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パリのセーヌ河岸

2021年3月8日

目 次
  1. 概要
  2. 祝・2024年 パリ・オリンピック開催!
  3. パリの歴史
  4. セーヌ川
  5. エッフェル塔
  6. 関連動画へのリンク
  7. ノートルダム大聖堂
  8. 関連動画へのリンク
  9. サント・シャペル
  10. コンシェルジュリー
  11. ルーヴル美術館
  12. 関連動画へのリンク
  13. オルセー美術館
  14. 関連動画へのリンク
  15. マレ地区
  16. マレ地区の主要な文化資産
  17. マレ地区の関連動画
  18. アンヴァリッド
  19. チュイルリー庭園
  20. 関連動画へのリンク
  21. シャンゼリゼ通り界隈
  22. オペラ座界隈
  23. 【番外編1】サンジェルマン・デ・プレ
  24. 【番外編2】モンマルトル
  25. 【番外編2】サンマルタン運河
  26. パリのホテル検索
  27. UNESCO公式HP(英語版)へのリンク

概要

文化遺産
資産名:
パリのセーヌ河岸
Paris, Banks of the Seine
国名:フランス
登録年:1991年
登録基準:(i) (ii) (iv)
概要:
「パリのセーヌ河岸」(Paris, Banks of the Seine)は、1991年に登録された世界文化遺産です。フランスの首都パリを流れるセーヌ川の河岸のうち、シュリー橋( Pont de Sully)からイエナ橋( Pont d’Iéna)までの約8kmが登録対象となっています。中州であるシテ島 ( Ile de la Cité)とサン・ルイ島 ( Ile St Louis)、および区域内に架かる橋も含まれています。登録対象の主な建造物は、エッフェル塔 ( Eiffel Tower)、ルーヴル美術館(Louvre)、グラン・パレ (Grand and Petit Palais)、ノートルダム大聖堂 (Cathedral of Notre-Dame)、サント・シャペル (Sainte Chapelle)、ポン・ヌフ (Pont Neuf )、アンヴァリッド (Invalides)、コンコルド広場 (Place de la Concorde)などです。

「パリのセーヌ河岸」の構成資産

祝・2024年 パリ・オリンピック開催!

2024 パリ・オリンピック公式エンブレム

世界遺産サイトで開催されるパリ・オリンピック

パリの中心部からわずか15分の場所に建設されるオリンピック村から、エッフェル塔やグランパレなどの中心部のランドマークまで、セーヌ川に沿って開催されます。まさに、世界遺産「パリのセーヌ河岸」がメイン会場になります。世界遺産のファンにとっては、見逃せない歴史的イベントになることでしょう。

大会のメイン・テーマ:持続可能性

パリ2024は、これまでで最もサステイナブルな大会の開催を目指しています。パリ2024は、WWFフランス、ユヌス・センター、ユニセフ・フランスの支援を受け、国連の持続可能な開発目標に沿った独自の持続可能性とレガシー戦略を策定しています。その3つの柱は、社会の中心にあるスポーツ、より包括的な社会、優れた環境にあります。

予定されている競技

2014年オリンピックでは、次の32競技の開催が予定されています。

33競技が行われた東京五輪から、野球・ソフトボール、空手が外される一方で、ブレイキンが追加されるため、32競技が実施される予定です。

東京五輪から追加され、日本人がメダルを獲得したスポーツクライミング、サーフィン、スケートボードは引き続き行われます。スポーツクライミングは「スピード」が種目として独立し、「複合」はボルダリングとリードで行われます。

パリ・オリンピック公式サイト(英語版)

[blogcard url="https://www.paris2024.org/en/"]

パリの歴史

パリ(セーヌ河岸)の歴史は、紀元前にまで遡る。セーヌ川の周辺は沼地で、なにもない所だった。紀元前3世紀頃から、川の中州(現在のシテ島)に先住民のパリシイ族(ケルト系民族。ローマ側の呼称、「パリ」の語源)が住みついた。この土地は「ルテティア」と呼ばれていた。当時、セーヌ川の右岸は沼だったため、集落はシテ島と左岸に形成されていた。紀元前1世紀、ガリア戦争の結果、ルテティアはローマ帝国に編入され、セーヌ河畔にローマ式の市街が築かれた。いまでも、セーヌ左岸にはローマ時代の遺跡が残されている。5区にある「円形劇場・闘技場の遺跡」や「浴場跡」(現在は国立クリュニー中世美術館)がそうだ。

ローマが衰退すると、左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころから、ルテティアに代わり「パリ」と呼ばれるようになる。

3世紀にパリはキリスト教の都市になったが、最初の司教は後に「フランスの守護聖人」と呼ばれるようになったディオニュシウス(サン・ドニ)だった。しかし、ディオニュシウスは多くの人々を改宗させたため異教徒の恨みを買い、現在のモンマルトルの丘で斬首刑に処せられてしまった(モンマルトルとは、「殉教者の山」という意味です)。後の伝記によれば、ディオニュシウスは、首を切り落とされたあと、それを拾い上げ、説教をしながら数キロメートル歩いたといわれている。最後に倒れた場所には、サン・ドニ大聖堂が建てられている。

5世紀になると、東方からフン族が勢力を拡大し、パリに迫ってきた。451年にはフン族の王アッティラがパリに攻め込もうとするが、セント・ジュヌヴィエーヴは信徒と共に戦い、アッティラ軍を撃退した。470年には、西方からやってきたフランケン族の一部族によってパリが包囲された。この部族の王の息子クロヴィスは父王の死去によって王位を継承したあと、北ガリアを支配していたローマ帝国軍を打ち破ったが、聖ジュヌヴィエーヴと合意の上、パリを支配下においた。そして、他のフランク族の王を打ち破り、フランク王国の第一王朝メロヴィング朝初代の国王になった。508年、パリはフランク王国の首都になった。

聖ジュヌヴィエーヴが502年に、クロヴィスが511年にこの世を去ると、二人はセーヌ川左岸にある現在のサント・ジュヌヴィエーヴの丘の修道院に葬られる。ここには、18世紀になって新たな教会堂が建設され、「パンテオン」と呼ばれるようになった。543年には、セーヌ川左岸の現在のサンジェルマン地区に、修道院が建設され、その付属施設として、サンジェルマン・デ・プレ教会が建立された。これはパリ最古の教会である。

メロヴィング朝に続く、フランク王国第二王朝はカロリング朝と呼ばれ、711年、シャルルマーニュ(カール大帝)によって、西ヨーロッパ全域を支配する強大な王国になった。しかし、カロリング朝の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。

西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁も築かれ、その西に要塞(のちにルーヴル宮殿に発展する)が設けられた。右岸に中央市場「レ・アル(Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。

13世紀になると、ルイ9世によってサント・シャペルが建築されたほか、ノートルダム大聖堂も一応の完成を見る。パリは成長を続け、セーヌ左岸も再び人口を増やしていた。シャルル5世は、1356年から1383年にかけて新たな城壁(シャルル5世の城壁)を築いて市域を拡大させ、1370年にサン=タントワーヌ要塞(のちのバスティーユ牢獄)を築いた。また、ルーヴル宮殿を王宮とした。

1594年、アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。ヴァロワ朝後期の王と異なり、アンリ4世はパリをおもな居住場所とし、都市での多くの公共事業を行った。ルーブル宮殿の拡張ポンヌフヴォージュ広場、ドフィーヌ広場、サン・ルイ病院の建設がなされた。フォンテーヌブロー宮殿もよく用いられ、次のルイ13世はこの宮殿で生まれている。

ルイ13世の治世下にパリは大きく変化した。その母のマリー・ド・メディシスによるテュイルリー宮殿リュクサンブール宮殿、リシュリューによるパレ・ロワイヤルが建設され、ソルボンヌ大学の改築も行われた。

1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。混乱を経た1800年当時の人口は、54万7,756人であった。ナポレオン1世は、パリを新しいローマとすべく、帝都と定め、カルーゼル凱旋門エトワール凱旋門を建て、ウルク運河を開削するなどした。

第二帝政下ではセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによってパリ改造が行われた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新したほか、上下水道の設置など都心部の再開発や社会基盤の整備が行われた。水道の水はジェネラル・デゾーが供給するようになった。これらによりパリは近代都市として生まれ変わった。

19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数回の万国博覧会が開かれた。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年にはメトロが開業した。この時代をベル・エポックと呼ぶ。パリは「光の都」と呼ばれ、ロンドンに匹敵する経済都市に成長した。

工業化の進んだ19世紀後半以降、芸術家達は伝統的な油絵ではなく、工芸デザイン、建築、ポスター、挿絵などの分野で、生命力のあふれる作品を次々と生み出していった。それが、アール・ヌーヴォー(新しい芸術)だった。建築ではエクトル・ギマール、ポスターや挿絵ではジュール・シェレやアルフォンス・ミュシャ、トゥールーズ・ロートレック、ガラス工芸や装身具のエミール・ガレ、ルネ・ラリックなどがアール・ヌーヴォーの代表的芸術家だった。1920年代になると、もっと単純で実用的、幾何学的なデザインのアール・デコへと流行が移っていった。

(Wikipediaより)

参考文献

 

世界遺産クイズ

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セーヌ川

概要

セーヌ川は全長780km、フランスではロワール川に次いで第二の長さである。ディジョンの北西30kmの海抜471mの地点に源を発し北西に向かい、パリを流れ、ル・アーヴルとオンフルールの間のセーヌ湾に注ぐ。

パリは、セーヌ川にある中州のシテ島から発達した町である。シテ島の上流に続くサン・ルイ島、チュイルリー公園、コンコルド広場、エッフェル塔、シャイヨ宮、自由の女神像など、セーヌ川およびその河岸は、現在でもパリ市の観光の中心であり、バトームーシュと呼ばれる観光船も定期的に運航されている。

セーヌ川は絵画や映画、シャンソンなど音楽のテーマとして数多く取り上げられてきた。オードリー・ヘプバーンの映画『シャレード』では観光船でのケーリー・グラントとの夕食の舞台で、河岸の恋人たちが映し出される。

バトー・ムーシュ  Bateaux-Mouches

「Bateaux Mouches」は、Compagnie des Bateaux Mouches 社の登録商標であり、パリの遊覧船としてはもっとも有名である。しかし、この会社の成功により、「バトー・ムーシュ」の語は、パリにある各社のセーヌ川遊覧船全体を指す一般名詞(bateau-mouche)であるかのように、誤って用いられることもあるこの名前は、当初ボートがリヨンの Mouche 地区に位置する艇庫で製造されていたことに由来する。

セーヌ川がパリの中心部を流れているため、遊覧ツアーでは町の多くの部分を見ることができる。 左岸(リヴ・ゴーシュ。Rive Gauche )と右岸(リヴ・ドロワ。Rive Droite )をボートから見ることで、乗船客は、エッフェル塔ノートルダム大聖堂アレクサンドル3世橋ポン・ヌフオルセー美術館ルーヴル美術館や、アンヴァリッド(ナポレオンの埋葬場所)などを眺めることができる。

バトームーシュ Flickr

セーヌ川の遊覧船(紹介動画)

ポン・ヌフ  Pont Neuf

セーヌ川に架かる橋で、シテ島の先端を横切る2つの短い橋であるが、2つ合わせて1の橋と考える。ポンヌフは、フランス語で「新しい橋」の意味であるが、16世紀から17世紀にかけて建設されたものであり、パリに現存する最古の橋である。ルノワールなど、多くの有名な画家がこの橋を描いている。

ポン・ヌフ Flickr

 

