1978年登録遺産 ポーランド 世界遺産100選 検定2級

クラクフの歴史地区

2021年4月9日

文化遺産
資産名:
クラクフの歴史地区
Historic Centre of Kraków
国名:ポーランド
登録年:1978年
登録基準:(iv)
概要:
クラクフはポーランド南部の古都です。17世紀にワルシャワに遷都されるまでの約600年間、ポーランドの首都として発展しました。第二次大戦ではドイツ軍に占領されましたが、ワルシャワとは違い、市街地の破壊を免れ、旧市街の美しい建築物は残りました。その旧市街が世界遺産に登録されています。代表的な建築物としては、ヴァヴェル城聖マリア教会ヤギェウォ大学(コペルニクスが学んだ大学)、チャルトリスキ美術館などがあります。

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歴史

1038年、クラクフはポーランド(ピアスト朝)となった。13世紀にモンゴルの襲撃でいったん破壊された。14世紀よりクラクフは最盛期を迎え、1364年、カジミェシュ3世によってヤギェウォ大学(クラクフ大学 - コペルニクスが大学生として通った大学として知られる。ポーランド最古の大学)が創設され、それからも織物取引所、聖マリア教会などが建てられていった。

16世紀後半、ヤギェウォ朝が断絶すると、貴族(シュラフタ)運営の身分制議会(セイム)勢力が強まり、王権の弱体化が進んだ。16世紀より徐々に王国の中心はワルシャワへと移行していき、17世紀初頭には正式に都がクラクフからワルシャワへと遷された。18世紀後半には3度のポーランド分割によって国家自体が消滅し、クラクフはハプスブルク君主国のオーストリア領ガリツィアとなった。

第一次世界大戦を経て、1918年にポーランドが独立を果たしポーランド第二共和国となった。第二次世界大戦に際してドイツ軍の占領を受けた。

主な構成資産

ヴァヴェル城

ポーランド王宮殿。ヴァーヴェル城ともいう。ポーランド王のカジミェシュ3世の命により、970年に建てられた。最盛期には塔が立ち並ぶ壮麗な姿だったと言う。また、ヴァヴェル大聖堂も付属して建設された。カジミェシュ3世が、970年に建て始めたのが、ヴァヴェル城であり、後にポーランド王国国王の宮廷になった所以である。ポーランド王国が存続した約500年以上に渡って修築・改修が行われ続け、現在の豪華絢爛な宮殿に仕上がった。

ヴァヴェル城 (Shutterstock)

聖マリア教会

聖マリア教会として知られる聖母被昇天教会はポーランドのクラクフ中央広場に隣接するブリック・ゴシック様式の教会建築である。14世紀に建設されたこの教会の設立は13世紀初頭にまで遡ることができ、ポーランドのゴシック建築物の好例として挙げられる。教会の高さは80mで、特にファイト・シュートスによって彫刻された祭壇画によってよく知られる。

聖マリア教会の2つの高い塔の上からは、毎時間ごとにヘイナウ・マリアツキと呼ばれるトランペットの時報が演奏される。トランペットの悲しげな音色は演奏中に中断されるが、これは13世紀のラッパ兵が、モンゴルの襲来を告げる警笛を鳴らしている途中で喉を射られたことに由来する

聖マリア教会

ヤギェウォ大学

1364年、カジミェシュ3世により創建された。スラヴ人によって設立された最初の大学でもある。ニコラウス・コペルニクスなどが学んだ。現在の大学名は1817年にヴワディスワフ2世にちなんでつけられたもので、それ以前はクラクフ大学という名称であった。ポーランドを代表する総合大学で、近年では大学ランキングでワルシャワ大学を抜いてポーランドのトップに立つこともある。夜間部など含め学生総数は約38,000人。

ヤギェウォ大学 (Anah R., Flickr)

世界遺産クイズ

世界遺産検定クイズ

「クラクフの歴史地区」の説明として、正しくないものはどれか。

関連動画へのリンク

Poland Rediscovered: Kraków, Auschwitz, and Warsaw (Rick Steves)

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