代にいわゆる隠れキリシタンが形成した集落景観などに包括し、法的保護根拠を重要文化的景観とすることを決めた。諮問機関であるICOMOSが、推薦国に協力するという形式は日本では初めてであり、審査する側が求める完成度が高い内容の推薦書が作成されたことで、登録の可能性がより高まったとみられた。こうした事例に関して文化庁は「アドバイスを行ったイコモスの専門家は、推薦書提出後の審査には参加せず、利益相反のような状況にはなっていない」という認識を示した。これに伴いテーマを「潜伏キリシタンの文化的伝統」とし、構成資産も集落名義へと変更、教会が主体でなくなり熊本県側から熊本の名称も入れてほしいとの要望があり、ICOMOSも「潜伏キリシタンなどの表現を取り入れた名称に変えるべき」と示唆したことから「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の名称変更も検討され、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が正式名称へとなった。
遺産の概要
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」は、2県8市に点在する10の「集落」と「城跡」「聖堂」各1という、12構成資産からなる。これらの構成資産は、大きく4つの時代に分けられる。
1.始まり(1549年〜1550年)=「宣教師不在とキリシタン潜伏のきっかけ」
「島原・天草一揆」の主戦場である「原城趾」がこの時代を証明している。この一揆が江戸幕府に衝撃を与え、鎖国体制が確立されるとともに、潜伏キリシタンの歴史が始まった。
2.形成=「潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み」
キリシタンたちが神道の信者や仏教とを装いながら、密かにキリスト教信仰を続ける方法を作り上げていった。「平戸の聖地と集落」「天草の崎津集落」など。
3.維持・拡大=「潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み」
潜伏キリシタンの信仰を続けるために外海地域からより信仰を隠すことのできる五島列島の島々に移住していった時代。「頭ヶ島の集落」や「野崎島の集落跡」。五島藩と大村藩の共通の思惑から、移民のキリスト教信仰が黙認されていた側面もあった。
4.変容・終わり=「宣教師との接触による転機と潜伏の終わり」
約200年ぶりにキリスト教の信仰を公に告白し世界中を驚かせた「信徒発見」から教会堂が築かれていく時代。この世界遺産のシンボルともいえる国宝の「大浦天主堂」が証明する。1865年に浦上地区の潜伏キリシタン達が大浦天主堂を訪れ、信仰を告白した「信徒発見」は、奇跡としてローマ教皇にも伝えられた。(『世界遺産大事典』より)
歴史
強い絆で結ばれたキリスト教信仰
大航海時代に貿易の拡大を求めてアジアに進出したポルトガルは、1543年に日本へ到達し鉄砲をもたらしましたが、キリスト教もこの動きに合わせて宣教エリアを広げた。1549年8月15日、イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸すると、翌1550年にはポルトガル船が初めて入港した平戸に赴き、領主・松浦隆信から布教を許された。これが日本におけるキリスト教の歴史の始まりである。ザビエルが去った後も、残された宣教師たちによって布教活動は続けられ、その要請によって約20年後の1571年、長崎港が開港した。
開港後には、南蛮船が出入りする華やかなキリスト教文化が花開き、長崎は日本の「小ローマ」と呼ばれるほどの繁栄を遂げる。世界の他の植民都市とは違い、日本においては植民地は形成されず、貿易船がもたらす利潤に目を向けた寄港地の地元領主が率先して洗礼を受けて「キリシタン大名」となり、その庇護を受けた宣教師が領内に居住し、領民との間に強い絆で結ばれた信仰組織が作られていった点が異なっていた。
権力者たちが恐れた信徒たちの固い結束
16世紀の終わり頃になると、豊臣秀吉による統一政権が誕生する。秀吉は当初、ポルトガルとの交易を重視していたのでキリスト教に対しても寛大だったが、主君であった織田信長が一向一揆に悩まされた経緯などを踏まえ、やがて信徒たちの固い結束がいつか国を揺るがす大きな脅威になると考え、1587年に「伴天連追放令」を発する。
10年後の1597年、京都や大阪で宣教師や信者たち26人が捕えられ、長崎まで約1カ月かけて歩かされた上、長崎で処刑された。この大殉教の引き金となったのが「スペイン船サン・フェリペ号事件」である。1596年にフィリピンからメキシコへ向かっていたサン・フェリペ号が台風に遭い土佐浦戸に漂着。その際の取り調べに当たった奉行に航海士が、「スペインはまずキリスト教の宣教師を派遣して信者を増やし、やがてその国を支配する」と述べたことから(真偽はさだかではない)、報告を受けた秀吉が激怒し、伴天連追放令を理由に宣教師や信者たちを捕えたのだった。
拷問と踏絵で改宗を迫る徳川幕府
豊臣政権に続く徳川政権の初期には、幕府は朱印船や糸割符制度を創設して、外国との貿易を統制管理するようになった。ポルトガルに加えて、オランダやイギリスも日本との貿易に参入し、その拠点であった長崎は大いに繁栄した。キリスト教にとっても安定した時期だったが、やがてキリシタンであった島原領主・有馬晴信と幕臣、本田正純の近臣・岡本大八の賄賂を巡るスキャンダル事件などがきっかけとなり、1612年、ついに幕府は天領に禁教令を発布。続いて1614年、全国でのキリシタン摘発が始まった。禁教の取り締まりは厳しいものだった。幕府は長崎港の監視を強めて宣教師の潜入を阻止するが、宣教師たちは密入国を繰り返しながら布教活動を続けた。すると摘発と処刑は宣教師だけでなく、彼らをかくまった一般の信徒にも行われるようになった。長崎、大村、島原などでは多くのキリシタンが命を落とした。
