文化遺産
資産名:
フィレンツェの歴史地区
Historic Centre of Florence
国名:イタリア
登録年:1982年
登録基準:(i) (ii) (iii) (iv)(vi)
概要:
フィレンツェは、イタリア中部のトスカーナ州の州都です。14世紀から17世紀にかけて、毛織物業と金融業で栄え、メディチ家による統治の下、ルネサンスの中心として数多くの優れた芸術作品を生み出しました。世界遺産として登録された主な遺産は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、ヴェッキオ宮殿、ウフィツィ美術館、ピッティ宮殿、ボーボリ庭園、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、サンタ・クローチェ聖堂などです。
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メディチ家のフィレンツェ
フィレンツェの歴史はメディチ家抜きには語れない。14世紀には人口12万人を要する都市となるがその頃、ジョヴァンニ・ディ・ビッチが成功させた銀行業を継いだコジモ・デ・メディチ(コジモ・イル・ヴェッキオ)は、フィレンツェの政治を支配し、学術・芸術を振興した。多くの芸術家を庇護し、プラトン研究のアカデミーや公共図書館を設立するなどし、死後「祖国の父」と称号を贈られた。
コジモの孫のロレンツォ・デ・メディチは早くから英才教育を受け、優れた政治能力を発揮した。自身も詩人であったロレンツォは芸術家らと親しく交わり、学問・芸術を厚く保護を行い、彼の代にルネッサンスは最高潮を迎える。現在でもメディチ家の6つの球をあしらった紋章をあちらこちらで見ることができる。そののちサヴォナローラの独裁などさまざまな政争を経て、16世紀にフィレンツェはトスカーナ大公国となる。
主な構成資産
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
「花の聖母マリア」の意味を持つ大聖堂。イタリアにおけるゴシック建築および初期のルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。1296年に、アルノルフォ・ディ・カンピオの設計により着工。140年以上の歳月をかけて建設されたため、ゴシック・初期ルネサンス・ネオ・ゴシックの各様式が混在している。石積み建築のドームとしては現在でも世界最大である。
1418年、ドームの模型公募の布告が行われ、ロレンツォ・ギベルティ、フィリッポ・ブルネレスキとドナテッロ、そしてナンニ・ディ・バンコの案の応募があった。ドームを築くには巨大な足場と仮枠が必要で非常な困難を伴うと考えられていたが、最終的にブルネレスキの案が採用された。1420年、建設が開始され、1434年にはドーム頂頭部の円環が閉じられて一応の完成をみた。このドームは木の仮枠を組まずに作られた世界で最初のドームであり、建設当時世界最大であった。
ヴェッキオ宮殿
14世紀の始めにフィレンツェの政庁舎として建築され、一時、メディチ家もピッティ宮殿へ移るまでここを住居としていた。現在は市庁舎として使用されている。3層の石造建物で塔の高さは94mある。「500人大広間」の壁画をミケランジェロとダ・ビンチが競作したエピソードで有名。宮殿前のシニョリーア広場は、中世のフィレンツェの政治の中心であった。ジロラモ・サヴォナローラが火あぶりの刑に処せられた場所でもある。
ウフィツィ美術館
近代式の美術館としてヨーロッパ最古といわれる。建物はもともと、ジョルジョ・ヴァザーリの設計で1560年に着工し、1580年に完成したフィレンツェ共和国政府の政庁舎だった。したがって、ウフィツィ(Office)の名がつけられた。もともと、メディチ家の収集した美術品を保管するため最上階が改装された。メディチ家が、1737年に断絶された後も美術品は残され一般に公開されるようになった。ウフィツィ美術館の中心には、トリブーナと呼ばれる真珠貝が散りばめられたドーム空間が広がっている。もっとも広い部屋は、ボッティチェッリの間とも呼ばれ、サンドロ・ボッティチェッリ作の『ヴィーナスの誕生』が飾られている。またメディチ家の結婚祝としてボッティチェッリが描いた『春』も所蔵されている。この他、ミケランジェロ作『聖家族』、レオナルド・ダ・ヴィンチ作『受胎告知』、ボッティチェリ作『マニフィカートの聖母』、ラファエロ作『ヒワの聖母』、ティツィアーノ作『フローラ』、ティツィアーノ作『ウルビーノのヴィーナス』など多数の名画が収蔵されている。
ピッティ宮殿
