概要
文化遺産
資産名:
琉球王国のグスク及び関連遺産群
Gusuku Sites and Related Properties of the Kingdom of Ryukyu
国名:日本
登録年:2000年
登録基準:(ii) (iii) (vi)
概要:
14世紀後半から18世紀末にかけて栄えた琉球王国の文化を伝える遺産群です。当時の琉球は中国、朝鮮半島、東南アジアと日本を仲介する貿易で栄え、国際色豊かな独自の文化を形成しました。按司と呼ばれる豪族によって築かれた「グスク」(城砦)は、按司の住居と防衛拠点であると同時に、農村集落の中核であり、宗教的な性格も持っており、琉球文化の代表例といえます。300余りあるグスクのうち、5つのグスク跡と、首里城跡など4つの関連する資産が世界遺産に登録されています。
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登録基準
登録基準 (ii) ある期間にわたる価値観の交流を示す
登録遺産を構成する個々の記念工作物及び遺跡は、琉球の立地的特性の故に、日本、中国及び東南アジア諸国との政治的・経済的・文化的交流の過程で成立した独立王国の所産であり、独自の発展と経過をとげた琉球地方の特異性を示す事例群である。
登録基準 (iii) ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証
グスク跡は、日本列島最南端の島嶼地域に展開した農村集落を基盤に成長した豪族層(按司)が、政治的な統合と連合の過程で形成した防衛的な城塞施設の考古学的遺跡として極めて貴重な事例群で、今は失われた古い琉球社会の象徴的存在である。同時に、グスクは歴史的に農村集落の中核をなしており、地域住民にとって先祖への崇拝と祈願を通じて相互の紐帯を確かめる精神的な拠り所として、今なお琉球文化の重要な核心をなしている。
登録基準 (vi) 生きた伝統,思想,信仰,芸術的作品,あるいは文学的作品
登録遺産を構成する個々の記念工作物と遺跡は、琉球地方独特の信仰形態の特質を表す顕著な事例である。これらの資産群は、沖縄島が第二次世界大戦時に戦場となったことによって被った破壊から、沖縄県民が復興する上でも、重要な精神的拠り所としての役割を果たしてきた。
遺産の概要
主に12世紀〜16世紀にかけて、沖縄地方で数多く建造された「グスク」と呼ばれる城塞建築を中心とする遺構。沖縄では、日本や中国、東南アジアなど多くの国々との交易で栄え、15世紀には独立国である琉球王国が成立、独自の文化が発展した。グスクは、こうした琉球独自の文化の表れである。
沖縄地方では、10世紀頃から自衛的な農村集落が成立した。こうした集落を基盤に台頭したのが、「按司」と呼ばれる豪族である。12世紀になると有力按司が各地に台頭し、沖縄地方はグスク時代を迎える。現在遺構として残るグスクの多くは、この時代に按司が居住と防衛のために建造したものである。
グスクとは、もともとは野面積みの石垣を備えた自衛的農村集落を意味したが、按司が群雄割拠した12世紀頃に、その居城としてのグスクが成立し、堅牢な石垣を備えた大規模グスクが発展した。グスクは、農村における防衛的な城塞であるだけでなく、集落に暮らす人々の自然崇拝や先祖崇拝における聖域となっていたものも多い。グスクの遺構には「拝所」と呼ばれる宗教的聖地を備えたものもあり、いまなお沖縄の人々のよりどころとなっている。
1945年、沖縄にアメリカ軍が上陸し、各地で繰り広げられた激しい戦闘のなか、首里城などのグスクをはじめとする多くの文化財が破壊された。
(『世界遺産大事典』より)
主な構成資産
首里城跡
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は沖縄神社社殿としての正殿などが旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設によりほぼ完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている状態だった。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産に含まれていない。2019年の火災により、正殿を始めとする多くの復元建築と収蔵・展示されていた工芸品が全焼・焼失または焼損した。
総延長1,080mの重厚な城壁の石積みには、「布積み」「相方積み」が混在する。
今帰仁城跡
沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する城跡。14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城であった。国の史跡に指定されている。周囲に自然石をそのまま積み上げる「野面積み」の城壁が曲線を描くように巡らされている。
座喜味城跡
沖縄県中頭郡読谷村にあったグスクの城趾。日本軍が高射砲陣地を構築していたため、十・十空襲と沖縄戦でひどく破壊され、また1974年まで米軍基地ボーローポイントの通信基地となっていた。沖縄返還を機に城壁の調査と再建が行われ、通信基地の退役軍人も驚嘆するほどの美しいグスクとしてよみがえった。
勝連城跡
城は勝連半島の南の付け根部にある標高60mから100mの丘陵に位置する。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。北城は石垣で仕切られた一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪を備える。一から三までの曲輪が階段状に連なり、一の曲輪が最も高い。
中城城跡
中城城は当時貿易港であった屋宜港から2キロメートルほど離れた標高約160メートルの丘陵上にあり、中城村の北西から南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られている。
玉陵
琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1527年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで、沖縄県最大の破風墓。なお「玉陵」と名付く墓所はほかに「伊是名玉陵」、「山川の玉陵」がある。
識名園
中国の様式と沖縄独自の様式の折衷様式で建築されている。完成当時は中国皇帝からの使者(冊封使)をもてなす、現在でいう迎賓館として使われた。「勧耕台」と称する展望台があるが、海を望むことはできない。これは琉球をより大きな国に見せるためともいわれている。第二次世界大戦で園内のほとんどの建造物が破壊されたため、現在見られるものは復元である。
園比屋武御嶽石門
首里城歓会門と守礼門との間にある園比屋武御嶽石門。この御嶽の礼拝所である。園比屋武御嶽石門は、1519年に第二尚氏王統第3代王の尚真のときに造られた。オヤケアカハチの乱(1500年)で王府軍が八重山へ出兵した際に、将の一人であった大里親方に見込まれ首里に連れてこられた西塘により創建されたという。園比屋武御嶽であった森は、第二次大戦の沖縄戦の際に焼失したが、残された石門には今も多くの人が参拝に訪れる。
斎場御嶽
王国最高の御嶽とされ、国家の最高神職である聞得大君が管理した。聞得大君の就任儀式「御新下り」が行われた御嶽でもある。かつて琉球の御嶽はその全てが男子禁制であり、斎場御嶽では庶民は入口の御門口を越えて進入することは許されず、国王であっても、御門口より先に入るには袂の合わせを女装に改める必要があったという。
関連動画へのリンク
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JAL×沖縄CLIPムービー 【沖縄の世界遺産を巡る旅】
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UNESCO公式HP(英語版)へのリンク
https://whc.unesco.org/en/list/972