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ローマの歴史地区

2021年3月19日

概要

文化遺産
資産名:
ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂
Historic Centre of Rome, the Properties of the Holy See in that City Enjoying Extraterritorial Rights and San Paolo Fuori le Mura
国名:イタリア、ヴァチカン市国
登録年:1980年
登録基準:(i) (ii) (iii) (iv) (vi)
概要:
イタリアの首都ローマには、古代から近世まで幾層にも積み重なった遺跡群があります。紀元前の古代ローマ帝国の遺跡としては、フォロ・ロマーノコロッセウムカラカラ浴場パンテオンなどがあり、中世の建築物としてはサンタンジェロ城ファルネーセ宮殿、近世の建築物としてはスペイン広場トレヴィの泉などがあります。サン・パオロ・フォリ・ムーラ聖堂は、ヴァティカン市国の教皇領にある聖パウロの墓の上に立てられた聖堂で、4世紀末に建てられたキリスト教会です。

地図

スライドショー

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ローマの歴史

起源

伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロームルスとレムスにより建てられた。ロームルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロームルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる。考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘で発見された。

狼の乳を飲むロムルスとレムスの像(Wikipedia)

都市国家としての発展

紀元前7世紀頃には都市国家としての整備が進んだ。パラティーノの丘とカンピドリオの丘の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設フォロ・ロマーノが作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。またカンピドリオの丘にはユピテル神殿が建設された。これら土木・建築様式はエトルリアやギリシアの影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる。

フォロ・ロマーノの遺跡 (Flickr)

共和政ローマ期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都としてますますローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ)が建設されたのもこの頃と言われる。紀元前312年からはローマ街道の敷設が、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道の建設が始まった。

ローマ帝国

ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した。しかし皇帝ネロ統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。

この頃、ローマ帝国は隆盛を極めた。皇帝ウェスパシアヌス在位期の69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能なコロッセオは石灰石を用いた化粧が施され、剣闘士の戦いなどの催しが行われた。さらに石灰岩と火山灰を混ぜたローマン・コンクリートが発明され、パンテオンなど様々な建物が次々と建設され、ローマは大帝国の首府にふさわしい都市となった。ここには、皇帝が権威を示し民衆の支持を得るために、都市建築を用いたことも影響している。この栄華は皇帝ディオクレティアヌスが拠点をニコメディアに移すまで続いた。

コロッセオ (Flickr)

中世から近代にかけてのローマ

15世紀半ば以降、ローマ教皇領の首都として栄え、ローマはルネサンス文化の中心地となった。教皇ニコラウス5世の時代には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマはフィレンツェにかわってルネサンスの一大中心地となり、ミケランジェロ、ブラマンテ、ラファエロなどの芸術家が教皇のために仕事をした。しかし1527年、ハプスブルク家の傭兵軍による、いわゆる「ローマ劫掠」によって、この都の盛期ルネサンスは終わりをつげた。なお、家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇シクストゥス5世の時代で、ポポロ広場から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、フェリクス水道を修復した。 対抗改革期のローマを特徴づけるバロック様式は、17世紀の建築物に多くみられる。ベルニーニやボロミーニのような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。スペイン階段などにみられる18世紀前半のロココ様式の建物は、やがて新古典主義の建物にかわった。

スペイン階段 (Flickr)

主な構成資産

フォロ・ロマーノ

パラティーノの丘とカンピドリオの丘の中間に位置する。フォロとは、広場のこと。ローマ帝国の政治、商業と市民の生活の中心だった場所である。フォロ・ロマーノが本格的に整備されるようになったのは、ユリウス・カエサルの時代で、アウグストゥスがこれを引き継ぎ、カエサルを祭ったユリウス神殿、元老院やバシリカ・ユリアが整備された。

フォロ・ロマーノでは、定期的に民会(コミティウム)が開催されており、そのための広場は宗教的な儀式によって聖別されていた。民会は、クリア・ユリアとセプティミウス・セウェルスの記念門に挟まれた場所にあり、紀元前3世紀前半から紀元前1世紀前半までは、ロストラ(演壇)を備えた直径約30mの露天の円形広場であった。民会議場に隣接して北側に元老院議事堂(クリア・オスティリア)も設置されていた。

写真右下の小さな円形神殿(一部が残る)がウェスタ神殿。その上がデイイウス・カエサル神殿(基礎のみ)。右中央にバシリカ・アエミリア(壁の下部構造のみ)。写真左の3本の柱のみが残るものがカストルとポルックス神殿。写真中央がセプティミウス・セウェルスの凱旋門で、その左に建つ建物がクリア・ユリア。 (Wikipediaより)

