文化遺産
遺産名:
フォンテーヌブロー宮殿と庭園
Palace and Park of Fontainebleau
国名:フランス
登録年:1981年
登録基準:(ii)(vi)
概要:
フォンテーヌブロー宮殿(Château de Fontainebleau)はセーヌ=エ=マルヌ県フォンテーヌブローにある、フランスで最も大きな宮殿。フォンテーヌブロー城(城館) とも呼ばれる。宮殿の現在の姿は多くのフランス王による築城の結実であり、基本的な建築構造はフランソワ1世による。
建物は中庭を囲むように広がり、フォンテーヌブローの街がかつての王の狩猟場(フォンテーヌブローの森)跡を取り囲むように発展している。
(Wikipediaより)
フランソワ1世の時代
12世紀後半にはすでにこの地はルイ7世のものであり、トマス・ベケットが彼のためにチャペルを捧げている。フォンテーヌブローはフィリップ2世やルイ9世のお気に入りの居城であった。 現在の建築を作ったのはフランソワ1世であり、彼の元で建築家の「ブルターニュのジル」が南門「Porte Dorée(黄金の門)」を含む「Cour Ovale(楕円宮廷)」の建物のほとんどを建築した。王は建築家のセバスティアーノ・セルリオとレオナルド・ダ・ヴィンチをもフランスに招いている。フランソワ1世のギャラリーのフレスコはロッソ・フィオレンティーノによるスタッコ(化粧漆喰)で仕上げられ、1522年から1540年にかけて作られて、フランスで最初の大きな装飾ギャラリーとなった。
ルネサンスがフランスに渡ってきたときの舞台はフォンテーヌブローであると言える。アンリ2世の統治下、祝祭の広間(Salle des Fêtes)はイタリアのマニエリスム画家のフランチェスコ・プリマティッチオ(Francesco Primaticcio)とニコロ・デッラバーテ(Niccolò dell'Abate)によって装飾された。 ベンヴェヌート・チェッリーニ(サリエラの作者)の「フォンテーヌブーのニンフ(妖精)」は、フォンテーヌブロー宮殿を飾るために作製されたが、現在はルーヴル美術館に保管されている。
王妃カトリーヌ・ド・メディシスの時代
アンリ2世とその王妃カトリーヌ・ド・メディシスの時代に、建築家フェリベール・ド・ロルムとジャン・ビュランによって宮殿の大拡張が行われた。フランソワ1世とアンリ2世に次いでアンリ4世も、彼自身の名を冠した「王の中庭」や、その隣の「ディアーヌ・ド・ポワチエのギャラリー」や「雄鹿のギャラリー」を設け、図書室として使用した。こういった建築整備の間には「第二フォンテーヌブロー派」が生まれたが、第一派ほど実験的でも独創的でもなかった。アンリ4世は、樹木の生い茂った庭園に1200mもの長さの運河を設け、現在ではここで釣りができるほどである。また彼は、松やニレの他、果樹なども植えるよう命じた。彼の庭師クロード・モレはアネの街で、図案化したパルテア花壇の修行をしている。
「端麗王」フィリップ4世、アンリ3世とルイ13世は皆この宮殿で生まれ、フィリップ4世はこの世を去るときもフォンテーヌブロー宮殿であった。1685年にはルイ14世により「フォンテーヌブローの勅令」が発令され、これにより1598年のナントの勅令が破棄されることとなった。
ナポレオンの時代
300年ののちフランス革命のため、調度品が売り払われるなど宮殿は荒廃した。長い革命騒ぎの間にすべての王宮は売却のため空っぽになったが、これは国家の資金集めの他、ブルボン朝が再び力を得られないようにする目的もあった。
10年も経ないうちに皇帝ナポレオン・ボナパルトは、ブルボン朝におけるヴェルサイユ宮殿同様、フォンテーヌブロー宮殿を自分の権威の象徴にしようとした。しかしナポレオンは1814年、親衛隊に別れを告げて亡命生活に入ることになった。玉石の敷かれた入り口を広げて四輪馬車が通れるようにするなど、ナポレオンは宮殿を大幅に改築した。現在の観光客が目にする宮殿は、この当時の姿が中心である。フォンテーヌブローの宮殿は、彼の甥ナポレオン3世によるフランス第二帝政の舞台ともなった。
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