文化遺産
遺産名:
ピリッポイの考古遺跡
Archaeological Site of Philippi
国名:ギリシャ
登録年:2016年
登録基準:(iii)(iv)
概要:
ピリッポイは、東マケドニア(現ギリシア領)にあった古代都市。紀元前356年にピリッポス2世によって創建され、14世紀にオスマン帝国に征服された後、廃れた。ピリッポイで知られている最初の聖堂は、小さな建物で、元来は祈りのための小さな家であったと思われる。敷石のモザイク碑文から「パウロ聖堂(バシリカ)」と呼ばれるこの建物は、343年のセルディカ教会会議に出席した主教ポルピュリオスの書簡から、その頃に建てられたと推定される。都市の発掘調査は1914年の夏に初めて行われ、すぐに第一次世界大戦によって中断された。フランスの高等教育機関であるエコル・フランセーズ・ダテーネが行った発掘は、1920年に再開され、1937年まで行われた。この調査によって、ギリシア時代の円形劇場、フォルム、バシリカAおよびB、複数の公衆浴場、市壁が発掘された。(Wikipediaより)
Photo by Michael, Leonora (Ellie) Enking, Peter, NT SAGOS, Leonora (Ellie) Enking from Flickr
ピリッポイの歴史
創建
ピリッポイは古代マケドニア王ピリッポス2世によって、タソス人の植民都市クレニデス(泉の意)があった場所に創建された。ピリッポス2世の意図は、この都市をもって、付近の金鉱の開発を促進し、また軍事防衛の拠点とすることにあった。ピリッポスは海岸沿いの二都市、アンピポリスとネアポリスを結ぶ街道を防衛する要地であった。
ローマ時代
ローマの内乱時代の末期、ユリウス・カエサルの死後、オクタウィアヌスとマルクス・アントニウスは連合して、カエサルの暗殺者マルクス・ユニウス・ブルートゥスとガイウス・カッシウス・ロンギヌスをピリッポイの西に破った(フィリッピの戦い、紀元前42年)。戦後、勝者二人は何人かの退役兵をピリッポイに入植させ、戦勝を記念して市をコローニア・ウィクトリクス・ピリッペンシウム(フィリッペンシウム)(Colonia Victrix Philippensium)と改称した。その後、ピリッポイの土地は四角上に区画割りされた上で、入植者に分配された。ピリッポイにはマケドニア時代の市城が残り、市の設計は部分的にのみ変更された。以前からあったギリシア風のアゴラ(広場)の東側に、ローマ風のフォルム(広場)が追加された。ピリッポイはさながら小型のローマといった趣を呈した。
初期キリスト教時代
紀元後49年か50年頃、使徒パウロは幻に導かれてピリッポイを訪れた(『使徒行伝』16:9-10)。パウロには、シラス、テモテ、おそらくはルカであるとされる使徒行伝の筆者が同行しており、パウロはこの街でキリスト教伝道を行った。
ピリッポイで知られている最初の聖堂は、小さな建物で、元来は祈りのための小さな家であったと思われる。敷石のモザイク碑文から「パウロ聖堂(バシリカ)」と呼ばれるこの建物は、343年のセルディカ教会会議に出席した主教ポルピュリオスの書簡から、その頃に建てられたと推定される。
ビザンティンおよびオスマン時代
東ローマ帝国はピリッポイに守備隊を駐屯させていたが、838年、ピリッポイはイズブル・ハーン率いるブルガール人によって占領された。バシリカB遺構の基部碑文には、この戦勝を記念する碑文が残っている。969年頃、皇帝ニケフォロス2世フォカスは、ピリッポイのアクロポリスと都市の一部を再び城塞化した。これによって次第にブルガール人の勢力は衰え、この地方における東ローマ帝国のプレゼンスは強化された。
1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス占領の後、ピリッポイは短期間フランク人によって占領され、そののちセルビア人に支配された。ピリッポイがいつ頃放棄されたかは、はっきりしない。16世紀にフランス人の旅行者ピエール・ベロンが訪れたときには、そこには廃墟以外は残っておらず、トルコ人が石切り場に使っていた。
ピリッポイにおける発掘調査
都市の発掘調査は1914年の夏に初めて行われ、すぐに第一次世界大戦によって中断された。フランスの高等教育機関であるエコル・フランセーズ・ダテーネ(en:École française d'Athènes)が行った発掘は、1920年に再開され、1937年まで行われた。この調査によって、ギリシア時代の円形劇場、フォルム、バシリカAおよびB、複数の公衆浴場、市壁が発掘された。
関連動画へのリンク
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UNESCO公式HP(英語版)へのリンク
https://whc.unesco.org/en/list/1517