オーギュスト・ルノワール『ポンヌフ』 Flickr

ポンデザール Pont des Arts

ポンデザールはセーヌ川左岸のフランス学士院右岸のルーヴル宮殿のクール・カレ(方形宮)を結んでいる。ルーヴル宮殿は第一帝政時代にPalais des Arts(芸術の宮殿)と呼ばれていたため、Pont des Arts(芸術橋)と名付けられた。1802年から1804年にかけて現在の橋の位置に9連アーチの鋼鉄製の歩道橋がパリで初めての金属製の橋として架けられた。

2008年頃より、恋人同士が永遠の愛を誓い、南京錠に二人の名前を書いて欄干の金網に取り付けて鍵をかけ、その鍵をセーヌ川に投げ込む「カデナ ダムール(愛の南京錠)」が流行した。錠前の重さは橋全体で50トンを超えるとの試算もあり、2014年6月には欄干の金網の一部が崩れて橋が一時閉鎖される事態になった。このため、パリ市当局は、南京錠が取り付けられないように、2015年6月1日より南京錠付の金網を撤去し、グラフィティアートが描かれたアクリル板に置き換えられ、2015年秋頃にはガラス板が設置される

かつてのポンデザール Flickr

 

ポンデザール Flickr

アレクサンドル3世橋 Pont Alexandre III

この橋はフランス共和国の大統領サディ・カルノーとロシア皇帝アレクサンドル3世の間に結ばれた友好の証として、ニコライ2世により1900年のパリ万国博覧会にあわせて建設、パリ市に寄贈された。橋はアンヴァリッド広場とグラン・パレ、プティ・パレの間を結ぶように建設された。建設はエンジニアのジャン・レサル、アメデ・アルビー、建築家のジョゼフ・カシアン=ベルナール 、ガストン・カズンが担当した。

アレクサンドル3世橋はアールヌーヴォーの街灯、天使やニュンペーの像、ペーガソスといった華麗な装飾で有名である。四隅の17mの高さの柱には、それぞれ「芸術」「農業」「闘争」「戦争」を意味する女神像が立っている。

アレクサンドル3世橋 Flickr

 

アレクサンドル3世橋 Flickr

ビル・アケム橋 Le Pont de Bir-Hakeim

セーヌ川右岸の16区・パッシー (Passy) と左岸の15区・ビラケム (Bir-Hakeim) の間に架かる橋。旧名をパッシー橋 (Pont de Passy) といったが、第二次世界大戦の北アフリカ戦線で自由フランス軍がロンメル将軍のドイツアフリカ軍団と戦い3000人以上の犠牲者を出した1942-1943年のビル・ハケイムの戦いを記念するために改名された。

二層構造になっており、1階が歩行者、自動車用。2階部分にはメトロ6号線が通っている。橋の中央の階段から白鳥の小径に降りることができる。白鳥の小径はビラケム橋から下流のグルネル橋まで続くセーヌ川の中州で、グルネル橋の傍にはバルトルディによるオリジナル鋳造の自由の女神像が立っている。ビラケム橋からのエッフェル塔の眺めは素晴らしく、花火やそのほか大きなイベントの時には観衆が押し寄せる。

ビル・アケム橋 Flickr

 

ビル・アケム橋 Flickr

セーヌ河畔の散策マップ

 

ジュリエット・グレコ『パリの空の下』シャンソン

 

Sous le ciel de Paris
S'envole une chanson
Hum hum
Elle est née d'aujourd'hui
Dans le cœur d'un garçon
Sous le ciel de Paris
Marchent des amoureux
Hum hum

Sous le pont de Bercy
Un philosophe assis
Deux musiciens quelques badauds
Puis les gens par milliers
Sous le ciel de Paris
Jusqu'au soir vont chanter
Hum hum
L'hymne d'un peuple épris
De sa vieille cité

Près de Notre Dame
Parfois couve un drame
Oui mais à Paname
Tout peut s'arranger
Quelques rayons
Du ciel d'été
L'accordéon
D'un marinier
L'espoir fleurit
Au ciel de Paris

Sous le ciel de Paris
Coule un fleuve joyeux
Hum hum
Il endort dans la nuit
Les clochards et les gueux
Sous le ciel de Paris
Les oiseaux du Bon Dieu
Hum hum
Viennent du monde entier
Pour bavarder entre eux

Et le ciel de Paris
A son secret pour lui
Depuis vingt siècles il est épris
De notre Ile Saint Louis
Quand elle lui sourit
Il met son habit bleu
Hum hum
Quand il pleut sur Paris
See'est qu'il est malheureux
Quand il est trop jaloux
De ses millions d'amants
Hum hum
Il fait gronder sur nous
Son tonnerre éclatant
Mais le ciel de Paris
N'est pas longtemps cruel
Hum hum
Pour se faire pardonner
Il offre un arc en ciel

 

パリの空の下
歌が流れる
その歌はきょう
ある青年の胸に生まれた
パリの空の下
恋人たちが歩いている
彼らの幸せは恋人たちのために
作られた歌に育まれる

ベルシー橋の下には
哲学者がひとり座っている
二人の楽士とヤジ馬たち
そしてたくさんの人たちが
パリの空の下
夜まで歌いに行くのだ
この古い都に惚れ込んだ人びとの讃歌を

ノートルダムの近くでは
時どき事件が起こる
そう、でもパリのことだから
すべて丸く収まるのだ
空から注ぐ夏の陽ざし
船頭の奏でるアコーデオン
希望が花ひらく
パリの空に

パリの空の下
楽しげに川が流れる
夜になるとその川辺で
浮浪者や乞食が眠る
パリの空の下
神さまの小鳥たちが
世界中からやって来て
おしゃべりをしている

そしてパリの空には
人知れぬ秘密がある
二千年前から恋をしているのだ
我らのサン・ルイ島に35
島が空にほほ笑みかけると
空は青い服を着る
パリに雨が降るときは
空が悲しんでいるのだ

空が多くの恋人たちに
はげしく嫉妬するときは
私たちの頭上に
雷鳴をとどろかせる
だけどパリの空は
いつまでも意地悪なわけじゃない
お詫びのしるしに
虹をかけてくれる
https://lyricstranslate.com

ジャクリーヌ・フランソワ『ラ・セーヌ』シャンソン

 

La Seine est aventureuse
De Châtillon à Méry,
Et son humeur voyageuse
Flâne à travers le pays ...
Elle se fait langoureuse
De Juvisy à Choisy
Pour aborder, l'âme heureuse,
L'amoureux qu'elle a choisi !

Elle roucoule, coule, coule
Dès qu'elle entre dans Paris !
Elle s'enroule, roule, roule
Autour de ses quais fleuris !
Elle chante, chante, chante, chante,
Chant' le jour et la nuit,
Car la Seine est une amante
Et son amant c'est Paris !

Elle traîne d'île en île,
Caressant le Vieux Paris,
Elle ouvre ses bras dociles
Au sourire du roi Henri...
Indifférente aux édiles
De la mairie de Paris,
Elle court vers les idylles
Des amants des Tuileries !

Elle roucoule, coule, coule
Du Pont-Neuf jusqu'à Passy !
Elle est soûle, soûle, soûle
Au souvenir de Bercy !
Elle chante, chante, chante, chante,
Chant' le jour et la nuit...
Si sa marche est zigzagante
C'est qu'elle est grise à Paris !

Mais la Seine est paresseuse,
En passant près de Neuilly,
Ah ! comme elles est malheureuse
De quitter son bel ami !
Dans un étreinte amoureuse
Elle enlace encore Paris,
Pour lui laisser, généreuse,
Une boucle ... à Saint-Denis !

Elle roucoule, coule, coule
Sa complainte dans la nuit...
Elle roule, roule, roule
Vers la mer où tout finit...
Elle chante, chante, chante, chante,
Chant' l'amour de Paris !
Car la Seine est une amante
Et Paris dort dans son lit !

 

セーヌ川は冒険の場
シャティヨンからメリーまで。
そしてその旅の気分
田舎をぶらぶらと...。
気だるさを感じる。
ジュビシーからショワジーへ
幸せな魂で近づくために
彼女が選んだ恋人。

彼女は流れ、流れる
パリに入った途端に!
彼女は風に吹かれて、転がって、転がって
その花のような波止場の周りで
歌って、歌って、歌って、歌いまくる。
昼も夜も歌う。
セーヌ川は恋人だから
そして彼女の恋人はパリ!?

彼女は島から島へと放浪する。
古いパリを愛撫する
彼女はそのおとなしい腕を開き
アンリ王の笑顔に...。
勅令に無頓着
パリの市庁舎の
彼女は牧歌的なものに走る
チュイルリーの恋人たちの!

彼女は流れ、流れる
ポンヌフからパッシーへ!
彼女は酔っている、酔っている、酔っている
ベルシーの思い出に乾杯!
歌って、歌って、歌って、歌いまくる。
昼も夜も歌う...。
歩き方がジグザグになっていたら
それは、彼女がパリで陰気になっているから。

けれども、セーヌ川は怠け者。
ニュイリーの近くを通過するとき。
ああ、彼女はどれほど不幸なのだろう
彼女の美しい友人と別れるために。
愛のある抱擁で
彼女は今でもパリを受け入れている。
彼女と別れて、寛大に。
一回り......サン・ドニで!

彼女は流れ、流れる
夜になると彼女の嘆きが...。
彼女は転がる、転がる、転がる
全てが終わる海に向かって...。
歌って、歌って、歌って、歌いまくる。
パリの愛を歌う!
セーヌ川は恋人だから
そして、パリは彼女のベッドで寝るのだ!

 

エッフェル塔

 

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歴史

1886年、万博の目玉となる大建造物を選定するためのコンペティションが開かれると、エッフェルはソーヴェストルおよびケクランと連名で計画案を提出した。1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴェストル、ケクランらの設計図であった。エッフェルらの案は満場一致で採択され、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に充分適うのはエッフェル塔のみと思われる」であった。エッフェル塔を設計したのは、エッフェル社の技師であるモーリス・ケクランとエミール・ヌーギエである。

Alexandre Gustave Eiffel

1887年1月28日に起工式が行われ、エッフェル塔建設が開始された。まず基礎工事が開始され、潜函工法によって6月11日には基礎が完成した。ついで4本の脚から塔本体の建設が始まり、1888年3月には1階の展望台が完成して4本の脚がつながった。同年8月14日には2階展望台が完成し、1889年2月24日には3階展望台の工事が着工。1889年3月30日には竣工した。3月31日にはピエール・ティラール首相らを招いて竣工式が行われた。

あまりに奇抜な外見のため、建設当時は賛否両論に分かれた。1887年2月には、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出している。反対派の文学者ギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔1階のレストランによく通ったが、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔が嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた。

1889年5月6日に開幕したパリ万博において、エッフェル塔は目玉となり、パリのみならず世界中から観光客が押し寄せた。ただし開幕時にはいまだエレベーターが完成しておらず、エッフェルがエレベーターなしでの一般公開に反対したこともあって、観光客の入場はできなかった。

万博終了後、エッフェル塔の来訪者は減少していったが、なおも年間10万から20万人台の入場者数は保っていた。1900年に再度パリで万国博覧会が開催されることが決定すると、エッフェル塔はふたたび万博のパビリオンとして多くの観光客を集めたが、その後の入場者数は低迷を続けた。こうしたことから、塔の権利がパリ市に移る1909年には解体されることが確実視されていた。しかし1904年、フランス軍で通信を担当していたギュスターヴ・フェリエが軍事用の無線電波をエッフェル塔で送受信することを提案し、そのため国防上重要な建築物ということで、取り壊しを免れることとなった。この電波塔としての役割は非常に重要なもので、現代に至るまでエッフェル塔の主目的の一つとなっている。