フォーリ・インペリアーリ(皇帝たちのフォルム)

フォロ・ロマーノの北側にある「皇帝たちの広場」(イタリア語: Fori Imperiali)は、ローマ帝国時代のローマ中心部の地区の呼び名である。それまで国の中心であったフォルム・ロマヌムが手狭になったため、北側に隣接した土地に新たな政治・経済・宗教の中心施設を造ることを目的に、ガイウス・ユリウス・カエサルが計画し、建設を始めた。紀元前46年から113年までの1世紀半の期間に、皇帝や指導者たちがフォルムを造った地区のことである。トラヤヌス帝がダキアに勝利したことを記念する「トラヤヌス帝記念柱」が残る。

フォーリ・インペリアーリ (Flickr)

コロッセオ

80年にティトゥス帝が建築。当時はフラウイウスの闘技場と呼ばれていた。コロッセオは長径が188m、短径が156mの楕円形。高さは48.5mの4層構造。収容人数は5万人とも6万人以上ともいわれている。ローマ帝国時代、ここでは血をすわせるため白い砂が撒かれその上で剣闘士同士や、剣闘士と猛獣の戦いが見世物として行われた。使用開始に当たっては、100日間に渡り奉献式のイベントが行われ、模擬海戦が行われると共に、剣闘士試合で様々な猛獣5000頭が殺され、数百人の剣闘士が命を落としている。現在は、地上部分が露出している。

コロッセオ

世界遺産解説Ep.1 コロッセオの誕生秘話 ~ローマ建築の最高峰~

コンスタンティヌスの凱旋門

イタリアの首都ローマにある古代ローマ時代の凱旋門で、ローマ建築の代表的なものである。 フラウィウス円形闘技場(コロッセオ)とパラティウムの丘、フォルム・ロマヌムの間に位置している。西の副帝であったコンスタンティヌスが、ミルウィウス橋の戦いで正帝マクセンティウスに勝利し、西ローマの唯一の皇帝となった事を記念し建てられた。フランスのパリに建設されたカルーゼル凱旋門のモデルにもなっている。

コンスタンティヌスの凱旋門 (Flickr)

サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂

4世紀、コンスタンティヌス帝により建築された、聖パウロの墓がある聖堂。奥行き131m、幅65m、高さ30m。内部は80本の大理石の柱が4列に並んでいる。フオーリ・レ・ムーラとは、城壁の外という意味で、その名の通り城壁から南へ2kmはなれた場所にある。聖堂の名前を日本語に訳すと「城壁外の聖パウロ大聖堂」という名前になる。建築当時は小さな聖堂であったが、その後大規模な改修が行われた。しかし1823年の火災で全壊、1928年に再建された。

サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 (Flickr)

カラカラ浴場

セプティミウス・セウェルス帝の計画を引き継ぎ、ローマ帝国第22代皇帝カラカラがローマ市街の南端付近に造営したローマ浴場。当時はアントニヌス浴場(ラテン語: Thermae Antoninianae)とも呼ばれていた。構成は225mの長さに185mの幅、おおよその高さは38.5mほどで、あちらこちらに2,000から3,000の浴槽を設置できた。この浴場には「フリギダリウム(frigidarium)」と呼ばれる冷室と 「テピダリウム(tepidarium)」と呼ばれる温室と「カルダリウム(caldarium)」と呼ばれる熱室と2つの「パライストラ」という、今でいうジムのようなものさえあった。

(Wikipediaより)

カラカラ浴場 (Flickr)

アウレリアヌスの城壁

アウレリアヌス城壁は、271年から275年、ローマ皇帝アウレリアヌスとプロブスの治世の間にイタリアのローマに建設された都市の城壁である。ゲルマン人などの外敵の侵入を防ぐために建造された。ローマの7丘に加えてカンプス・マルティウスやテヴェレ川の右岸であるトラステヴェレ地区を囲んでいる。しかし、カンプス・マルティウスのテヴェレ川の河岸には何の防備もされていなかった。

全周19kmで、13.7平方kmの領域を取り囲んでいる。壁はローマン・コンクリートを煉瓦で覆う形で作られており、厚さは3.5m、高さは8mで、100ローマンフィート (29.6m) ごとに塔がある。

