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リトアニア

ビリニュスの歴史地区

2021年11月4日

文化遺産
遺産名:
ビリニュスの歴史地区
Vilnius Historic Centre
国名:リトアニア
登録年:1994年
登録基準:(ii)(iv)
概要:
ビリニュスは、リトアニア共和国の首都で、同国最大の都市である。人口は約58万人。かつてポーランド領だったこともある。バルト三国で唯一海に面していない首都で、バルト海に面したリトアニア主要港のクライペダからは 312 km離れている。

ビリニュスは、ヴィルネ川・ネリス川沿いに位置し、リトアニアの南東と地理的に偏ったところにある。これは過去数世紀の間に国境の形が変わっていったことと関係している。かつてリトアニア大公国の時代にヴィリニュスは国土の中央にあった。

リトアニア大公国の王ミンダウガスの居城の一つとして、この地に城が作られたのは13世紀であった。ゲディミナス朝の中興の祖・ゲディミナスによって公国の領土は、ベラルーシ、ウクライナ、そしてドニエストル川全域、さらにはポーランドやロシアの一部にまで拡大したが、ヴィルナ川とネリス川という二つの航行可能な河川が流れ、森林と湿地に守られたビリニュスは公国の統治・防衛に好都合で、首都として機能するようになる。

ゲディミナスの子アルギルダスの死後、大公の座をめぐって紛争が起こるとビリニュスは戦禍に見舞われる。勝者となったヨガイラは、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、ポーランド・リトアニア合同が誕生した。ヨガイラによってビリニュスはマクデブルク法の自治を獲得する。ビリニュスは順調な発展を続け、16世紀に入ると城壁も整備され、ジグムント2世の宮廷もここに移された。ビリニュスは公国領の各地から集った多様な民族で殷賑を極めた国際都市へと発展した。1579年にはビリニュス大学が創立される。

17世紀を迎えると、ポーランド・リトアニア共和国は、衰退が始まる。大洪水時代である。ロシア・ポーランド戦争では、ヴィリニュスはロシア帝国およびザクセン公国軍に占領され放火・略奪・大虐殺の甚大な被害を受ける。1710年にはペストの大流行で1700人を超える市民を失い、さらにたび重なる大火で、市は18世紀を通して衰退を極めた。さらに、ポーランド・リトアニア共和国は、ブランデンブルク=プロイセン、ロシア帝国、ハプスブルク君主国の三列強により3度にわたって分割される(ポーランド分割)。特に、1795年の第3次分割で、ビリニュスはロシア帝国に編入され、ビリニュスにはヴィルナ・グベールニヤの庁舎が置かれた。ロシア帝政下で、ビリニュスの城壁は破壊された。

現在世界遺産となっているビリニュス歴史地区(旧市街)の住民のほぼ 100 % はポーランド人であった。しかし第二次世界大戦でビリニュスがソヴィエト連邦領となりリトアニア・ソヴィエト社会主義共和国に併合されると、戦後この街のポーランド人の多くがポーランドへと追放され、住民はリトアニア人とロシア人に取って代わられた。(Wikipediaより)

動画による紹介

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