映画『エッフェル塔』予告編

観光名所としてのエッフェル塔

現在では、パリを代表するシンボルとなっている。1991年、この塔を含むパリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録された。1889年の完成から2006年までに、2億人以上の観光客がエッフェル塔を訪れた。この数字は、2006年に塔を訪れた6719200人を含んでいる。この数字はさらに増大しており、2017年9月には通算来場者数が3億人を突破して記念式典が開催された。エッフェル塔は、世界でもっとも多くの人が訪れた有料建造物である。一日平均で25,000人が塔にのぼるため、入場待ちの行列が長くなる場合がある。

エッフェル塔内部には1階の「Le 58 Tour Eiffel」と、2階の「ジュール・ヴェルヌ」の2軒のレストランが開業している。ジュール・ヴェルヌはスターシェフとして知られるアラン・デュカスの店で、2007年に開業し、専用のエレベーターを持ち、ミシュランガイドでも1つ星を獲得している。

[blogcard url="https://www.restaurants-toureiffel.com/en/58-tour-eiffel-restaurant.html"]

[blogcard url="https://www.restaurants-toureiffel.com/en/jules-verne-restaurant.html"]

エッフェル塔のミシュラン1つ星レストラン Le Jules Verne

[blogcard url="https://jams-parisfrance.com/info/lejulesverne/"]

エッフェル塔内のレストラン(動画)

 

アクセス

エッフェル塔の最寄り駅は、地下鉄(Métro)利用の場合は6号線ビラケム駅(Bir Hakeim)、または8号線のエコール・ミリテール駅となる。RER(近郊鉄道)利用の場合はC線 シャン・ド・マルス=トゥール・エッフェル駅(Champs de Mars - Tour Eiffel)で下車する。バスの場合は42、69、82、87番を利用する。

(Wikipediaより)

世界遺産クイズ

世界遺産検定クイズ

関連動画へのリンク

エッフェル塔の紹介ビデオ

 

エッフェル塔周辺の散策マップ

ノートルダム大聖堂

 

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Photo by gianclaudio curia, ** [ Im@ges in L ], SEBASTIEN SCHNEIDER, @ngèle, Matthieu Jolivet from Flickr and Shutterstock

歴史

建造

ノートルダム大聖堂の歴史は、1163年、国王ルイ7世臨席のもと、ローマ教皇アレクサンデル3世が礎石を据えたことに始まる。建築工事の大半は司教モーリス・ド・シュリーとその後継者オドン・ド・シュリーが指揮を執って進められた。建設当初はロマネスク様式だったが、建設途中でゴシック様式に変化した。大聖堂は1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年である。大聖堂のゴシック建築は彫刻やステンド・グラスを駆使して、聖書や聖人伝のさまざまなエピソードを表現している。ノートル・ダム大聖堂では、とりわけ、3つの薔薇窓のステンド・グラス正面ファサードの3つのポルタイユの上のレリーフが重要である。

破壊と再建

1793年には西正面の3つの扉口および、王のギャラリーにあった彫刻の頭部が地上に落とされた。ノートルダムの歴史を語る装飾が削り取られ、大聖堂は廃墟と化した。その後、ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』の出版が、国民全体に大聖堂復興運動の意義を訴えることに成功し、1843年、ついに政府が大聖堂の全体的補修を決定した。1844年、ジャン・バティスト・ アントワーヌ・ラシュスとウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクに委任が決まり、1845年に修復が開始された。1857年、共同修復者のラシュスが死去。その後はヴィオレ・ル・デュク単独の作業となった。1864年に修復は完了した。

火災

2019年4月15日の18時50分ごろ、ノートルダム大聖堂で大規模な火災が発生した。火災の中心は大聖堂の上部であり消火は難航した。2019年4月16日10時までに鎮火が発表されたが、尖塔とその周辺の屋根が崩落した。修復作業中だった尖塔が焼けて崩落し、木材で骨格が作られていた屋根の3分の2が焼失した。13世紀のバラ窓は3つとも生き残った。2つの塔と正面部は損壊を免れた。また、聖堂内にあった聖遺物「いばらの冠」と「聖ルイのチュニック」は消防士によって搬出され、被害を免れたこと

4月17日にマクロン大統領は「大聖堂の再建に関する会議」を開き、出席したユネスコ事務局長のオードレ・アズレ、パリ市長のイダルゴ、建築の専門家などとともに「焼失部は5年以内に(2024年パリ夏季オリンピックの開催年までに)再建が可能であること」や「焼失部以外の補強も必要であること」を確認した。

(Wikipediaより)

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関連動画へのリンク

ノートルダム大聖堂

Notre-Dame of Paris

ノートルダム大聖堂の火災を伝えるニュース

ノートルダム大聖堂(火災焼失前)

サント・シャペル

サント・シャペル (Shutterstock)

 

サント・シャペルのステンドグラス (Shutterstock)

サント・シャペル (Sainte chapelle)とは「聖なる礼拝堂」という意味で、フランスのパリ中心部、シテ島にあるゴシック建築の教会堂。 おそらくゴシック建築が最も輝かしかった時期の頂点ともいえる傑作である。 サント·シャペル·デュ·パレとも呼ばれ、ルイ9世(聖ルイあるいは聖王ルイ)が1239年から収集し始めた聖遺物を納めるために建設を命じたものである。コンシェルジュリーとともにカペー朝時代の王宮であるシテ宮の跡であり、現在はパリのパレ・ド・ジュスティスの一部である。

(Wikipediaより)

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サント・シャペルの建造を命じた人の名前として、正しいものはどれか。

コンシェルジュリー

コンシェルジュリー (Flickr)

 

コンシェルジュリー (Suzana Gutierrez, Flickr)

もともとフィリップ4世などカペー朝の王宮(palais de la Cité、シテ宮)として建てられ、10世紀から14世紀にかけて使用された。しかし、シャルル5世らによって放棄され、ヴァンセンヌ城に居城が移された後の1370年に牢獄として使われ始める。ロロージュ河岸に沿って建つ建物の地上階と2つの塔が牢獄に割り当てられた。

フランス革命の後恐怖政治の時代は国民公会により革命裁判所が隣設され、1793年からフランス革命暦3年草月12日(1795年5月31日)までの約2年間に、2780名に対して死刑判決が下されたという。多くの王族、貴族などの旧体制派が収容され、当時はその牢獄に入るとかならず死刑になるというので「死の牢獄」「ギロチン控えの間」とよばれた。マリー・アントワネットが投獄されたのは1793年である。しかし、大多数は一般市民・貴族・学者などだった。

(Wikipediaより)

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セーヌ河岸にあるコンシェルジェは、フランス革命時に刑務所として使われ、「死の牢獄」とも呼ばれた。この牢獄に収監された有名人の説明として、正しいものはどれか。

マリーアントワネットとコンシェルジェリー〔動画〕

 

ルーヴル美術館

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概要

ルーヴル美術館(Musée du Louvre)は、パリにあるフランスの国立美術館。世界最大級の美術館(博物館)である。収蔵品38万点以上。先史時代から19世紀までのさまざまな美術品3万5,000点近くが、総面積6万600平方メートルの展示場所で公開されている。世界でもっとも入場者数の多い美術館で、毎年800万人を超える入場者が訪れ、2018年は初めて1,000万人を超えた。

ルーヴル美術館は、フランス王フィリップ2世が12世紀に、もともとは要塞として建設したルーヴル城(ルーヴル宮殿)に収容されている。現在の建物にも要塞として使用されていた当時の面影が一部残っているが、幾度となく増改築が繰り返されて、現在のルーヴル宮殿の建物となっている。フランソワ1世の改築計画以来、歴代フランス王の王宮として使用されていたルーヴル宮殿だったが、1682年にフランス王ルイ14世が、自身の王宮にヴェルサイユ宮殿を選び、ルーヴル宮殿の主たる役割は、1692年以来収集されてきた古代彫刻などの王室美術品コレクションの収蔵、展示場所となった。

フランス革命下の憲法制定国民議会で、ルーヴル宮殿をフランスが保有する優れた美術品を展示する美術館として使用することが決定された。美術館として正式に開館したのは1793年である。建物の構造上の問題から1796年にいったん閉館されており、1801年に再度開館した。フランス皇帝ナポレオン1世が、諸国から美術品を収奪したことにより所蔵品は増大していき、美術館も名前を「ナポレオン美術館 (Musée Napoléon)」と改名したこともあった。

王政復古でフランス王となったルイ18世シャルル10世の統治時代、さらにフランス第二帝政時代でルーヴル美術館の所蔵品はさらに増え続け、2万点を超える美術品が集められた。その後に成立したフランス第三共和政の時代にも、ルーヴル美術館の所蔵品は遺贈や寄贈などによって着実に増えていった。2003年に「イスラム美術部門」が創設され、所蔵品が「古代エジプト美術部門」「古代オリエント美術部門」「古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門」「イスラム美術部門」「彫刻部門」「工芸品部門」「絵画部門」「素描・版画部門」の8部門に分類されることとなった。

1983年に、当時のフランス大統領ミッテランが推進した「パリ大改造計画 (en:Grands Projets of François Mitterrand)」の一環である「大ルーヴル計画 (Grand Louvre)」で建物が改築されるとともに、それまでルーヴル宮殿内にあった財務省が移設され、宮殿施設全体が美術館となった。そして建築家イオ・ミン・ペイから、ナポレオン広場に設けられた新たなエントランスにガラス製のピラミッド を建築する提案がなされた。完成したルーヴル・ピラミッドは、ガラスを主材料としており、高さ20.6メートル、底辺35メートルに達しており、603枚の菱形のガラス板と70枚の三角形のガラス板とで構築されていた。このピラミッドと直下の地下ロビーが落成したのは1988年10月15日のことである。

(Wikipediaより)

ルーヴル美術館の主な収蔵作品

https://amazing-trip.xyz/t-blog/louvre-reserve/louvre-floor01/

モナ・リザ

この作品が『モナ・リザ』と呼ばれているのは、16世紀のイタリア人芸術家、伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』の「レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンドから妻モナ・リザの肖像画制作の依頼を受けた」という記述が元となっている。イタリア語の「ma donna」は「私の貴婦人」を意味し、短縮形で「mona」と綴られる。ヴァザーリが著作に書いているように「mona」が伝統的な綴りではあるが、現代イタリア語では「madonna」の短縮形は「monna」となることが多い。したがって「モナ・リザ」を現代イタリア語で綴ると「Monna Lisa」となるが、世界の多くの言語では一般的に「Mona Lisa」と綴られている。

1516年に、レオナルドはフランス王フランソワ1世の招きに応じてフランスを訪れ、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館に移り住んだ。このときにレオナルドは『モナ・リザ』もフランスへ持参し、フランスでも『モナ・リザ』に加筆し続けたと考えられている。レオナルドは1519年に死去し、『モナ・リザ』は他の作品とともに弟子のサライが相続した。その後フランソワ1世が『モナ・リザ』を4,000エキュで買い上げ、ルイ14世に寄贈されるまで、100年以上フォンテーヌブロー宮殿に所蔵されていた。ルイ14世は『モナ・リザ』を自身が新たに王宮に定めたヴェルサイユ宮殿へと移した。フランス革命後、『モナ・リザ』はルーヴル美術館の所蔵となったが、ナポレオン1世がフランス皇帝だったときには、テュイルリー宮殿のナポレオン1世の寝室に飾られていたこともあった。

モナ・リザ (Flickr)

ミロのヴィーナス

ミロのヴィーナス(Vénus de Milo)は、前2世紀ごろ古代ギリシアで制作された彫刻の女性像である。現在はパリのルーヴル美術館で展示・管理されており、同じくルーヴル所蔵のサモトラケのニケなどと並び最もよく知られたヘレニズム期の彫刻の一つ。 ミロのヴィーナスはギリシア神話における女神アプロディーテーの像と考えられている。高さは203cm。材質は大理石。発見時は碑文が刻まれた台座があったが、ルーヴル美術館に持ち込まれた際に紛失している。