アウレリアヌスの城壁 (Flickr)

ローマの休日(世界遺産 番外編)

ここからは、世界遺産の構成資産の対象外になりますが、ローマの魅力を伝える最高の映画『ローマの休日』を題材として、ローマの名所めぐりを楽しんでいただきたいと思います。

私は映画『ローマの休日』の大ファンです。これまでに、何回繰り返し見たか、数え切れないほどです。映画のすべてのシーンや台詞を覚えているほどです。このページでは、その中から、私がとくに気に入っている9つのシーンを抜き出し、WP GoogleマップのMarkerに落とし込んでみました。

選んだシーンは、「フォロロマーノでの出会いのシーン」「ジョー・ブラッドレイのアパートでのシーン」(マルグッタ通り51番地)」「トレビの泉横の美容室でヘアカットするシーン」「スペイン階段での再会」、「パンテオン前のカフェでのシーン」「真実の口」、「サンタンジェロ城のパーティ乱闘」、「バルベリーニ宮前での悲しい別れのシーン」、「コロンナ宮での記者会見のラストシーン」の9つです。いずれも、この映画のハイライトといってもいい重要な場面です。これらは、いずれもロケ現場が分かっている所なので、マップにマーカーをつけることができます。これからローマを訪問する人にも有益な情報となるはずです。

とりあえずこの9地点にマーカーを設定し、その中に映画のシーンを収めた動画とミニ解説からなるInfoWindowをつけた地図をご披露したいと思います。地図中のマーカー(など)をクリックしてごらんください。

フォロロマーノでの出会いのシーン ( Via dell'Arco di Settimio )
ジョーのアパートでのシーン ( Via Margutta, 51 )
トレビの泉横の美容室でヘアカットするシーン ( Fontana di Trevi )
スペイン階段での再会シーン ( Piazza di Spagna )
パンテオン前のカフェにて( Pantheon )
真実の口 ( Bocca Della Verita )
サンタンジェロでの乱闘 ( Castel Sant'Angelo )
バルベリーニ宮前の悲しい別れ(Parazzo Barberini)
コロンナ宮での記者会見とラストシーン ( Palazzo Colonna )

「永遠の都ローマ」の思い出

今回作成した「ローマの休日」マップは、魅力にあふれる都市ローマの思い出の一端を伝えようとするものです。いまから20年近く前と10年ほど前、私はローマ市内の主要な観光スポットを、ガイドブック片手に歩き回りました。ジョーのアパートのあったマルグッタ51番地も訪ねてみました。中庭では、家主とおぼしき人が、観光客にいろいろと説明していたのが印象に残っています。また、スペイン階段では、もちろんジェラートを注文して、なめながら階段を上ってみました。トレビの泉では、アン王女が入ったという美容室を探したのですが、それらしいお店は見つかりませんでした。ネット情報によると、現在では鞄屋さんになっているそうです。パンテオン前のカフェにも入ってみました。「真実の口」にも手を入れてみましたが、なにも起こらずにすみました。フォロロマーノにも行き、古代遺跡を堪能しました。唯一行けなかったのは、コロンナ宮です。いまは美術館になっているそうなので、次回はぜひ訪れてみたいと思っています。このマップに落とし込みたいスポットはまだまだたくさんあります。次に行く機会があれば、その前までに、テーマ別に、いろいろなマルチメディアのマップを作成したいと思っています。

映画『ローマの休日』YouTube(第1部)

映画『ローマの休日』のロケ地、今はどうなっているのか?(YouTube)

ナボーナ広場からコロンナ広場までの街歩き(YouTube)

ローマ周辺のハイキング・コース

ローマの観光名所(世界遺産 番外編〕

サンタンジェロ城

サンタンジェロ城( Castel Sant'Angelo)は、ローマのテヴェレ川右岸にある城塞である。日本語では、聖天使城、カステル・サンタンジェロとも呼ばれる。135年、ローマ帝国の皇帝でいわゆる「五賢帝」のひとりハドリアヌスが自らの霊廟として建設を開始し、アントニヌス・ピウス治世の139年に完成した。霊廟はきれいな円形平面をなし、太陽を象徴したハドリアヌスが戦車を引く像が頂上に設置された。14世紀以降は歴代のローマ教皇によって要塞として強化され、また、同時に牢獄や避難所としても使用された。