アルノ川の南岸に建つピッティ宮殿は、ルカ・ピッティがブルネレスキに依頼して建築し、16世紀半ばにメディチ家が購入し、歴代トスカーナ大公の居館となった。その後、数回の改築を経て18世紀ごろに現在の形となる。現在は、2つの美術館と5つの博物館になり、ヴェッキオ宮殿からウフィツィ美術館とは、ヴァザーリの回廊で結ばれている。ピッティ美術館(パラティーナ美術館)には、「小椅子の聖母」(ラファエロ)、「悔悛するマグダラのマリア」(ティツィアーノ)などの名作が収蔵されている。
ヴァザーリ回廊とヴェッキオ橋
メディチ家の専用通路として約1キロにわたり、ヴェッキオ宮殿からヴェッキオ橋の上を通ってピッティ宮殿まで、一度も地上に降りることなく続く。1565年、トスカーナ大公のコジモ1世が画家で建築家のジョルジョ・ ヴァザーリに依頼し、住居であるピッティ宮殿から仕事場であるヴェッキオ宮殿まで安心して通えるように、メディチ家の専用通路として一度も一般市民に会うことなく歩けるように造られた。同年に予定されていた息子のフランチェスコ1世の結婚式に間に合わせるため、わずか5カ月で完成させたといわれる。
ヴェッキオ橋またはポンテ・ヴェッキオ(Ponte Vecchio)は、フィレンツェを流れるアルノ川に架かる橋。イタリア語で「古い橋」の名が示すとおり、フィレンツェ最古の橋であり、先の大戦を生き延びたフィレンツェ唯一の橋である。河川の氾濫などで何度か建て直されており、現在の橋は1345年に再建されたもの。橋の上に宝飾店が建ち並んでいることで知られる。
ヴァザーリ回廊を見学するには?
https://italiaryokou.info/firenze/corridoiovasariano予約サイト(英語)
https://www.ticketsflorence.com/en/corridoio-vasariano-reservation
シニョーリア広場、ヴェッキオ橋、ピッティ宮殿の周辺地図
アカデミア美術館
アカデミア美術館は、ウフィツィ美術館、ピッティ美術館、サンマルコ美術館と並び、フィレンツェを代表する美術館である。ミケランジェロの『ダヴィデ像』が名高い。1873年にシニョーリア広場にあった彫像を風雨による損傷から守るために移設して以降、同作品は美術館の顔というべき存在となっている。シニョーリア広場とミケランジェロ広場にもダヴィデ像があるが、いずれもレプリカである。本物はアカデミア美術館に置かれている。
Florence, Italy: Michelangelo's David (Rick Steves)
アカデミア美術館とサン・マルコ美術館の周辺地図
サン・マルコ美術館(サン・マルコ修道院)
元来ドメニコ会修道院であり、その一部を美術館として公開し、修道院に所縁の深い美術品を展示している。サン・マルコ美術館は、建築家ミケロッツォの傑作であり、フィレンツェの最も重要な建築物の一つに数えられる。館内には、修道士として当修道院に居住した画家フラ・アンジェリコが残した最も重要な板絵およびフレスコ画が保管されている。
階段を登り2階へ登ると目の前に≪受胎告知≫を表す美しいフレスコ画が現れる。これはフラ・アンジェリコが1440年から1450年頃にかけて制作した傑作である。フラ・アンジェリコは同主題作品を他に三点制作しており、各々プラド美術館、コルトーナ、サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノに現存している。
フラアンジェリコ 受胎告知(サン・マルコ美術館)
(Wikipediaより)
フィレンツェ周辺のハイキング・コース
世界遺産クイズ
世界遺産検定クイズ
関連動画へのリンク
Florence The City of Renaissance
フィレンツェ旅行ガイド (Expedia)
Rick Steves' Europe
Florence: Renaissance home of the Medici, Michelangelo and da Vinci | Legendary Cities
映画『トスカーナの休日』(予告編)
映画『眺めのいい部屋』音楽(歌:キリテ・カナワ)
フィレンツェのホテル検索
https://www.hotelscombined.jp/Place/Florence.htm
詩人ダンテとフィレンツェ、ベアトリーチェとの出会い
ダンテ (Dante Alighieri 1265 - 1321)は、中世イタリアの代表的な詩人、作家、哲学者である。フィレンツェで生まれ、フィレンツェでベアトリーチェに恋し、フィレンツェを追放され、二度とフィレンツェに戻ることはなかった。