やがて幕府の弾圧は厳しい拷問によって棄教させる「転び」へと変化していく。1616年、島原領主となった松倉重政は当初キリシタンを黙認していたが、これを徳川家光から叱責され、迫害へと転じる。拷問に雲仙地獄の熱湯を利用、額に「切支丹」の焼き印をつけるなど、弾圧はエスカレートしていった。
島原・天草一揆:2万人を超えるキリシタンが皆殺し
禁教政策に加え、島原藩主・松倉勝家による強引な年貢の取り立てや凶作なども重なり、1637年には2万人を超えるキリシタンが蜂起した「島原・天草一揆」が起こった。一揆軍は島原半島の原城に立てこもり、4カ月間に及ぶ攻防の末、幕府軍によって老若男女全員が皆殺しになった。
宗教史上にも例のないこの悲劇はなぜ起きたのだろうか。信徒たちの連帯が一揆軍の団結を強め、幕府はその団結力を恐れていたのである。自らの理想のために私利私欲を捨て殉教も厭わない民と、そのように民を導くキリスト教は、支配体制を固めつつあった徳川幕府にとって排斥しなければならぬ大敵となったのである。
密かに継承された潜伏キリシタンの信仰
島原・天草一揆をきっかけに、キリシタン取り締まりは強化され、1639年には幕府がイエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶、全国的な沿岸警備体制、九州大名による長崎港の警備も厳しくなり、鎖国が完成した。徹底的な禁教と海禁政策により、もはや宣教師たちの入国はどのような手段でもかなわず、幕末までの2世紀半、キリスト教は日本のどこを見ても存在しない幻の宗教となりました。
しかし、長崎と天草地方では、宣教師に代わる指導者が生まれ、彼らを中心に洗礼や葬儀、教会暦による宗教儀式が密かに行われた。表向きには仏教徒として生活し、内面的に自分たち自身でキリスト教を信仰し継承する「潜伏キリシタン」は、天照大御神や観音像をマリアに見立てたり、その地域の言葉で祈りを捧げたり、それぞれに独自の信仰を形作っていった。民俗的な習わしと混じりあって独自の宗教に変化したものもありました。こうして、最盛期には37万人を数えた信徒のうち、長崎と天草地方の信徒、2万人から3万人だけが、2世紀半を越えて信仰を継承することができたのである。
18世紀末頃になると、外海の潜伏キリシタンは、人口増加などを理由に開拓移民として五島などの島嶼部へ移住していった。土地を開墾し、安心して信仰を守れる場所を求めての移住だったが、実際には移住先の先住者との摩擦などもあり苦労を強いられた。しかし、仏教や神道を宗旨とする住民との間に互助や黙認の関係を築き、密かに固有の信仰の形を継承していく。
2世紀の時を経て、奇跡の「信徒発見」
幕末、ローマ教皇は日本の開国が近いと見て再び宣教師を送りはじめる。日仏修好条約が結ばれると、長崎にはフランス人が居住するようになり、彼らの日曜礼拝のために横浜に続いて1864年、長崎の南山手にも鋭い尖塔を持つフランス寺—大浦天主堂が建てられた。この時点ではまだ禁教は続いていたが、堂の正面には漢字で「天主堂」と書かれ、十字架が架けられた。
1カ月後、訪れた一人の女性が神父に「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」とささやきました。禁教令から2世紀もの時を経て再会を果たした宣教師と潜伏キリシタン。これが世にいう奇跡の「信徒発見」である。
やっと迎えた春
明治時代になって新しい政権に移ってもキリシタン弾圧は続き、浦上地区でも3000人以上が流罪になり、過酷な拷問を受けた「浦上崩れ」などが起きたが、この状況が変化したのが1873年だった。信仰の自由がない国は野蛮な国である、という諸外国からの軽蔑と圧力に対して、政府が禁教令を解除したのである。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン集落では、それまで続けてきた独自の信仰を続けるもの、カトリックに復帰するもの、また仏教や神道に変わるものが現れた。カトリックに復帰した集落では、潜伏時代の指導者の屋敷跡や、移住先のわずかな平地、海の眺めが良い場所などに、信徒自らの労働奉仕や献金などによって教会堂が建てられた。大浦天主堂には聖堂が建ち、大正時代にはレンガ造りの浦上天主堂が完成。やがて長い長い冬の季節を耐えて春を迎えた花々のように、各地にも次々と教会堂が建てられていった。
(長崎市公式観光サイト「潜伏キリシタンの歴史」より)
登録基準
登録基準 (iii) ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、17世紀から19世紀の2世紀以上にわたる禁教政策の下で密かにキリスト教を伝えた人々の歴史を物語る他に例を見ない証拠である。本資産は、日本の最西端に位置する辺境と離島の地において潜伏キリシタンがどのようにして既存の社会・宗教と共生しつつ信仰を継続していったのか、そして近代に入り禁教が解かれた後、彼らの宗教的伝統がどのように変容し終焉を迎えていったのかを示している。
主な構成資産
1.始まり(17世紀初頭〜中頃)
原城跡