ミロのヴィーナスは、1820年4月8日に小作農であったヨルゴス・ケントロタスによってオスマン帝国統治下のエーゲ海にあるミロス島で発見された。彼は最初、官吏に見つからぬようにヴィーナス像を隠していたが、トルコ人の官吏に発見され没収された。後に、フランス海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルは、この像を見て価値を認め、フランス大使に頼みこんでトルコ政府から買い上げた。これは修復された後にルイ18世に献上された。ルイ18世はこれをルーヴル美術館に寄付し、現在でもそこで管理されている。

ミロのヴィーナス (Flickr)

サモトラケのニケ

ヘレニズム期の大理石彫刻。翼のはえた勝利の女神ニケが空から船のへさきへと降り立った様子を表現した彫像である。1863年に(エーゲ海の)サモトラケ島(現在のサモトラキ島)で発見された。頭部と両腕は失われている。

最初の発見は1863年で、フランス領事シャルル・シャンポワゾによって胴体部分が見つけられた。それに続いて断片と化した片翼が見つかった。断片は全部で118片にのぼる。その後復元された像は1884年にルーヴル美術館の『ダリュの階段踊り場』に展示され、現在に至る。1950年に右手が発見され、ルーヴル美術館に保管されている。その手は大きく広げられている。

サモトラケのニケ (Flickr)

ドラクロア『民衆を導く自由の女神』

ウジェーヌ・ドラクロワによって描かれた絵画。1830年に起きたフランス7月革命を主題としている。中心に描かれている、銃剣つきマスケット銃を左手に持ちフランス国旗を目印に右手で掲げ民衆を導く果敢な女性は、フランスのシンボルである、マリアンヌの姿の代表例の一つである。絵画としてのスタイル、フランス7月革命というテーマから、絵画におけるロマン主義の代表作と言える。

女性は自由を、乳房は母性すなわち祖国を、という具合に、ドラクロワはこの絵を様々な理念を比喩(アレゴリー)で表現している。一方で、彼女が被るフリギア帽は、フランス革命の間に自由を象徴するようになった。やはりマスケット銃を携えて女性に続くシルクハットの男性は、ドラクロワ自身であると説明される事が多い。女性の右隣の二丁拳銃の少年については、誰をイメージしたのかは不明。

(Wikipediaより)

ドラクロア『民衆を導く自由の女神』 (Flickr)

ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』

ナポレオン1世の首席画家ジャック=ルイ・ダヴィッドにより描かれた油彩画で、1807年に完成された。幅10メートル (33 ft)、高さ6メートル (20 ft)ほどの大作で、歴史的局面を印象的に表現している。ナポレオン1世の成聖式は、パリのノートルダム大聖堂で行われた。その目的は、ナポレオンが「フランス人民の皇帝」として革命を引き継ぐ者であると示威することにあった。

ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』 (Flickr)

フェルメール『レースを編む女』

『レースを編む女』は、オランダ黄金時代の画家ヨハネス・フェルメールが1669年から1670年ごろに描いた絵画。黄色のショールを羽織った若い女性が左手に2つの糸巻きをもち、枕にレース編みをしている様子を描いた作品である。この作品にはレース編みの制作過程がきわめて正確に描写されているこの作品の構成を決めるにあたって、フェルメールはおそらくカメラ・オブスクラを使用している。光学装置の使用による典型的な表現を、前景のにじんだような描写に見て取ることが出来る。

フェルメール『レースを編む女』 (Wikipedia)

テオドール・ジェリコー『メデューズ号の筏』

ジェリコーが27歳の時の作品であり、フランス・ロマン主義の象徴となった。本作は、 フランス海軍のフリゲート艦メデューズ号が難破した際に起きた事件を表している。メデューズ号は、1816年7月5日、今日のモーリタニア沖で座礁した。少なくとも147人の人々が、急ごしらえの筏で漂流しなければならなかった。そのほとんどが救出までの13日間で死亡し、生き残った15人も、飢餓、脱水、食人、狂気にさらされることになった。事件は国際的スキャンダルとなり、フランス復古王政の当局指揮下にあったフランス軍指揮官の、無能が遠因になったとされた。

ジェリコー『メデューサ号の筏』 (Flickr)

アングル『トルコ風呂』

82歳当時のジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルがハレムの裸婦を描いた絵画である。 当初は長方形だったが、1863年に画家より現在の円形に変更された。アングルは、年齢を重ねた後も官能的な作品を生み出すアイロニーを楽しんでおり、この作品にも自分の年齢を「AETATIS LXXXII(「82歳で」の意)」と銘打っている。この作品を注文したのはナポレオン3世の親族であったが、数日後に返却されてしまった。 彼の妻が「不適当 (peu convenable)」と不快を示したからである。 最終的に、トルコの元外交官ハリル・ベイが1865年に作品を購入した。彼は官能的な絵画を数多く所持しており、その中にはギュスターヴ・クールベの『世界の起源』も含まれている。

 

アングル『トルコ風呂』 (Flickr)

ラファエロ『聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ(美しき女庭師)』

本作は、当初、『農民の聖母』というタイトルでフランス王室コレクションの記録に記されていた。1720年頃に、芸術愛好家であるピエール・ジャン・マリエットの『手引書』において『女庭師』というタイトルがつけられ、その後、『美しき女庭師』と記されるようになった。ルーヴル美術館では、『聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ』(仏: La Vierge à l’Enfant avec le petit saint Jean Baptiste)というタイトルで展示されている。

中央に描かれた女性、聖母マリアが身につけているドレスの赤色は、深い愛もしくは犠牲の血の色を表しており、マントの青色は、天上の真実を表している。左下の幼児はイエス・キリストであり、母親であるマリアの膝の上から『旧約聖書』を取ろうとしている。右下でひざまずいている幼児はヨハネであり、ラクダの毛の衣を身につけており、葦でつくられた十字架の杖を手にしている。ヨハネは、イエスに従うようなしぐさを見せている。3人の頭上には、金の光輪が描かれている。

ラファエロ『美しき女庭師』 (Wikipedia)

レオナルド・ダ・ヴィンチ『岩窟の聖母』

『岩窟の聖母』は、ルネサンスを代表するイタリア人芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた絵画。ほぼ同じ構図、構成で描かれた2点の作品があり、最初に描かれたといわれるヴァージョンはパリのルーヴル美術館が、後に描かれたといわれるヴァージョンはロンドンのナショナル・ギャラリー(が、それぞれ所蔵している。両ヴァージョンともに高さが約 2 m という大きな作品であり、油彩で描かれている。もともとはどちらも板に描かれていた板絵だったが、ルーヴル・ヴァージョンは後にキャンバスへ移植された。どちらの『岩窟の聖母』にも、聖母マリア幼児キリスト、そして幼い洗礼者ヨハネと天使が岩窟を背景として描かれている。

(Wikipediaより)

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ダ・ヴィンチ『岩窟の聖母』 (Wikipedia)

関連動画へのリンク

ルーヴル美術館

Musée du Louvre : YouTube Channel

https://www.youtube.com/user/louvre"

The Louvre : 800 years of history

Paris, France: The Magnificent Louvre

 

オルセー美術館

 

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概要

オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルであった。設計者はヴィクトール・ラルーである。もともとオルセー駅はオルレアンやフランス南西部へ向かう長距離列車のターミナルであり、かまぼこ状の大屋根の下の地下に10線以上のホームを備えていた。狭くて不便だったことから、1939年に近距離列車専用駅となり、駅施設を大幅に縮小した。1970年代からフランス政府によって保存活用策が検討されはじめ、イタリアの建築家ガエ・アウレンティの改修により19世紀美術を展示する美術館として生まれ変わることとなった。こうして1986年、オルセー美術館が開館した。美術館の中央ホールは、地下ホームのトレイン・シェッドによる吹き抜け構造をそのまま活用している。建物内部には鉄道駅であった面影が随所に残る。

館の方針としては、原則として2月革命のあった1848年から、第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品を展示することになっており、それ以前の作品はルーヴル美術館、以降の作品はポンピドゥー・センターという役割分担がなされている。オルセーでは、印象派やポスト印象派など19世紀末パリの前衛芸術のコレクションが世界的に有名である。

主な収蔵作品

カバネル『ヴィーナスの誕生』

本作は、1863年に開催されたサロン・ド・パリに出品されて入選を果たし、芸術の王道であると賞賛され、フランス皇帝ナポレオン3世が個人的なコレクションのために買い上げた。これによって、カバネルは名声を確固たるものにした。小説家のエミール・ゾラは、本作について、「乳白色の川に身を浸した女神はさながら官能的なロレットのようだ。それは肉と骨からできているのではなく――そうであれば淫らになってしまう――、一種の白とピンクの練り菓子でできている」と評価している。

カバネル『ヴィーナスの誕生』 (jean louis mazieres, Flickr)

ミレー『落穂拾い』

『落穂拾い』は、1857年にフランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーによって描かれた油彩作品。ニコラ・プッサンにも同様の絵画があるように「落穂拾い」は農村の貧しい人々の姿を描いただけでなく、『旧約聖書』の「ルツ記」に基づいた作品である。1849年6月にパリの政治的混乱やコレラを避けて、当時芸術家たちの集まっていたバルビゾン村に疎開したミレーが描いた農民画のひとつで、『種まく人』『晩鐘』とともにミレーやバルビゾン派絵画の代表作と位置付けられている。

ミレー『落ち穂拾い』 (Flickr)

マネ『草上の昼食』

マネは題名を『水浴』(1867年にマネ自身によって『草上の昼食』に改題)として1863年のサロン(官展)に出品したが、「現実の裸体の女性」を描いたことが「不道徳」とされ落選。その後、同サロンに落選した作品を集めた落選展にも展示されたが、同様の理由で批評家たちに批判されるなどスキャンダルを巻き起こした。

マネ『草上の昼食』 (Flickr)

ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』

ルノワールが35歳のときに描いた絵画作品。1877年の第3回印象派展に出品された作品でもある。パリのモンマルトルにあるダンスホール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」での舞踏会を題材としている。単に『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』とも呼ばれる。画中の人物たちは、ルノワールの友人たちがモデルになっている。当時、ルノワールはこのダンスホールの近くに住んでおり、アトリエから通いながら制作していた。だが、縦131センチ、横175センチもあるこの作品を持ち運ぶことは困難で、傷つくおそれもあるため、ダンスホールには半分ほどのサイズのキャンヴァスを持って行った。そして、現場で描いた小さい方の絵を持ち帰り、これをもとにして、アトリエでは大きい方の絵を描いた。

ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』 (Wikipedia)

ドガ『ダンス教室』

ドガが自分のスタイルを確立したのは1870年代前半のことであった。現代的な題材を描きたいという印象派と同じ熱い想いを持ちながらも、バレエや劇場といった劇的な世界を描いたドガの作品には、一種の刺激が加わっている。一方で、巨匠たちやアングルを深く敬愛する、傑出した素描家でもあった。そのことは、この作品にもはっきりと見られるドガの人間形態への関心を育むのに役立った。画家はアトリエでポーズをとる踊り子たちのデッサンを重ね、熱心に準備した。その生き生きとした筆遣いや、淡く明るい色調は印象派の典型とも言える。(MUSEYより)

ドガ『ダンス教室』 (Flickr)

モネ『アルジャントゥイユの橋』

モネは、1870年代のほとんどをセーヌ河流域のアルジャントゥイユで過ごした。ここには、モネを訪ねてマネやシスレーも来て絵を描いた。アルジャントゥイユはパリの北西約10キロメートルにある街で、パリからも比較的近いため行きやすかったのである。この絵は、モネの風景画の代表作の一つで、教科書にもしばしば登場する。

モネ『アルジャントゥイユの橋』 (Flickr)

