概要
資産名:
富士山ー信仰の対象と芸術の源泉
Fujisan, sacred place and source of artistic inspiration
登録年:2013年
登録基準:(iii) (vi)
概要:
富士山は威厳のある山容と繰り返される噴火のために、恐れられるとともに信仰の対象ともなり、日本人の心のよりどころとなってきました。噴火を鎮めるために浅間神社を建立するとともに、山岳信仰と結びついた修験道の霊場ともなってきました。芸術作品にも影響を与え、葛飾北斎の「富嶽三十六景」など数多くの浮世絵名作が生み出され、印象派などの西洋絵画にも大きな影響を与えました。
地図
スライドショー
富士山に対する信仰は、遠くから拝む「遙拝」だけでなく、ご神体である富士山そのものに登ることが祈りとなる「登拝」が古くから行われてきた点も特徴で、江戸時代には富士山を巡礼して登拝する「富士講」が民間信仰として広まった。
登録基準の内容
登録基準 (iii)
富士山の周辺地域では、古くから富士山を「神仏の居処」とする山岳信仰にもとづき、火山との共生とともに山麓の湧き水にも感謝するという独自の伝統が育まれてきた。
登録基準 (vi)
富士山は、日本固有の詩歌や文学作品にも描かれるなど、さまざまな芸術活動の源泉となってきた。19世紀には浮世絵に描かれた富士山の姿が近現代の西洋美術のモチーフとなり、ジャポニズムとして西洋芸術に大きな影響を及ぼした。
主な構成資産
(文化庁HPより)
富士山域
山頂の信仰遺跡群をはじめ、大宮・村山口登山道などの登山道、北口本宮冨士浅間神社、西湖や本栖湖といった湖など9つの資産で構成される。
富士山本宮浅間神社
806年に富士山の噴火を鎮めるよう平城天皇が坂上田村麻呂に命じ、浅間大神(木花之佐久夜毘売命)を祀る神社として創建。国内各地にある浅間神社の総本宮で、現在も東日本を中心に広く信仰されている。徳川家康の保護を受け、現在の社殿がつくられた。かつて道者が水ごりを行った湧玉池がある。二重の楼閣構造の本殿は、浅間造りと呼ばれる。
御師住宅
宿坊を兼ねた住宅で、富士山に祈りを捧げるために登山をする人の世話をした。御師は富士山信仰の布教を行う人のことを指す。
人穴富士講遺跡
長谷川角行が荒行を行った風穴で、入滅した場ともされる。周辺には富士講信者が残した多くの顕彰碑や登拝階数などの記念碑が残る。16世紀から17世紀にかけて、修験道の行者であった長谷川角行(かくぎょう)は、富士山麓の人穴(ひとあな)に籠もり、さまざまな苦行や水ごりなどの修行を行った。こうした激しい修行を通じて宗教的覚醒を得たとされる角行は、不老長寿や無病息災を求める人々の思いに応え、のちに「富士講」と呼ばれる富士山岳信仰の基盤となる組織を創始した。
18世紀後半以降になると、富士講は一般の人々の間でも流行し、本道とされた吉田口登山道の起点には、登拝前の参詣の場である北口本宮冨士浅間神社の境内が整備された。また登山口では「御師」と呼ばれる人々が富士講信者の宿泊や食事の手配、巡礼路案内などを行うようになり、宿泊所などとしても使用された御師住宅が立ち並ぶ集落も形成された。(『世界遺産大事典』より)
三保の松原
『万葉集』にも詠まれた、富士山を望む景勝地。その構図は歌川広重の絵画などで海外にも広く知られている。ICOMOSから除外勧告されたが登録された。
信仰の対象と芸術の源泉
信仰の対象
富士山では、山頂や山域、山麓での修行や巡礼を通じて、神仏の霊力を獲得し、「擬死再生」を成し遂げようとする独自の文化的伝統が育まれてきた。この信仰と伝統は、現在の富士登山の形式などにも継承されている。活発な火山活動によって噴火を繰り返す富士山に対する畏敬の念は、日本古来の神道思想と結びつき、火山を含む自然との共生を重視する独自の伝統も育んだ。
歴史的に噴火を繰り返してきた富士山は、古くから恐ろしくも神秘的な山として、「遙拝」[1]ご神体から離れた場所からその方角に向かい参拝する参拝方法で、富士山の場合は、山麓から山頂を仰ぎ見て参拝する。の対象とされてきた。現存する浅間神社のうちのいくつかの社は、8世紀以前に遙拝の場所に建立されたと伝えられている。
富士信仰の明確な定義はないが、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われる。特に富士山の神霊(富士山の火口に鎮座する神)として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり、全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。また徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派を形成し、富士信仰を形成してきた。
浅間神社への参拝とともに、ご神体である富士山に登りながら祈りを捧げる「登拝」も行われるようになり、富士山山域には多くの修行者や巡礼者が訪れるようになった。登拝の起点になる登山口には、新たな神社が建立され、これらはのちに須山浅間神社や富士浅間神社へと発展を遂げた。
芸術の源泉
富士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」 は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。
『竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記している。
浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖 浪裏』などが知られる。
太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはこの一節を刻んだ文学碑が建っている。
浮世絵とジャポニズム
1867年パリで開催された万国博覧会に日本から出品された多数の美術品が、当時の西欧人の注目を集め、これがきっかけとなって、日本美術がヨーロッパの芸術界に大きな影響を及ぼした。これが「ジャポニズム」(japonisme)と呼ばれる日本ブームである。ジャポニズムは印象派の画家をはじめとした芸術家に多大な影響を与えた。なかでも大きな影響を受けた画家としては、フィンセント・ファン・ゴッホ、クロード・モネ、ピエール・ボナール、エドワール・マネ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、メアリー・カサット、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ジェームズ・ホイッスラー、カミーユ・ピサロ、ポール・ゴーギャン、グスタフ・クリムトなどがいた。
浮世絵に描かれた富士山は、ジャポニズムの一つとして西洋美術にも大きな影響を与えた。葛飾北斎や歌川広重の浮世絵を通じ、ヨーロッパではいわゆるジャポニスムの風潮がおこり、たとえばフィンセント・ファン・ゴッホの作品『タンギー爺さん』には、浮世絵(歌川広重『冨士三十六景』)の模写という形で背景に富士山が描かれている。
左から:
歌川豊国『三世岩井粂三郎の三浦屋高尾』
歌川広重『冨士三十六景 さがみ川』
渓斎英泉『雲龍打掛の花魁』
葛飾北斎の『富嶽三十六景』も、ヨーロッパの画壇に大きな影響を与えた。例えば、ギュスターヴ・クールベは、1867年のパリ万国博覧会で『神奈川沖波裏』を見て、『波』を描いたといわれている。
世界遺産クイズ
世界遺産検定クイズ
関連動画へのリンク
世界文化遺産富士山(前編)
世界文化遺産富士山(後編)
世界が絶賛!何がスゴイの?葛飾北斎
UNESCO公式HP(英語版)へのリンク
https://whc.unesco.org/en/list/1418