概要
文化遺産
資産名:
日光の社寺
Shrines and Temples of Nikko
国名:日本
登録年:1999年
登録基準:(i) (iv) (vi)
概要:
山岳信仰の中心である二荒山神社、徳川家康の神霊を祀った東照宮、国宝の大獣院をもつ輪王寺の2社1寺、103棟の建造物群と、これらの建造物群を取り巻く文化的景観(遺跡)とからなっている。絢爛豪華な建造物と周囲の山林が調和した文化的景観は、日本古来の神道思想を表している。
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江戸時代、徳川家康の側近であった僧天海が家康の神霊を祀るため、日光山に東照宮の前身となる東照社を建設した。この際、天海は荒廃していた寺社の再興にも尽力し、日光は徳川幕府の聖地として再び信仰を集めることとなった。その後、江戸幕府3代将軍の徳川家光の時代に1年5ヶ月に及ぶ「寛永の大造替」と呼ばれる大改修を受け、現在のような権現造りを主体とする姿となった。おの大造替で陽明門や三猿で知られる神厩舎など、当時最高の技術を用いた芸術性の高い建造物がつくられた。
登録基準の内容
登録基準 (i)
日光に残る建造物は、天才的な芸術家の手による作品で、高い芸術性をもつ。
登録基準 (iv)
東照宮、輪王寺大獣院は、日本の権現造り様式を完成させた建物であり、その後の霊廟建築や神社の規範となった。
登録基準 (vi)
日光の建造物群は神道や仏教の特質を表し、周囲の自然環境と一体となって作り上げられる景観は、日本の宗教空間を受け継ぐ独自の神道思想と密接に関連する。
遺産の概要
勝道上人[1]735年(天平7年)4月21日、下野国芳賀郡に生まれる。807年(大同2年)の旱魃に際して日光山で祈雨を修法し、その功により伝灯法師位を授けられた。このころ、空海に、日光山について文章の作成を依頼し、814年(弘仁5年)に空海が「勝道碑文」を作成した。816年(弘仁7年)4月、日光山山頂に三社権現の社を建立。817年(弘仁8年)、四本龍寺の北にある岩窟にて、83歳で死去。(Wikipediaより)が日光山を開山した8世紀以降、約1,200年にわたる歴史のなかで発展してきた日本有数の霊場である。古くから山岳信仰の聖地となっていた自然景観が広がるこの地域には、神道や仏教、そして江戸幕府の開祖である徳川家康の墓所など、様々な宗教や信仰形態が複合した多くの建造物が現存する。神道と仏教が融合した「神仏習合」の思想をはじめ、山岳信仰と仏教が結びついて生み出された修験道や、亡くなった偉人を神として祀る「人物神」など、日本特有の様々な信仰形態の歴史を物語るとともに、それらが混在した宗教的霊地として発展してきた日光の歴史を知る上で重要である。(『世界遺産大事典』より)
歴史
782年に男体山に登頂した勝道上人は、その2年後に寺院を建立し日光山を開山した。江戸時代以前、日光は日光山の門前町、修験道の道場であり、日本古来の神道と仏教思想が融合した「山岳信仰」の聖地であった。鎌倉時代には「日光権現」として知られていた。室町時代に日光修験も最盛期を迎えるが、戦国時代に入ると、各地の大名間の勢力争いで、日光山の信仰は次第に衰退。1590年には豊臣秀吉によって大部分の領地が没収され、衰退した。
江戸時代に入り、徳川家康が覇権を握ると、家康に仕えその深い信頼を得ていた慈眼大師天海が家康の力により日光山貫主となり、家康の死後はその進言により家康の神号が権現となり、廟所も日光東照宮となった。日光が参詣客で賑わうようになったのはこの頃からである。日光参詣のために、日光街道を初め、日光西街道(壬生通り)、日光例幣使街道、日光北街道、会津西街道など、多くの参拝路が整備された。1634年には、「寛永の大造替」と呼ばれる大改修が実施され、現在のような権現造り[2]徳川家康の諡号が「東照大権現」であったことに由来する。を中心とする東照宮の姿が完成した。
明治時代に入ると富国強兵の国策のもと、海外からお雇い外国人が渡航するようになり、当時海外にも広く知られていた景勝地日光を訪れる外国人が増えた。イザベラ・バードやフランツ・フェルディナント大公は日光滞在中の出来事を手記として残し、当時の日光の様子を知る貴重な文献として知られている。こうした外国人が日光に快適に滞在・宿泊するため、ホテルなどの施設が整備され、以後、国際観光都市として広く世界に知られるようになった。特に日本駐在大使館・領事館の別荘が多く建てられ、「夏になると外務省が日光に移る」といわれるほどであった。その名残で現在も日光には洋風建築が多く残っている。(Wikipediaより)
「日光の社寺」の主な資産
世界遺産には、「東照宮」「二荒山神社」「輪王寺」の二社一寺に属する建造物103棟が登録されている。
日光東照宮
1616年に創建された徳川家康の霊廟。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現を主祭神として祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。また久能山東照宮・上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられることが多い。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、東照宮の公式サイトがホームページに「日光東照宮」と掲げており、他の東照宮との区別のために「日光東照宮」と呼ばれることが比較的多い。本殿と拝殿の間を石の間で結ぶ東照宮本社にみられる様式は、「権現造」の完成形とされる。