セザンヌ『リンゴとオレンジ』

セザンヌは多くのすばらしい静物画を残している。これも傑作の一つ。『リンゴとオレンジ』では、果物や水差しなどが実際にはありえない置き方になっているが、これはセザンヌがすべてのモチーフを、さまざまな視点から見てもっともよい角度から描いたためである。このような多様な視点からの描き方は、キュービズムなど後世の絵画にも大きな影響を及ぼした。

セザンヌ『リンゴとオレンジ』 (Flickr)

ゴッホ『ファン・ゴッホの寝室』

1888年から1889年にかけてフィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた絵画。油彩。同名の作品が3点あることが認められている。フランス・アルルでゴッホが暮らした家の2階の部屋を描いたもの。家は現存しないが、ゴッホの作品に黄色い家として残されている。絵の左側の扉はゴーギャンの部屋につながっていたとされる。

最後のバージョンは1889年9月にゴッホの母のためにサイズを縮小して複製して描かれたものである。後に松方幸次郎が購入しコレクション(いわゆる松方コレクション)に加えられていたが、第二次世界大戦当時はフランスに残され、サンフランシスコ講和条約による戦後賠償の一環として1959年にフランスの国有となり、現在はオルセー美術館にある。

ゴッホ『ファン・ゴッホの寝室』 (Flickr)

ゴーギャン『タヒチの女たち』

ゴーギャンが生涯二度のタヒチ訪問で描いた作品。ゴーギャンはヨーロッパの劣悪な環境から抜け出し、タヒチの楽園でのびのびと暮らす人々を多く描いた。砂浜の黄色と鮮やかな衣服の色彩が、南国の空気や人の温かさを伝えてくれる。(ネット美術館「アートまとめん」より)

ゴーギャン『タヒチの女たち』 (Wikipedia)

マイヨール『地中海』

マイヨールは1895年頃から木彫やテラコッタなどの彫刻の小品を手掛けるようになり、1902年には当時の有力な美術商であったアンブロワーズ・ヴォラールの店で初の彫刻の個展を開いている。ロダンは、この展覧会の出品作であった「レダ」を絶賛した。こうして彫刻家に転身した時、マイヨールはすでに40歳を超えていた。1903年にはパリ郊外のマルリー=シュル=オワーズに移転して制作を続けた。1905年にサロン・ドートンヌに出品した初の大作裸婦像「地中海」が認められ、以後、彫刻家としての地位を確立していった。

マイヨール『地中海』 (Flickr)

アングル『泉』

フランス新古典主義の画家ドミニク・アングルが1820年から1856年にかけて描いた絵画である。油彩。主題は若く美しい女性の姿で表現された泉の擬人像である。フィレンツェ時代の1820年頃に制作が開始され1856年に完成した本作品は、アングルの画業において最もよく知られる代表的傑作である。『泉』を完成させたときアングルは76歳に達しており、すでにその名声は知れ渡り、エコール・デ・ボザールの学長を務めていた。

アングル『泉』 (Wikipedia)

ルノワール『都会のダンス』『田舎のダンス』

『田舎のダンス』は1882年、画商のポール・デュラン=リュエルが舞踏会を主題に注文、1886年に購入した作品である。 最初の展示は1883年の4月で、彼は1919年にルノワールが死去するまでそれを所蔵していた。 ルノワールは同年、同じテーマで『都会のダンス』という作品も描いている。作品は、栗の木の下で踊る男女を描いている。 男性は画家の友人ポール・ロートで、女性はのちに画家の妻となるアリーヌ・シャリゴである。オルセー美術館では、二つの作品が並べて展示されている。

ルノワール『都会のダンス』『田舎のダンス』 (JR P, Flickr)

モネ『日傘をさす女性』

モネは、妻のカミーユをモデルとして、日傘をさす姿を何枚か描いている。このうち、もっとも美しい傑作は、米国ワシントンのナショナル・ギャラリーに所蔵される『散歩、日傘をさす女性』である。これは、カミーユが長男ジャンとともに草原を散歩する様子を描いたものである。

モネ『散歩、日傘をさす女性』(Wikipedia)

オルセー美術館に所蔵されているのは、『戸外の人物習作』(右向き左向き)である。『散歩、日傘をさす女性』では、日陰になっていながらもベールの下のカミーユの表情が描かれているが、『戸外の人物習作(左向き)』では、モデルを務めたオシュデ夫妻の三女シュザンヌの表情は判然としない。

モネ『人物秀作』 (Flickr)

ゴッホ『ローヌ川の星月夜』

1888年9月に描かれた「ローヌ川の星月夜」は、ゴッホが描いたアルルの夜景の一枚。描かれているのは当時ファン・ゴッホが借りていたラマルティーヌ広場に面する黄色い家から徒歩1、2分のローヌ川岸からの眺めである。ゴッホは弟テオへの手紙の中で本作について説明している。「30センチ四方のキャンバスを同封した。簡単に言えば夜景、もっと詳しくはガス灯の下で描いた星空だ。空は淡い青緑色で水はロイヤルブルー、地面は藤色だ。街は青と紫。ガス灯は黄色で川面に映った灯は朽葉色から緑がかったブロンズ色まで。アクアマリンの空にはおおぐま座が緑とピンクに輝いて、その青白さがガス灯の眩しい金色とコントラストを描いている。画面の手前には恋人たちがいる。」この絵を描くために選んだポイントからは、アルルの街のガス灯がローヌ川のきらきら輝く川面に映っているのが見える。手前の河岸を二人の恋人がそぞろ歩いている。 (MUSEYより)

ゴッホ『ローヌ川の星月夜』 (Flickr, Prudence Heward)

ルソー『戦争』

ルソーは税関に22年ほど勤務した後、絵に専念するため1893年には退職して、早々と年金生活に入っている。税関退職前の作品としては『カーニバルの夜』(1886年)などがあるが、『戦争』(1894年)、『眠るジプシー女』(1897年)、『蛇使いの女』(1907年)などの主要な作品は退職後に描かれている。『戦争』と『蛇使いの女』がオルセー美術館に収蔵されている。『戦争』は、特定の戦争が主題になっているわけではない。戦争によってもたらされる「破壊」「悲劇」「死」を象徴的に描いた。そのため色彩には黒を多用している。

(Wikipediaより)

ルソー『戦争』 (Wikipedia)

世界遺産クイズ

世界遺産検定クイズ

関連動画へのリンク

オルセー美術館 | 8K撮影 | Musée d'Orsay | NHK

https://www.youtube.com/watch?v=lPmm5FrCslk

オルセー美術館

Musee d'Orsay (A2+) フランス語

Musée d'Orsay: YouTube公式チャンネル

https://www.youtube.com/user/MuseeOrsayOfficiel

 

マレ地区

 

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Photo by Ester,  bournvillebaggie,  traceylikesyou,  Guilhem Vellut, Sergio Goncalves, Ester, Julien Chatelain, jlfaurie, Pierre, A_Paris_ou_Ailleurs, Zoran M., Philippe B.., Kirk K, Giovanni Maggiora, diamond geezer, Dan Masa, Joop van Meer, Thomas Schirmann , patrick janicek , Marco Ziero , didimouman,  Gordon Burnett from Flickr

歴史

マレ地区(Le Marais)は、フランス、パリの歴史的地域である。長く貴族が居住した地域であり、歴史・建築的重要性の高い多くの優れた建造物がある。パリの3区から4区にかけて広がっている地域。

1240年にテンプル騎士団は要塞化工事を施した教会をマレ地区の北側、パリの城壁の外側ほど近くに建設した。タンプル塔によってこの地区は魅力を増し、タンプル地区 (Quartier du Temple)として知られるようになった。1361年、シャルル5世オテル・サン=ポール (サン=ポール館、Hôtel Saint-Pol) として知られる邸宅を建て、シャルル5世及びその子シャルル6世の治世において宮廷ないし王宮が置かれた。サン=ポール館の他、トゥルネル館 (Hôtel des Tournelles) が建てられ、イングランド王フランス摂政ベッドフォード公爵ジョン・オブ・ランカスター、ルイ11世、フランソワ1世、アンリ2世らが居住ないし滞在した。

17世紀に入り1605年、「王の広場」(現在のヴォージュ広場)がブルボン朝創始者アンリ4世のもとで設計されて以降、マレ地区はフランス貴族に居住地として人気があった。フランスの貴族は自分たちの本邸をマレ地区に建てた。オテル・ド・サンス (Hôtel de Sens)、オテル・ド・シュリー (Hôtel de Sully)、オテル・ド・ボーヴェ (Hôtel de Beauvais)、オテル・カルナヴァレ (Hôtel Carnavalet, 現在のカルナヴァレ博物館)、 オテル・ド・ゲネゴー (Hôtel de Guénégaud)、オテル・ド・スービーズ (Hôtel de Soubise) などがその例である。

貴族がフォブール・サンジェルマンへ移動し始めた後に、マレ地区はパリの主要なユダヤ人社会を抱える、活発で人気のある商業地域となった。19世紀から20世紀前半の間、プレッツルと呼ばれたロジエ通り (Rue des Rosiers) 付近の地区は多くの東欧系ユダヤ人(アシュケナジム)を迎え入れ、彼らによってマレ地区の服飾業への特化が加速した。

オテル・サレ(Hôtel Salé)にはピカソ美術館があり、オテル・カルナヴァレ(Hôtel Carnavalet)にはカルナヴァレ博物館(パリ歴史博物館)が、オテル・ドノン(Hôtel Donon)にはコニャック=ジェイ美術館があるといった具合である。マレ地区の西側にあるボーブール地区には欧州最大のコレクションを有する国立近代美術館が入った総合文化施設ポンピドゥー・センターがある。

マレ地区は現在では、パリでも有数のアートギャラリーが集まる地域である。その復興に続いて、ソーホー等と比肩されるようにマレ地区は流行の発信地となった。多くの流行のレストランや高級ファッションメーカー、先端をいくギャラリーがある。

マレ地区の主要な文化資産

ヴォージュ広場

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ヴォージュ広場 (Place des Vosges)は、元は「王の広場」(place Royal)と呼ばれていたもので、正方形に設計されたパリ最古の公園である。17世紀〜18世紀頃、裕福な人だけが住むことできる高価でファッショナブルな地区だった。この広場は1605年から1612年にかけてアンリ4世によって建てられた。ヴォージュ広場は、1612年にルイ13世とオーストリアのアン王女の婚約を祝して竣工した。

アンリ4世はこの「王の広場」を取り囲む建物を全て同じ造りにしようと考えた。その後、広場を囲む36の邸宅には、多くの貴族や政治家や作家が住むようになった。二つだけ、他のよりも高い邸宅があり、それらには王や王妃が住む計画があったが、実際には王や王妃が住むことはなかった。唯一の例外は、オーストリアのアン王妃で、短い期間ではあるが「王妃の館」(the Pavilion de la Reine)に住んでいた。

フランス革命後、王の広場は「ヴォージュ広場」(Place des Vosges)と改名された。「ヴォージュ」とは、フランス東部の地方の名である。当時、ヴォージュ県が最も速く税金を納めていたため、感謝の意を表して、この名称がつけられた。

ヴォージュ広場の邸宅に住んでいた著名人としては、作家のヴィクトル・ユーゴーがいる。 ユーゴーが暮らしていた6番地は 、記念館として一般公開されている。現在、広場には多くの月桂樹が植えられ、パリ市民の憩いの場となっている。

メモ

ヴォージュ広場の一角にあるホテル「王妃の館」(Pavillon de la Reine)は、アン王妃がかつて近くの館に滞在したことがあるという史実に因んで名付けられたものであるが、18世紀に建てられたもので、アン王妃の滞在した「王妃の館」とは別物である。浅田次郎の小説『王妃の館』に登場する超高級ホテルは、ヴォージュ広場の一角にあり、ルイ14世が愛姫のために建てたという設定になっているが、これも史実とは異なっており、現実にあるホテル「王妃の館」とも無関係である。浅田次郎原作の映画『王妃の館』でも、舞台となったホテルの外観にはヴォージュ広場前にある「パヴィヨン・ド・ラ・レーヌ」が使われたが、これも史実上の「王妃の館」とは別の建物である。

