イタリア

アクィレイアの考古地区とバシリカ総主教聖堂

2021年10月31日

文化遺産
遺産名:
アクィレイアの考古地区とバシリカ総主教聖堂
Archaeological Area and the Patriarchal Basilica of Aquileia
国名:イタリア
登録年:1998年
登録基準:(iii)(iv)(vi)
概要:
アクイレイアは、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある、人口約3,300人の基礎自治体(コムーネ)。ローマ時代に建設された古代都市を起源とし、中世初期まではイタリア北東部の中心都市であった。繁栄を極めた当時の遺跡は、世界遺産「アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ」として登録されている。現在この地に残されているバシリカ総主教聖堂は、1031年に再建されたものである。東方正教会の中央ヨーロッパへの布教拠点であった。ロマネスク様式を基本とし、1348年の地震で壊れた部分の補修に一部ゴシック様式が取り入れられた。南側のホールに残る4世紀のモザイク画にはラバルムも確認でき、キリスト教信仰の歴史を伝えている。(『世界遺産大事典』より)

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(Flickrより)

植民都市アクイレイアの建設

紀元前181年、アドリア海のほとりに古代ローマの植民都市アクイレイアが建設された。都市の名は、土地の言葉 Akylis から来ている。アクイレイアは、当時のローマ共和国の東北辺境を防衛する要塞であり、イリュリア戦争にはローマの盟友であったウェネティ人を守り、カルニ人やイストリア人などの好戦的な民族の侵入を防ぐ関門としての機能を果たした。実際、アクイレイアは紀元前183年にガリア人たちが定住した場所からさほど離れていない場所に建設されている。

ローマ帝国下の繁栄

1世紀を通じて文化と経済は大きく発展し「第二のローマ」とまで呼ばれるようになった。ディオクレティアヌス帝(在位: 284年 - 305年)の治世、アクイレイアには宮殿が建設され、以後の皇帝はしばしば滞在した。アクイレイアが造幣所を持ち、独自の通貨を作るようになったのもディオクレティアヌス帝の治世である。コンスタンティヌス1世(在位: 306年 - 337年)もこの町に長く滞在し、その治世の重要な出来事のいくつかはこの町で行われた。また、アクイレイアは海軍の基地となり、ヴェネツィア・エト・ヒストリア州の知事 (it:Corrector) の治所であった。4世紀の終わり、アウソニウスは世界で9番目に大きな都市としてアクイレイアを挙げ、ローマ、メディオラヌム(ミラノ)、カプアに次いで言及している。

中世

11世紀までには、アクイレイアの総大司教の持つ力は大きなものとなり、フリウーリとアクイレイアの世俗的な統治権を主張するようになった。神聖ローマ帝国は総大司教にこの地域を与え、封建領主とした。もっとも、総大司教の持つ世俗権力に関しては、在地の貴族たちから絶えず批判され、攻撃にさらされた。11世紀前半の総大司教ポッポ (Poppo, Patriarch of Aquileia) は、アクイレイアの聖堂の再建を行った人物であるが、1027年と1044年にグラードを攻撃・破壊している。ローマ教皇はグラードの総大司教の尊厳を再確認したが、グラードの町が完全に復興することは無かった。グラードの総大司教座は、1450年にヴェネツィアに公式に移転する。

(Wikipediaより)

世界遺産クイズ

「アクィレイアの考古地区とバシリカ総主教聖堂」の説明として、正しいものはどれか。

関連動画へのリンク

UNESCO公式HP(英語版)へのリンク

https://whc.unesco.org/en/list/825

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