権現造
横長の拝殿と本殿の間を石の間でつなぎ一棟の建物とするもの。東照宮本社では、山の斜面を活かし、一番奥に位置する本殿の床を拝殿より高くする造りになっている。
江戸時代の元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡市)で死去した。遺命によって遺骸は直ちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)に下野国日光に改葬されることとなった。日光では同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、家康死去の一周忌にあたる4月17日に遷座祭が行われた。家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。明治元年(1869年)の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。
日光東照宮陽明門
1636年に建造された東照宮を代表する建造物。日光東照宮の陽明門は、建物全体がおびただしい数の極彩色彫刻や文様で覆われ、一日中見ていても飽きないということから「日暮御門」と称されている。このうち、1本だけ彫刻の模様が逆になっている「逆柱」には、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という伝承に基づき、わざと未完にすることで災いを避けるという意味が込められていた。門の名は平安京大内裏外郭十二門のうちの陽明門に由来する。陽明門は、表門から参道を進み、石段を2つ上った先に南面して建つ。1654年に創建当時の「檜皮葺」から改められた「銅瓦葺」の屋根など、当時としては先進的な防火技術が施されている。
日光二荒山神社
関東平野北部、栃木県北西にそびえる日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る神社である。日光三山は男体山(古名を「二荒山(ふたらさん)」)・女峰山(にょほうさん)・太郎山からなり、二荒山神社ではそれぞれに神をあてて祀っている。三山のほか日光連山を境内地とし、面積は3,400haにも及び、その神域には華厳滝やいろは坂も含まれる。二荒山神社は古来より修験道の霊場として崇敬された。
八棟造
「寛永の大造替」の以前から残る数少ない建造物の1つである二荒山神社の本社本殿には、神社建築様式の1つ「八棟造」が取り入れられている。京都の「北野天満宮」などで見られる様式で、入母屋造りの屋根や破風、向拝などが複雑に入り組んだ構造、本殿と拝殿の間を石の間でつなぐ配置などは、後の権現造りの原型となった。
輪王寺
766年に勝道上人が創建した「四本龍寺」を紀元とする寺院。三仏堂にまつられる千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音は、「仏や菩薩が神に姿を変えて現れる」とする神仏習合の基本理念(本地垂迹説)[3]本地垂迹とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現であるとする考えである。本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。では、それぞれ二荒山大神と同一の存在と考えられている。二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。現在、輪王寺に属する建物が1箇所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在しているのは、このような事情による。
(Wikipediaより)
日光社寺を取り巻く遺跡(文化的景観)
文化的景観とは、自然現象と人間の活動とがお互いに影響しあって形成された環境ともいうべきもので、世界遺産を捉える視点として新たに設けられた概念である。「日光の社寺」の場合は、遺跡として文化的景観が形成されていると認められた。具体的な遺跡は次の通り。
江戸時代における歴史的役割を果たした日光山内
代々の徳川将軍の社参をはじめ、朝廷からの例幣使の派遣や、朝鮮通信使の参詣が行われるなど、江戸時代の政治体制を支えるための極めて重要な歴史的役割を果たしており、江戸時代の代表的な史跡のひとつとなっている。
宗教的活動空間と一体をなす石垣、階段、参道
東照宮と大猷院霊廟は、山の地形を利用して造営されており、石垣や階段によって境内を広く、または狭く見せたり、参道に曲折をつけて奥行きのゆとりや緊張を見せるといった工夫が施されていいる。
古代以来の日本的宗教空間を継承する山や森
日光山内の山林地域は、8世紀に始まる日光の山岳信仰の聖域とされ、老樹の森林を形成しており、現在も境内の杉が御神木とされている。日光山内の山林地域は、日本独特の神道思想との関連において、自然と社殿が一体となった文化的景観を形成するうえで不可欠な資産となっている。
(日光市教育委員会作成資料より)
世界遺産クイズ
世界遺産検定クイズ
UNESCO公式HP(英語版)へのリンク
https://whc.unesco.org/en/list/913