 

 

ヴォージュ広場 (Shutterstock)

 

ヴィクトル・ユーゴーの邸宅内部 (Flickr)

オテル・ド・サンス

元サンス大司教のパリ別邸 Hôtel de Sens。現在は、パリ市立フォルネー図書館 Bibliotheque Forney (1961) として使用されている。。サンス大司教だったTristan de Salazar の紋章やロレーヌの十字が建物の外壁に飾られている。庭園部分はサンス館公園 Jardin de l’Hôtel de Sens として開放されている。

オテル・ド・サンス (Flickr)

オテル・ド・シュリー

Jean Androuet du Cerceau がルイ13世様式で建築した (1625-30) 大邸宅 Hôtel particulier をアンリ4世の財政担当大臣を務めたシュリー公爵 Maximilien de Béthune が購入 (1634) し、その後、左ウイングの拡張や装飾が加えられた。現在は国有財産 (Centre des monuments nationaux) 。(「ギャラリー・イグレックの日記帳」より)

オテル・ド・シュリー (Flickr)

オテル・ド・スービーズ

オテル・ド・スービーズの建設はルイ14世時代末期の1705-09年にかけて行われ、新進の建築家ピエール・アレクシス・ドラメールが手がけたもので、端正な古典様式を採用している。屋階に簡素な手摺を持つ吹き寄せ円柱のコロネードが大きな前庭を取り巻いている。隣接する旧ド・ギーズ館とともに「フランス歴史博物館」として貴重なフランス史の原資料を公開している。

オテル・ド・スービーズ (Flickr)

ピカソ美術館

ピカソ美術館は、その名のとおり画家パブロ・ピカソの作品を収蔵・展示している国立美術館で、パリ3区の南部に位置している。その収蔵品は、ピカソの遺族が相続税として物納した作品が中心となっており 、1973年に死去したピカソが最後まで手元に留めていた貴重なものが多い 。「青の時代」と呼ばれている初期の代表作『自画像』をはじめとして、『籐椅子のある静物』、『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』、『浜辺を駆ける二人の女 (駆けっこ)』、『牧神パンの笛』、『ドラ・マールの肖像』、『接吻』などを収蔵している。

美術館の建物は、もともと塩税徴収官の邸宅であったことから、「Hôtel Salé(オテル・サレ、塩の館)」と呼ばれる。1656年から1659年にかけて建築家ジャン・ド・ブイエによって建設され、歴史的な建造物として1964年、パリ市に買収された。

ピカソ美術館 (Flickr)

 

ピカソ美術館の紹介動画

 

カルナヴァレ博物館

カルナヴァレ博物館は、パリの歴史資料を収蔵・展示している市立博物館で、パリ3区の南境であるフラン=ブルジョワ通り沿いにある。パリ歴史博物館 (Musée de l'Histoire de Paris)、カルナヴァレ美術館ともいう。

歴史のある貴族の邸宅が多いマレ地区に位置しており、この博物館もまた、カルナヴァレ館ル・プルティエ・ド・サン=ファルジョー館という2つの歴史的な建物で構成されている。カルナヴァレ館は、もともとは1548年に建造されたルネサンス様式の建物で、17世紀中頃に建築家フランソワ・マンサールが改修した後 、1866年、パリ市が買収・改修し、カルナヴァレ博物館が誕生した 。

カルナヴァレ博物館 (Flickr)

ポンピドゥー・センター

ジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター(Centre national d’art et de culture Georges Pompidou (CNAC-GP))は、パリ4区のサン=メリ地区にある総合文化施設である。1969年に、近代芸術の愛好家でもあったジョルジュ・ポンピドゥー大統領 (1969-1974) が、首都パリの中心部に造形芸術のほか、デザイン、音楽、映画関連の施設および図書館を含む近現代芸術拠点を設ける構想を発表。1977年にヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領により落成式が行われた。設計を手がけたのは建築家レンゾ・ピアノ、リチャード・ロジャースおよびチャンフランコ・フランキーニ(フランス語版)である。当初は、デザインが斬新すぎて歴史ある建物が立ち並ぶパリの美観を損ねるなどの批判があったが、レンゾ・ピアノは「いかめしい文化施設のイメージを破壊したかった。これは芸術と人間のこの上なく自由な関係の夢であり、同時にまた、街の息吹が感じられる場である」と語った。

(Wikipediaより)

アクセス

メトロ:
11号線「ランビュトー(Rambuteau)」駅
1・11号線「オテルドゥヴィーユ(Hôtel de Ville)」駅
1・4・7・11・14号線「シャトレ(Châtelet)」駅

バス:
29・38・47・75系統のバスで、「センタージョージポンピドゥー(Centre Georges Pompidou)」下車。

ニュース:ポンピドゥー・センター、2023年から約3年間の工事休館

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/23487

 

ポンピドゥー・センター (Flickr)

 

ポンピドゥー・センター (Flickr)

 

ポンピドゥー・センター (Flickr)

マレ地区の散策マップ

世界遺産クイズ

世界遺産検定クイズ

 

 


ポンピドゥーセンターの紹介動画

 

マレ地区の関連動画

マレ地区を歩く

The Marais

Things to do in Le Marais district

Rick Steves's Europe: Paris, France: The Marais District

 

アンヴァリッド

アンヴァリッド (Shutterstock)

 

アンヴァリッドの内部 (Flickr)

概要

パリの歴史的建造物の一つ、旧・軍病院。廃兵院。1671年にルイ14世傷病兵を看護する施設として計画し、リベラル・ブリュアンが設計の指揮をとり1674年に最初の傷病兵たちが入った。建築史上有名なのは附属する礼拝堂の建築である。教会(大聖堂)は、"聖ルイ"と称えられるルイ9世の遺体安置のために建設された。教会の建設は1677年に始まり、後に兵士の教会とドーム教会に分かれ、ブリュアンの弟子ジュール・アルドゥアン=マンサールのもとで1706年に完成した。オルレアン朝(1830-1848年)時代、ルイ・フィリップ国王により、ドーム教会に地下墓所が設けられ、ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩が中央に置かれた。また、それを囲むようにして、ナポレオンの親族やフランスの著名な将軍の廟が置かれている。21世紀当初において、100人ほどの戦傷病兵や傷痍軍人が暮らしている。一部はフランス軍事博物館として公開されている。

世界遺産クイズ

世界遺産検定クイズ

アンヴァリッドは、もともと誰がどんな目的で建設されたか。正しいものを選びなさい。

ナポレオンの棺 (Quinn Novak, Flickr)

アンヴァリッド(紹介動画)

 

チュイルリー庭園

チュイルリー庭園 (Flickr)

 

チュイルリー庭園 (Flickr)

17世紀から19世紀まであったテュイルリー宮殿(Palais des Tuileries)の跡地に作られた庭園。ルーヴル宮殿の西側に隣接する。

テュイルリー宮殿は、1563年に当時の摂政であった王母カトリーヌ・ド・メディシスが建造を命じ、フィリベール・ドゥ・ロルムの設計のもと、約100年の時を費やして完成した。

1664年にはルイ14世の命で、ヴェルサイユ宮殿の庭園なども手掛けたル・ノートルによって泉水や散歩道などが整備され、現代に残る庭園が作り上げられたが、1683年に王宮はヴェルサイユ宮殿に移る。ルイ15世は即位初のオルレアン公爵の摂政期にパリへ居所を移し、テュイルリー宮殿に滞在したが、1722年にヴェルサイユへ還宮し、宮殿は再び空くことになった。その後、芸術家らの社交の場として時々活用された。

1789年10月のヴェルサイユ行進によりルイ16世とその一家はパリへ連行され、テュイルリー宮殿に留まることになった。1791年6月21日、国王一家が国外脱出を試みてから逮捕されたヴァレンヌ事件を切っ掛けに、ブルボン朝の位相は大きく失墜された。同時期、憲法制定国民議会において1791年憲法が制定され、同年10月1日にはテュイルリー宮殿で立法議会が開催されることとなった。

1794年6月8日、ロベスピエールの主導でテュイルリー宮殿及びシャン=ド=マルス公園において最高存在の祭典が開催された。1799年の軍事クーデターにより統領政府が成立し、翌1800年1月19日にはナポレオン・ボナパルトがテュイルリー宮殿を自らの公邸とした。

1848年の二月革命を迎え、テュイルリー宮殿は徹底的に略奪された。1852年1月、親衛クーデターにより帝位に就いたナポレオン3世は居所をエリゼ宮殿からテュイルリーに移し、翌1853年1月30日にウジェニー・ド・モンティジョとの結婚式を挙げた。第二帝政期にテュイルリーの宮廷は最も洗練された華やかさを享受した。

1871年5月23日、パリ・コミューンの鎮圧の最中にコミューン側の兵士が放火し、焼失した。

オテル・ド・ヴィル(パリ市庁舎)やルーヴル宮殿の一部などパリ・コミューン時に焼失した建物は外壁を再利用して逐次再建された。しかし、外壁のみの廃墟となったテュイルリー宮殿は再建可能な状態であったものの王政・帝政の遺物として撤去が決まり、反対運動の中1883年に外壁が解体された。

(Wikipediaより)

世界遺産クイズ

世界遺産検定クイズ

テュイルリー庭園の説明として、正しくないものはどれか。

関連動画へのリンク

チュイルリー公園

Jardin des Tuileries

 

シャンゼリゼ通り界隈

シャンゼリゼ通り(北西部)

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シャンゼリゼ通り(南東部)

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Paris Musee de l Orangerie
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Photo by Raymonde Contensous, Edgardo W. Olivera, Martyn Davis, Loanne ou Lolo (No logos please), SYLVAINE, Rex Harris, Herbert Frank

シャンゼリゼ通り( Avenue des Champs-Élysées、またはLes Champs-Élysées)は、フランス・パリの市内北西部にある大通り。パリ市内で最も美しい通りとされていて、特にフランスでは「世界で最も美しい通り (la plus belle avenue du monde)」と言う表現が使われている。『オー・シャンゼリゼ』という流行歌で日本でも広く知られるようになった。

 

 


 

Je m'baladais sur l'avenue
Le coeur ouvert à l'inconnu
J'avais envie de dire bonjour
À n'importe qui

N'importe qui ce fut toi
Je t'ai dit n'importe quoi
Il suffisait de te parler
Pour t'apprivoiser

Aux Champs-Élysées
Aux Champs-Élysées
Au soleil, sous la pluie
À midi ou à minuit
Il y a tout ce que vous voulez
Aux Champs-Élysées

Tu m'as dit "J'ai rendez-vous
Dans un sous-sol avec des fous
Qui vivent la guitare à la main
Du soir au matin"

Alors je t'ai accompagnée
On a chanté, on a dansé
Et l'on n'a même pas pensé
À s'embrasser

Aux Champs-Élysées
Aux Champs-Élysées
Au soleil, sous la pluie
À midi ou à minuit
Il y a tout ce que vous voulez
Aux Champs-Élysées

Hier soir deux inconnus
Et ce matin sur l'avenue
Deux amoureux tout étourdis
Par la longue nuit

Et de l'Étoile à la Concorde
Un orchestre à mille cordes
Tous les oiseaux du point du jour
Chantent l'amour

Aux Champs-Élysées
Aux Champs-Élysées
Au soleil, sous la pluie
À midi ou à minuit
Il y a tout ce que vous voulez
Aux Champs-Élysées

 