サンタンジェロ城の名称は、590年にローマでペストが大流行した際、時の教皇グレゴリウス1世が城の頂上で剣を鞘に収める大天使ミカエルを見て、ペスト流行の終焉を意味するとしたことに由来する。その故事を記念して、16世紀にラファエッロ・ダ・モンテルーポによる大理石製の天使の像を城の頂上に設置した。1753年からはPierre van Verschaffeltによる青銅製の像が設置してある。なお、サンタンジェロ城は、1933年以降は博物館として利用されている。

サンタンジェロ城 (Shutterstock)

『ローマの休日』の一場面

メモ

昼間にヘアカットしてくれた理髪師との約束を果たすために、アン王女は、ブラッドレイとともにサンタンジェロ城に行きます。しかし、そこでアン王女捜索隊に見つかり、大乱闘になります。

パンテオン

パンテオン (Pantheon) は、ローマ市内のマルス広場に建造された神殿である。元々は、様々なローマ神を奉る万神殿であった。最初のパンテオンは紀元前25年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近マルクス・ウィプサニウス・アグリッパによって建造された。ローマ市内の建築物についてアウグストゥスとアグリッパは明確な役割分担を持っており、アグリッパが建造した神殿はこのパンテオンのみである。このため、パンテオンは元々アウグストゥスを奉ることを予定していたが、市民の反発を避けるため、万神殿に変更されたとの説もある。このパンテオンは、後に火事で焼失している。2代目のパンテオンは118年から128年に掛けて、ローマ皇帝ハドリアヌスによって再建された。現在、ローマで見ることが出来るのはこの再建されたパンテオンであるが、正面にはアグリッパに敬意を表し M. AGRIPPA L. F. COS TERTIUM FECIT(ルキウスの息子マルクス・アグリッパが、3度目のコンスルの際に建造)と記されている。

建物は、深さ4.5mのローマン・コンクリート基礎の上部に直径43.2m の円堂と半球形のドームが載った構造で、壁面の厚さは6mに達するが、高さによって材質を使い分けており、ドーム上部は凝灰岩と軽石を素材として用い、その厚さは1.5mに減じる。床からドーム頂部までの高さは直径と同じ43.2mで、頂上部分にはオクルスと呼ばれる採光のための直径9メートルの開口部があり、ドームの質量を感じさせない。ラファエロの墓もここにある。

パンテオン (Shutterstock)

『ローマの休日』の一場面

メモ

ジョーの提案で1日ローマを楽しむことになった2人は、まずパンテオン横のカフェに入ります。そこに電話で呼び出しを受けた友人のカメラマンが来ますが、事情がわからず、ジョーとの間で一悶着を起こします。

ナヴォーナ広場

ナヴォーナ広場(Piazza Navona)は、イタリア・ローマにある広場。1世紀にドミティアヌス帝が造らせたドミティアヌス競技場が元になっている。名称はキルクス・アゴニウスと呼ばれていたものが中世にはカンプス・アゴニスとなり、アゴーネ(agone) 、ナゴーナ (n'agona)、ナヴォーナ (navona) と変化して現在に至る。徒歩5分ほどのところには、ローマで一番有名とされる朝市が開かれるカンポ・ディ・フィオーリがある。広場中央には、4つの大河(ナイル川、ガンジス川、ドナウ川、ラプラタ川)を擬人化した彫像の噴水型のオベリスク「四大河の噴水」(Fontana dei Quattro Fiumi)がある。これらの彫像は、バロック時代ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによって造られたものである。

ナヴォーナ広場「四大河の噴水」(Shutterstock)

スペイン階段

スペイン広場(Piazza di Spagna)は、イタリア共和国ローマ市の中心街にある広場。間近にあるスペイン大使館にちなんで命名された。広場の中央には、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作「バルカッチャの噴水(舟の噴水)」がある。東にはスペイン階段がある。西側はコルソ通りに向けてコンドッティ通りがある。スペイン広場には、トリニタ・デイ・モンティ教会へと続くトリニタ・デイ・モンティ階段(通称「スペイン階段」)が接する。 設計はフランチェスコ・ディ・サンクティスによるもので、1725年に完成した。波を打つような形態はバロック的な効果をあげている。映画『ローマの休日』で、オードリー・ヘプバーン扮する王女がジェラートを食べたシーンでもおなじみの場所である。当初、フランスの外交官の寄付によって造られたものの、スペイン広場にあるためこの名で呼ばれている。現在はスペイン広場付近の地下鉄入り口付近に階段を上らずに上にいけるエレベーターが設置されている。保全のため広場での飲食や階段での座り込みが法令で禁止され、『ローマの休日』のシーンのようにジェラートを食べたり座ったりすることはできない。