ダンテは、1265年頃、金融業を営む教皇派(ゲルフ)の小貴族の父アリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ(Alaghiero di Bellincione)とその妻ベッラ(Bella)の息子として生まれた。最愛の女性、ベアトリーチェとの出会いは9歳のときだった。
ダンテは、父に連れられて、ポルティナーリ家で催された春の祭り(Calendimaggio)に行った。ここで、同い年の少女ベアトリーチェ・ポルティナーリに出会い、一目で恋に落ちてしまった。ベアトリーチェへの愛を歌ったダンテの詩集『新生』 ( La Vita Nuova )には、この最初の出会いの様子が次のように述べられている。
その方は九歳になりそめたころわたしの前にあらわれ、わたしは九歳をおえようとするころその方を見かけたのである。高貴な血のような紅の、すなおで、つつましやかな色どりの服を身にまとい、ベルトをしめ、あどけない年ごろに似合いの身なりをしていた。げにこの刹那、心臓の深奥の室に住むわが生命の霊ははげしくわななき、鼓動は血管のすみずみにまで怖ろしいほど感じられた。(平川祐弘訳『新生』第2章より)
それ以来、ダンテの心はベアトリーチェへの愛に満たされ、片時も彼女を忘れることはなかった。ダンテがベアトリーチェと再会するのは、それから9年後、18歳になった時であった。アルノ川にかかるサンタ・トリニタ橋のたもとで、友人二人と連れだって歩くベアトリーチェと偶然出会ったのだった。このとき、ベアトリーチェはダンテに気づいて軽く会釈したが、それ以上の会話が交わされることはなかった。しかし、ダンテはベアトリーチェとの再会に深く感動し、自室に戻ってから彼女の夢を見、ベアトリーチェへの恋心を激しく燃やしたのである。『新生』には、このときの様子が次のように述べられている。
それからかっきり九年の歳月が経ち、その最後の日がまさに過ぎようとした日に、この奇跡的な女性がまたも眼前にあらわれたのである。純白の衣服をまとい、二人の、やや年上の婦人の間にはさまれて、わたしの前を過ぎて行く。そして道を進みながら、わたしのいる方へと眼を向けた。わたしはひどくどぎまぎしたが、女性はあの得もいわれぬ優雅な物腰でいかにも上品にわたしに会釈した。それだからその時わたしはもう至福のかぎりを見たと思った。あの方の甘美なご挨拶がわたしにとどいたときは、その日の第九時かっきりであった。そしてその時こそ、あの方が声を発し、その声がわたしの耳にとどいた初めであった。わたしは嬉しさのあまりなかば酔いしれた心地となって人々の群れを離れ、部屋に戻って一人きりとじこもると、あの優雅な女性のことをじっと思いつめはじめた。(平川祐弘訳『新生』第2章より)
後に、画家のHenry Holidayは、アルノ川のほとりでのダンテとベアトリーチェの出会いの場面を油絵で描いている。場面設定は、アルノ川にかかるサンタ・トリニタ橋 (Ponte Santa Trinita)のほとり、背後にはヴェッキオ橋 (Ponte Vecchio)が見えている。橋の横を3人の若い女性が歩いてくる。中央の女性が白いドレスを着たベアトリーチェ(Beatrice Portinari)、左側にはベアトリーチェの友達のモンナ・ヴァンナ(Monna Vanna)、右側には少し後れてベアトリーチェの召使いの女性。右側、橋の欄干に手をついてベアトリーチェをじっと見つめるのは、ダンテ。ベアトリーチェはダンテを見ることなく前方に眼を向け、ダンテを見つめるのは、ベアトリーチェの女友達のモンナと召使いの女性だけ。これは、ダンテがベアトリーチェへの恋心を他人に悟られないよう、別の二人の女性に恋文を送ったという逸話をもとに作った構図とも考えられる。
サンタ・トリニタ橋とヴェッキオ橋
関連動画へのリンク
フィレンツェのダンテアリギエーリツアー
ダンテ『神曲』とイタリア・ルネサンス 高階 秀爾
INFERNO - Official Trailer (HD) 映画『インフェルノ』予告編
ダンテ博物館(ダンテの生家)
ダンテ博物館は、フィレンツェの中心部にある。ダンテが生まれた場所に建てられ、博物館となっている。
参考サイト:没後700年、『神曲』の作者ダンテと歩くイタリア① ~フィレンツェ編
https://news.arukikata.co.jp/column/sightseeing/Europe/Italy/FLORENCE/146_082027_1627433877.html
UNESCO公式HP(英語版)へのリンク
https://whc.unesco.org/en/list/174