私は大通りを歩いていた
未知の世界に心を開いて
挨拶したかった
誰に対しても

誰が見ても君だよ
私は何でも話しました。
あなたと話をするだけでよかったんです
あなたと仲良くなれるために

シャンゼリゼ通りにて
シャンゼリゼ通りにて
太陽の下で、雨の中で
正午か真夜中に
欲しいものはすべてある
シャンゼリゼ通りにて

あなたは私に「私はデートをしている」と言いました。
狂った人たちと地下室で
ギターを片手に生きる人
夜から朝へ」。

だから私はあなたと一緒に行きました
歌って 踊って
そして、私たちは考えもしなかった
お互いにキスをするために

シャンゼリゼ通りにて
シャンゼリゼ通りにて
太陽の下で、雨の中で
正午か真夜中に
欲しいものはすべてある
シャンゼリゼ通りにて

昨晩、二人の見知らぬ人が
そして今朝のアベニューでは
二人の恋人は、すべてがおぼつかない
長い夜に

そして、エトワールからコンコルドへ
千の弦のオーケストラ
その日のすべての鳥
愛を歌う

シャンゼリゼ通りにて
シャンゼリゼ通りにて
太陽の下で、雨の中で
正午か真夜中に
欲しいものはすべてある
シャンゼリゼ通りにて

幅70mの大通りである。マロニエ(マロンの木)の並木道となっていて、東はオベリスクのあるコンコルド広場から、西は凱旋門のあるシャルル・ド・ゴール広場(旧エトワール広場)まで全長約3km続き、パリの観光スポットとなっている。

シャンゼリゼ通りは、下って行った先にはマリニー広場の緑地とマリニー劇場、グラン・パレプティ・パレ等の建物がある。通り西方向から東方向にかけて、「カルティエ」や「ルイ・ヴィトン」本店、「ラコステ」旗艦店などフランスを代表する有名ブランド店、「ピエール・エルメ」、映画館、キャバレー「リド」、「ラデュレ」、その他カフェ、レストラン(そのうち最も有名なものは「フーケ(Fouquet's)」)、香水の「セフォラ」や「ゲラン」本店などが立ち並ぶ。

凱旋門

凱旋門 (Friedhelm Bick, Flickr)

パリはもとよりフランス全土の象徴的な建造物の一つで、単に凱旋門と言えばこのエトワール凱旋門を指すことも多く、世界有数の観光名所となっている。シャンゼリゼ通りの地下入口から地下道を通って近づける。料金を払い、らせん階段を上まで登ることもできる。エレベーターもあり、基本的に体の不自由な人のために使われているが、中二階の美術館やお土産ブティックの階までしか登れず、屋上のテラスまでのエレベーターは無い。

この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りをはじめとして12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星=étoile」のように見えることから、この広場は「星の広場(エトワール広場) la place de l'Etoile」と呼ばれていた。そのため、「エトワール広場の凱旋門」の意味の「Arc de triomphe de l'Etoile」との正式名称がある。なお、この名称は後年に「シャルル・ド・ゴール広場 Place Charles-de-Gaulle」と変更されている。

エトワール凱旋門は、前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった。ルイ・フィリップの7月王政時代、1836年に完成した。

凱旋門の紹介動画

グラン・パレ

グラン・パレ (Flickr)

 

グラン・パレ (Flickr)

プティ・パレやアレクサンドル3世橋と同時期に建てられており、4人の建築家が設計に関わった。正面のファサードはアンリ・ドゥグラン、反対側のファサードはアルベール・トマ、内装と残りの二面はアルベール・ルヴェ、そして全体の総監督としてシャルル・ジローの4人である。この建築のファサードは初期のボザール建築の典型例とされ、メインの屋根は鉄とガラスで覆われている。

大規模な外装は古典的な石造りに鉄製の大胆なアール・デコの装飾が施され、周囲には彫刻家ポール・ガスクやアルフレッド・ブーシェによる寓意を含んだたくさんの彫像が並べられている。2騎のクワドリガ(古代ギリシャ時代の4頭立ての2輪戦車)のブロンズ像はジョルジュ・レシポンの作品で、両翼突端の屋根に設置されている。

プティ・バレ

プティ・バレ (Flickr)

 

プティ・バレ (Flickr)

プティ・パレ(Petit Palais)はフランスのパリにある美術館の建物であり、1900年のパリ万博万国博覧会のために建てられたものである。現在、パリ市立プティ・パレ美術館(Petit Palais, Musée des Beaux-Arts de la Ville de Paris)として開館しており、プティ・パレはこの美術館のことを指す場合もある。

グラン・パレやアレクサンドル3世橋と同時期に建てられており、向かい合う形で建っているグラン・パレの設計総監督であるシャルル・ジローによる設計である。

コンコルド広場

コンコルド広場 (Flickr)

 

コンコルド広場 (Flickr)

1755年、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって設計され、当初ルイ15世の騎馬像が設置されていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていた。その後、フランス革命の勃発により騎馬像は取り払われ、名前も「革命広場」に改められた。フランス革命中には、ルイ16世やマリー・アントワネットへのギロチン刑が行われた場所でもあった。1795年のヴァンデミエールの反乱において、当時ポール・バラス軍司令官副官であったナポレオン・ボナパルトが王党派を鎮圧後、現在の「コンコルド広場」という名前で呼ばれ始める(公式名になったのは1830年)。

広場の中心部にはエジプトのルクソール神殿のオベリスクが置かれているが、これはムハンマド・アリー朝エジプト国王 ムハンマド・アリーから贈られ1836年に運ばれたものである。

オランジェリー美術館

Paris Musee de l Orangerie (Flickr)

 

Paris Musee de l Orangerie (Flickr)

1区のコンコルド広場の隣、テュイルリー公園内にセーヌ川に面して建っている。もともとはテュイルリー宮殿のオレンジ温室(オランジュリー)だったが、1927年、モネの『睡蓮』の連作を収めるために美術館として整備されたのである。

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オペラ座界隈

オペラ座(ガルニエ宮)

オペラ座 (Caribb, Flickr)

 

オペラ座 (Sandy Hancock, Flickr)

ガルニエ宮(Palais Garnier)は、フランスの首都パリにある歌劇場である。単にオペラ座(l'Opéra)と呼ばれることもある。パリ国立オペラの公演会場の一つである。

1858年1月14日、ナポレオン3世が爆弾を投げられたのは、11代目のサル・ル・ペルティエ(Salle Le Peletier)の正面であった。これを機に、以前からの新オペラ座建設計画が1860年9月29日の政令で具体化し、同年12月29日、ナポレオン3世の第二帝政を称える記念碑的建造物の設計が公募された。171の応募の中に一等賞はなく、佳作が6件であった。その中からシャルル・ガルニエの案が採択され、1862年7月21日に最初の礎石が置かれた。1874年12月に工事を終え、1875年1月5日に落成式が行われた。この劇場は設計者の名から「ガルニエ宮」と呼ばれることとなった。

外観および内装はネオ・バロック様式の典型と言われ、たくさんの彫刻を飾り、華美な装飾を施した豪華絢爛たるものである。また建材には当時、最新の素材とされていた鉄を使用した。これによって、従来不可能とされていた巨大な空間を確保することに成功した。2167の座席が5階に配分されており、観客収容規模でも当時最大の劇場であった。

1989年には新しいオペラ劇場としてオペラ・バスティーユ(Opéra Bastille)が完成し、以来ガルニエ宮では、バレエと小規模オペラ、管弦楽コンサートを中心とした運用が行われている。

オペラ座の怪人

フランスの作家ガストン・ルルーによって1909年に発表された小説。1909年9月23日から1910年1月8日まで日刊紙『ル・ゴロワ』に連載されていた。1910年4月、ピエール・ラフィットにより出版された。

19世紀のパリ国立オペラで起こった史実を引用し、またカール・マリア・フォン・ウェーバーの『魔弾の射手』の1841年の公演のあらすじを基にしていると考えられている。1896年、シャンデリアの一つが釣り合いを取っていた重りの破壊によって天井から客席へと落下し、観客に死者が出た。 この事故はガストン・ルルーが1910年のゴシック小説の『オペラ座の怪人』の有名な場面の一つの着想となったこれを原作として多数の映画、テレビ映画、ミュージカルなどが作られている。最も有名なものは1925年のロン・チェイニー主演映画『オペラの怪人』と1986年のアンドルー・ロイド・ウェバーによるミュージカル『オペラ座の怪人』である。

(Wikipediaより)

 

マドレーヌ寺院

マドレーヌ寺院 (Flickr)

パリ8区にある聖女マドレーヌ(Madeleineはフランス語で「マグダラのマリア」を指す)を守護聖人とするカトリック教会。ブルボン朝末期、ルイ15世により聖女マドレーヌに捧げる教会として1764年に建設が始まるが中断。1777年に再び工事が始まるが、フランス革命の勃発により基礎工事半ばの状態で中断していた。

1805年、ナポレオン1世がフランス軍の名誉を讃える栄光の神殿とすることを決定し、建築家ピエール・ヴィーニョン(1763-1828年)が古代神殿風のデザインで設計した。1806年に工事を再開。ナポレオンの失脚後、ルイ18世によってカトリック教会に用途が戻され、1842年に完成した。

(Wikipediaより)

 

【番外編1】サンジェルマン・デ・プレ

この地区は世界遺産「パリ セーヌ河岸」には含まれないが、セーヌ川左岸の重要な文化資産を含んでいるので、追加することにしたい。

 

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概要

セーヌ川河畔から南北に走るボナパルト通り(fr:Rue Bonaparte)と、トゥール・モンパルナス界隈まで南北に続くレンヌ通り(fr:Rue de Rennes)とが接続する交差地点のサンジェルマン=デ=プレ広場界隈を、東西にサンジェルマン大通りが通る。この辺りが、サンジェルマン=デ=プレ地区の"心臓部"とされている。地区の中心にはこの地区と同名の教会 サン=ジェルマン=デ=プレ教会が、その南側にはサン=シュルピス教会が位置する。その南には、リュクサンブール公園が広がる。

第二次世界大戦後、サン=ジェルマン=デ=プレ地区はパリの知的・文化活動の一大中心地となり、多くの哲学者、著述家、俳優、映画監督、音楽家などの文化人やボヘミアンが連日ナイトクラブやブラッスリーに集った。その中には、ジャン=ポール・サルトルシモーヌ・ド・ボーヴォワール(哲学者)、ジュリエット・グレコ(俳優、歌手)、ジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォー(映画監督)、ジャック・プレヴェール(詩人)といった人々がいた。彼らは、サンジェルマン・デ・プレ地区の中心にあるカフェ「ドゥ・マゴ」(Les Deux Magots)や「カフェ・ド・フロール」(Café de Flore)に集って、創作活動を行った。

最初に常連となったのはシモーヌ・ド・ボーヴォワールであった。彼女は当時、処女作『招かれた女』を執筆しており、1943年にガリマール社から出版した。1941年に、兵役に服し、捕虜収容所に収容されたサルトルが病気のためにパリに戻ると、カフェはボーヴォワール、サルトルのほか、カミュ、レイモン・アロン、モーリス・メルロー=ポンティら実存主義哲学者の拠点となった。1943年2月に上演されたサルトルの『蠅』、6月に出版された『存在と無』は、その大半がカフェ・ド・フロールで書かれたものである。ただし、彼らはカフェ・ド・フロールと隣のドゥ・マゴを行き来し、ほとんど丸一日、カフェで過ごしていた。サルトルは、朝9時から正午まで執筆をして、昼食に出て午後2時に戻ると友人と夜8時まで議論し、夕食後は前もって予定を入れていた打ち合わせを行うといった日課であった。

(Wikipediaより)

<p カフェ「ドゥ・マゴ」 (Sorin Popovich , Flickr)[/caption]

 