スペイン階段 (Shutterstock)

『ローマの休日』の一場面

メモ

記者のジョーは、アンがローマを滞在中の王女であることを知り、アパートで別れた彼女を追いかけ、ここスペイン広場で再会を果たします。スペイン階段ですれ違ったときのシーンは印象的です。

この映画のあと、スペイン階段でジェラート(アイスクリーム)を食べるのがブームになりました。いまでも、多くの観光客がここでジェラートを買い求めています。

トレヴィの泉

トレヴィの泉( Fontana di Trevi)は、ローマにある最も巨大なバロック時代の噴水である。ローマでも有数の観光名所として賑わっている。ポーリ宮殿(Palazzo Poli)の壁と一体となったデザインで、中央に水を司るネプトゥーヌス(ポセイドーン)が立ち、左に豊饒の女神ケレース(デーメーテール)、右に健康の女神サルース(ヒュギエイア)が配置されている。これら池全体の造作はニコラ・サルヴィ (Nicola Salvi) の原案でピエトロ・ブラッチ (Pietro Bracci) が制作した。なお、トレヴィの語源については諸説あり、『ローマの水道と噴水』(1977)の著者チェーザレ・ドノーフリオによればかつて存在した地名トレビウム (Trebium) に由来するというが、一般的にはトリーヴィオ(Trivio。ラテン語ならトリウィウム(trivium) )すなわち「3つの道」、「三叉路」が語源と考えられている。フェリクス水道の泉、パオラの泉と共にローマ三大噴水といわれることもある。

トレヴィの泉(Shutterstock)

『ローマの休日』の一場面

メモ

ジョーのアパートを出たアン王女は、トレビの泉の近くにある美容室に入り、ヘアカットをしてもらいます。思い切り短く切ったヘアスタイルは、当時の日本で「ヘプバーンカット」と呼ばれ、大流行しました。

ボルゲーゼ公園

ボルゲーゼ公園はローマにある80ヘクタールの広大なイギリス式庭園で、その中にはボルゲーゼ美術館などの様々な建築物も建っている。ローマではドリア・パンフィーリ公園に次ぐ2番目の広さの公園である。もともとは現在ボルゲーゼ美術館となっている "Villa Borghese Pinciana"(ピンチョの丘のヴィラ・ボルゲーゼ)の庭園として造営されたもので、17世紀に枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼの構想を基に建築家 Flaminio Ponzio が造営した。本来はボルゲーゼ卿のローマ近郊のヴィラであり、美術コレクションを収める家として建てたものである。庭園自体は19世紀に大きく改修されている。

ボルゲーゼ公園 (Flickr)

真実の口

ローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会(Santa Maria in Cosmedin)の外壁、教会の正面柱廊の奥に飾られている。元々はフォロ・ボアリオ地区の寺院内にあった集水器の覆いであったと考えられている。刻まれている顔は海神オーケアノスのものとされる。手を口に入れると、偽りの心がある者は、手を抜く時にその手首を切り落とされる、手を噛み切られる、あるいは手が抜けなくなるという伝説がある。

「真実の口」 (Flickr)

サンタ・マリア・イン・コスメディン教会 (Flickr)

『ローマの休日』の一場面

メモ

サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の外壁に飾られています。伝説によると、嘘をついた者が手を入れると手首を切り落とされるといいます。ジョーは、わざと手首を切られるフリをしてアンを驚かせます。思わずジョーに抱きつくアン。二人の間に愛がめばえた瞬間です。

トラステヴェレ

トラステヴェレ (Trastevere) はローマの地名。現行の行政区画としては13番目のリオーネにあたり、テヴェレ川西岸に位置する 。トラステヴェレは日本語に訳せば「テヴェレ川の向こう側」であり、これはローマの中心地からみた場合のテヴェレ川を挟んだ向こう側ということを意味し、「ローマの下町」ともいわれる。バチカンの南方にあたるとともに、ローマの有名な観光地フォロ・ロマーノ、コロッセオや真実の口からほど近いパラティーノ橋を西に渡り、テヴェレ川を越えた所に位置する。