元和の一国一城令で廃城となった原城で、1637年(寛永14年)に「島原の乱」が勃発した。島原藩主の松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした。この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。しかし、攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流、廃城となっていた原城に約3万7千人が立て籠もった。 そこで小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織立った籠城戦を展開して幕府軍と戦闘を繰り広げた。
一揆軍の3ヶ月に及ぶ籠城には水利はあったものの兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。対する幕府軍は1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに1638年4月11日から12日にかけての総攻撃で一揆軍を全滅させた。幕府軍の記録によると、一揆軍の中で幕府軍に内通していた山田右衛門作だけが助命され、その他は老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。幕府軍の総大将であった松平信綱の子・松平輝綱(武蔵川越藩の第2代藩主)は、『島原天草日記』の中においてこの時の様子を「(前略)剰つさえ童女の輩に至りては、喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす、是れ平生人心の致すところに非らず、彼宗門に浸々のゆえ也」と記し、一揆軍は殉教を重んずるキリシタンの信仰ゆえに全員が喜んで死を受け入れたとする旨を語っている。
2.形成(17世紀中頃〜19世紀初頭)
平戸の聖地と集落「春日集落と安満岳」「中江の島」
日本古来の自然崇拝に重ねて、自然の山や島などを崇敬することで、潜伏キリシタンが自らの信仰を密かに続けた集落。指導者の家の「納戸」と呼ばれる部屋に信心具が伝承され、平戸島の安満岳や禁教期以前にキリスト教徒の墓地があった丘などを聖地として崇拝した。聖地は今なお崇拝され、禁教時代の独特の景観をとどめている。
天草の崎津集落
アワビやタイラギの貝殻内側の模様を聖母マリアに見立てて崇敬するなど、漁村ならではの信仰形態が育まれた集落。キリスト教解禁後はカトリックへと復帰し、禁教期に密かに祈りを捧げた神社の隣接地に教会堂が建てられた。
外海の出津集落
聖画像をひそかに拝むことによって自らの信仰を隠し、教理書や教会暦をよりどころとして信仰を続けた集落。この地域の信者が五島列島などへ移住していった。
3.維持、拡大(18世紀末〜19世紀中頃)
黒島
明治時代に建立された黒島天主堂は、信仰を守り抜いた象徴としての位置付けのみならず、潜伏キリシタンとのつながりを明確にする必要に迫られ、潜伏キリシタンが入植し開拓した島内集落の景観を主体とする重要文化的景観を拠り所とすることとし、2018年(平成30年)6月30日に第42回世界遺産委員会において「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として登録が決定した。移住潜伏キリシタンが切り拓いた集落は、まず牧場跡だった蕨・名切・東堂平に入植して開拓し、順次島東部の根谷・日数や南部の田代へと展開。移住潜伏キリシタンは石積み技術を持ち込み、石垣や畑垣などの特徴ある集落景観が形成された。名切・東堂平・田代・古里・根谷では水田が見られ、日数には溜め池も造られた。
野崎島の集落跡
禁教期に外海から海を渡ってきた潜伏キリシタンが移住し、神社の氏子となることによって神道への信仰を装い、密かに潜伏キリシタンとしての信仰を続けた集落跡。野崎島の潜伏キリシタンは、キリスト教解禁後にカトリックへと復帰し、2つの集落のそれぞれに教会堂を建てた。
頭ヶ島の集落
仏教徒の開拓指導者の下、無人島であった頭ヶ島へと入植し、閉ざされた環境で密かに信仰を継続した潜伏キリシタンの集落。解禁後はカトリックへと復帰し、海に向かって開かれた谷間の奥に仮の聖堂を建てた後、地元で産出する砂岩を多用した教会堂に建て替えた。
4.変容、終わり(19世紀後半)
大浦天主堂
大浦天主堂は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂である。江戸時代幕末の開国後、1864年(元治元年)に竣工した。日本に現存するキリスト教建築物としては最古である。日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。1865年に浦上地区の潜伏キリシタン達が大浦天主堂を訪れ信仰を告白した「信徒発見」は、奇跡としてローマ教皇にも伝えられた。その後、潜伏キリシタン達は、カトリックに復帰する者や仏教や神道を信仰する者、禁教期の信仰を続ける者(かくれキリシタン)などへと分かれていき、カトリックに復帰した人が住む集落にも教会堂が築かれていった。
長崎の鐘(合掌)
「作曲 古関裕而」 昭和24年 (唄 藤山一郎)
関連動画へのリンク
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(日本語版)
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(長崎新聞)
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UNESCO公式HP(英語版)へのリンク
https://whc.unesco.org/en/list/1495