「カフェ・ド・フロール」 (sergeymk, Flickr)

サン=ジェルマン=デ=プレ教会

サン=ジェルマン=デ=プレ教会 (Shutterstock)

サン=ジェルマン=デ=プレ教会は、パリ6区にある教会である。サン=ジェルマン=デ=プレ地区の中心にあり、サン=ジェルマン=デ=プレ駅のすぐ近くに位置している。

543年にパリ王キルデベルト1世が聖遺物を納めるために修道院の付属教会として建造した。キルデベルトはこの修道院に埋葬され、その後、メロヴィング朝の霊廟に定められた。自身が同修道院に埋葬された王家の最初の人となった。576年にパリ司教聖ジェルマンが葬られこの名がついた。ロマネスク様式の建築で、現在では、パリで現存する最古の教会である。

サンジェルマンでプレからリュクサンブール公園までのウォーキングルート

サン=シュルピス教会

サン=シュルピス教会 (Shutterstock)

パリ6区にあるカトリックの聖堂である。サン=シュルピス広場東側に位置する。最長部で113m、幅58m、高さ34mで、ノートルダム大聖堂よりわずかに小さく、パリ第2の大きさをもつ教会堂である。聖シュルピスに献堂されている。サンシュルピス教会には数々の芸術作品が貯蔵されている。 1856年に描かれたドラクロワのフレスコ画『天使とヤコブの闘い』や『悪魔を撃つ大天使ミカエル』などがある。また教会前にある広場にはヴィスコンティの『4人の枢機卿の噴水』がある。

リュクサンブール公園

リュクサンブール宮殿と池 (Shutterstock)

 

リュクサンブール公園 (Shutterstock)

リュクサンブール公園(Jardin du Luxembourg)は、1612年にマリー・ド・メディシスがジャック・ボワソーに命じてリュクサンブール宮殿に付随するものとして造園された。統領政府期以降元老院の敷地となっている。元老院の議場等は、庭園北端のリュクサンブール宮殿に入っている。リュクサンブール公園は元老院の庭園にあたるが、一般に公開されており、パリ市民の憩いの場の一つとなっているほか、観光名所にもなっている。

22万4500平方メートル(22.45ヘクタール)の広さを持ち、うち21ヘクタールが公開されている。パリ市内では、ラ・ヴィレット公園(55ヘクタール)・テュイルリー庭園(25.5ヘクタール)・ビュット・ショーモン公園(25ヘクタール)等に次ぐ最大級の公園である。

リュクサンブール公園には、幼い子供とその両親向けに、フェンスで囲まれた広い遊び場がある。あやつり人形の劇場メリー・ゴー・ラウンドもある。ポニーの騎乗を楽しむこともできる。無料の音楽公演が広場のガゼボで開かれ、木陰の小ぢんまりとした手頃なレストランでは、多くの人々が屋内外で音楽とワインを楽しんでいる。小さな池では子供たちがおもちゃのヨットで遊んでいる。池の周りには、かつてのフランス王妃の像が並んでいる。

公園の池でヨット遊びをする子どもたち

『レ・ミゼラブル』とリュクサンブール公園

ヴィクトル・ユーゴーの長編小説『レ・ミゼラブル』では、後半の舞台がパリになっている。その中で、主人公の青年マリウスとコゼットが出会い、恋に落ちる場所がリュクサンブール公園に設定されており、小説の中でも重要な役割を果たしている。

ジャン・ヴァルジャンとコゼットは、自宅近くのリュクサンブール公園を散歩することを習慣としており、決まったベンチに腰をかけた。ある日、マリウスはその前を通りかかり、それ以来しばしば彼らの姿を見かけるようになった。それから2年後、久しぶりにリュクサンブール公園に行ってみると、娘は見違えるように成長しており、マリウスの心を強く捉えた。

彼女のそばを通った時、彼はその目を見ることができなかった。その目はいつも下に向けられていた。影と貞純とのあふれてる長い栗色の睫毛だけが、彼の目にはいった。

それでもなおこの麗わしい娘は、自分に話しかける白髪の男に耳を傾けながらほほえんでいた。目を伏せながら浮かべるあざやかなその微笑ほど、愛くるしいものは世になかった。

空気の温暖なある日、リュクサンブールの園は影と光とにあふれ、空はその朝天使らによって洗われたかのように清らかであり、マロニエの木立ちの中では雀が小さな声を立てていた。マリユスはその自然に対して心をうち開き、何事も考えず、ただ生きて呼吸を続けてるのみで、あのベンチのそばを通った。その時あの若い娘は彼の方へ目を上げ、ふたりの視線が出会った。

こんどは若い娘の視線の中に何があったか? マリユスもそれを言うことはできなかったであろう。そこには何物もなかった、またすべてがあった。それは不思議な閃光であった。”

(中略)

その一瞥の落ちる所から深い夢が生まれないことは、きわめてまれである。あらゆる純潔とあらゆる熱情とは、その聖き致命的な輝きのうちに集まっており、婀娜な女の十分に仕組んだ秋波よりもなお強い魔力を有していて、かおりと毒とに満ちたほの暗いいわゆる恋と呼ばるる花を、人の心の奥ににわかに開かせる。

(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』より)

フランス語原文はこちら⇩:

Un jour, l'air était tiède, le Luxembourg était inondé d'ombre et de soleil, le ciel était pur comme si les anges l'eussent lavé le matin, les passereaux poussaient de petits cris dans les profondeurs des marronniers, Marius avait ouvert toute son âme à la nature, il ne pensait à rien, il vivait et il respirait, il passa près de ce banc, la jeune fille leva les yeux sur lui, leurs deux regards se rencontrèrent.

Qu'y avait-il cette fois dans le regard de la jeune fille? Marius n'eût pu le dire. Il n'y avait rien et il y avait tout. Ce fut un étrange éclair.

Il est rare qu'une rêverie profonde ne naisse pas de ce regard là où il tombe. Toutes les puretés et toutes les candeurs se concentrent dans ce rayon céleste et fatal qui, plus que les œillades les mieux travaillées des coquettes, a le pouvoir magique de faire subitement éclore au fond d'une âme cette fleur sombre, pleine de parfums et de poisons, qu'on appelle l'amour.

 

こうして、花咲き乱れるリュクサンブール公園の一角で、マリウスとコゼットは一瞬にして恋に落ちたのだった。

マリウスとコゼットが出会ったリュクサンブール公園 (Shutterstock)

関連動画へのリンク

 

サンジェルマン地区の散策マップ

【番外編2】モンマルトル

 

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モンマルトルの歴史

紀元272年頃、ドルイドの聖地であったと考えられている「モンス・メルクリウス(Mons Mercurius)=メルクリウスの丘」の付近で、後にフランスの守護聖人となったパリ最初のキリスト教司教聖ディオニュシウス(サン・ドニ)と2人の司祭ラスティークとエルテールの3人が首をはねられて殉教したと伝えられている。ヤコブス・デ・ウォラギネの「黄金伝説」によれば、首をはねられたサン・ドニは、自らの首を抱えながら北の方に数キロメートル歩き、息絶えたという。その場所がサン=ドニのサン=ドニ大聖堂になったとされる。以来、その丘はモンス・マルテュルム(Mons Martyrum)=殉教者の丘と呼ばれるようになった。

モンマルトルは長い間パリ郊外の農地であり、ブドウ畑と風車がシンボルであった。また丘の上には大きな女子修道院が建っていた時代もあった。パリの税金や規制が適用されず、また長年丘の上の修道女たちがワインを作っていたことは、モンマルトルが飲み屋街に変わる原因となった。19世紀末から20世紀初頭、モンマルトルはデカダンな歓楽街となり、ムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールといったキャバレーが軒を連ね、有名な歌手やパフォーマーらが舞台に立った。

1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の上にサクレ・クール寺院(Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre)が、1871年の普仏戦争敗戦後にその償いとして一般の寄付で建設された。白いドームは街中から見えるパリのランドマークになった。

19世紀半ば、ヨハン・ヨンキントやカミーユ・ピサロといった芸術家たちがパリ大改造で整備されてしまった市内を離れ、まだ絵になる農村風景の残っていたモンマルトルに居を移すようになった。安いアパートやアトリエ、スケッチのできる屋外風景を求める画家達が後に続き、19世紀末の世紀末芸術の時代にはモンマルトルはパリ左岸のモンパルナスに対抗する芸術家の集まる街へと変貌した。

パブロ・ピカソ(1904年から1909年までの間)、アメデオ・モディリアーニ、ほか貧しい画家達がモンマルトルの「洗濯船(Le Bateau-Lavoir)」と呼ばれる安アパートに住み、アトリエを構え制作活動を行った。ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティスらも出入りし議論する活発な芸術活動の拠点となった。

サクレ・クール寺院

モンマルトルのサクレ・クール寺院は、フランスのパリ市内18区モンマルトルの丘の頂にそびえる教会堂。ロマネスク様式・ビザンティン様式のバジリカ大聖堂。ギベール・パリ大司教が計画を提唱。ペリグーのサン=フロン大聖堂をモデルにポール・アバディが設計を担当した。1889年にいち早く完成していたエッフェル塔と共にパリ市内を見晴らせる観光名所で、両建造物とも19世紀後半に構想された比較的新しいものであるにも関わらず、今やパリになくてはならない存在になっている。

サクレ・クール寺院 (Shutterstock)

テルトル広場

テルトル広場は、パリ18区のモンマルトルの丘にある広場。標高は約130メートル。かつてのモンマルトル村の中心で、最初の村役場があった場所。平坦地の頂上ないし小さな丘を意味するTertre(テルトゥル)にあることから、広場の名前が付けられた。画家達が集まり観光客の似顔絵(有料)を描いており、モンマルトルが現代美術の中心だった時代を想起させる。20世紀初頭には、パブロ・ピカソやモーリス・ユトリロなど多くの画家がこの地で暮らした。

テルトル広場 (Shutterstock)

ムーラン・ルージュ

1889年に誕生したフランスのパリ市内、モンマルトルにあるキャバレーである。フランス語で「赤い風車」という意味で、実際に屋根の上に赤い風車がある。歌やダンス、フレンチカンカン、大道芸を組み合わせたショーで有名。また、画家のロートレックがここに通いつめ、踊り子たちをモデルに数々のポスターを描いたことでも有名である。

ムーラン・ルージュ (Shutterstock)

関連動画へのリンク

 

モンマルトルの散策マップ

【番外編2】サンマルタン運河

 

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概要

ウルク運河から続くラ・ヴィレット貯水池と、セーヌ川へ続くアルスナル港とを結んでいる。開通したのは1825年である。25mの高低差があるために9つの閘門がある。幅が狭いため当初はパリに飲料水を導くために使われたが、現在はレジャー用になっている。運河の一部は地下水路になっている。地下化でパリ11区内で交差する北側レピュビュリック大通りから南側バスティーユ広場南端にかけて、リシャール・ルノワール大通りが1862年に、11区北側でリシャール・ルノワールに接続するジュール・フェリー大通りが1907年にできた。運河が地上に出ているところはパリ10区になり、ヴァルミー(河岸)通りとジュマペ(河岸)通りが運河両岸に沿って走り、ジュマペ側に有名な北ホテルがある(マルセル・カルネ監督の1938年の映画『北ホテル Hôtel du Nord 』に登場した)。また、シスレーの絵画の題材にもなっている。

サンマルタン運河 (Shutterstock)

パリ周辺のハイキング・コース

 

 関連動画へのリンク

旅するように学ぶ世界遺産『パリのセーヌ河岸』

パリのホテル検索

https://www.hotelscombined.jp/Place/Paris.htm

UNESCO公式HP(英語版)へのリンク

https://whc.unesco.org/en/list/600

-フランス, 世界遺産100選, 検定2級, 検定3級, 検定4級, 重要遺産
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