古い街区ではあるが「庶民的な下町」と形容され、ライブハウスなどもあり若者も多いと言う。南東部のテヴェレ川が蛇行するあたりの「下町」と形容されるエリアは、入り組んだ石畳の路地を持つ繁華街で、夜遅くまで営業するピッツェリアやトラットリアが軒を連ね、ローマの「ナイトライフの中心地」とも評される。一方で古い教会も点在する歴史のある街区である。域内北西部にある小高いジャニコロの丘には公園や高級ホテルがあり、そこからはローマの市街地が一望できる。丘周辺のモンテ・ヴェルデと呼ばれる地域は高級住宅街を形成している。

ローマでも最古級の教会で221年に創建された教会で、ロマネスク様式建築のサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂が地区の中心付近にある。この付近は入り組んだ路地が多く、観光客向けの飲食店も多い。地区の北側及び西側は丘陵地でジャニコロの丘と呼ばれており、丘の最も高いところは公園とローマ・ラ・サピエンツァ大学の実験植物園で頂上にガリバルディの騎馬像がある。この公園の南端付近には、中世に再建されたパオラ水道の流末施設であるパオラの泉がある。 (Wikipediaより)

トラステヴェレ (Flickr)

トラステヴェレ (Flickr)

コロンナ宮殿(パラッツォ・コロンナ)

コロンナ宮殿とは、もともと中世ローマの有力貴族コロンナ一族の宮殿だった。1300年代から1500年代には、一族の要塞として位置づけられ、1417年11月11日にはオッドーネ・コロンナが教皇マルティヌス5世となったことから宮殿は教皇の居所となり、彼は1420年から死亡する1431年までこの宮殿で生活した。現在では、美術館として一般公開されている。17~20世紀に収集されたコロンナ家のコレクションを展示する美術館で、ヴェロネーゼやティントレットといったヴェネツィア派絵画のほか、ルネッサンス絵画やブロンツィーノの作品を見ることができる。現在もコロンナ家の人々が実際に住んでいる。「コロンナギャラリー」の間は、映画『ローマの休日』のラストシーン(記者会見の場面)に使われて、有名になった。

コロンナギャラリー (Flickr)

『ローマの休日』の一場面

メモ

コロンナ宮の記者会見場で、アン王女は各国の記者たちとの会見に臨みます。ジョーが記者であることを初めて知った王女でしたが、「あなたとの友情と信頼は変わらない」というジョーの言葉に、かすかに頬笑みながらうなずき、最後の別れを告げます。
ジョーが最後に会場を去るラストシーンは心に残ります。

マルグッタ通り Via Margutta

スペイン広場、コンドッティ通りから歩いて間もないところにある通り。映画『ローマの休日』で、グレゴリー・ペック扮する新聞記者のジョー・ブラッドリーのアパートがあったところ。住所は「マルグッタ通り51番地」となっていたが、実際にも存在する住所で、ロケ地となった所でもある。マルグッタ通りはローマの中心地にありながら清楚な雰囲気と静かな佇まいからか、著名な芸術家たちにも愛されてきた。かつてはパブロ・ピ カソデ・キリコもこの通りにアトリエを構えていた。また、イタリア映画の巨匠フェデリコ・フェッリーニ監督も、妻ジュリエッタ・マッシーナとこの通りを好んで散策していたという。今もその面影は残っており、アートギャラリーやブティック、レストランなどが並んでいる。ローマの休日の舞台となった「51番地のアパート」は、現在では地元芸術家たちの工房・アトリエが入っている(『アーモイタリア』HPより)。


マルグッタ通り51番地付近の Google Street View

マルグッタ通り (Flickr)

マルグッタ通り (Flickr)

マルグッタ通り51番地のアパート入口階段 (Flickr)

映画『ローマの休日』の一場面

メモ

映画「ローマの休日」には、こんなセリフがあります。

ANN: What is your address?
JOE: Er, Via Margutta 51.
ANN:Via Margutta 51. Joe Bradley.
JOE:Yeah.
ANN:Goodbye, thank you.

下の地図がその場所です。実在します。 そのアパートでの映画のワンシーンです。

アリベデルチ・ローマ

(HD 720p) "Arrivederci Roma", Mantovani

Arrivederci Roma by Jerry Vale

ローマのホテル検索

https://www.hotelscombined.jp/Place/Rome.htm

Rick Steves' Europe

Historic Centre of Rome

Rick Steves  Rome: Ancient Glory

世界遺産クイズ

世界遺産検定クイズ

UNESCO公式HP(英語版)へのリンク

https://whc.unesco.org/en/list/91

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