文化遺産
遺産名:
リガの歴史地区
Historic Centre of Riga
国名:ラトビア
登録年:1997年
登録基準:(i)(ii)
概要:
ラトビアの首都リガは、「バルト海の真珠」と讃えられる美しい港町。13世紀初頭、ローマ教皇の命を受けた宣教師と十字軍によって築かれた。その後ドイツから移住してきた商人によって発展し、1282年には、当時の海上貿易を独占して強い勢力を誇ったハンザ同盟に加わり、バルト海沿岸随一の都市に成長した。「ドイツよりもドイツらしい」と言われるような中世ドイツらしさが残るのは、ドイツ人によって都市の基礎が形作られたという歴史ゆえである。旧市街は中世ドイツの商業都市の特徴が多く見られ、とりわけハンザ同盟時代の街並みがよく残されている。約300棟のアールヌーボー調の建築物の宝庫として著名である。
Photo by Sebastian von Lüttwitz, Paul Webb, Stephen Downes, Arild wiik from Flickr
歴史
リガの記録は2世紀の時点で見られる。長らくヴァリャーグによる東ローマ帝国への交易ルートとして、ダウガヴァ川は古来より利用されており、河口から15キロに広がるリガは、天然の良港であった。12世紀までには交易だけでなく漁業や畜産の拠点となり、ドイツ人商人の入植も12世紀半ばから盛んになる。
1202年にアルベルトがリヴォニア帯剣騎士団を創立して以降、リガはバルト海とロシアの中継貿易拠点として重きをなす。1282年にはハンザ同盟に加盟し、経済発展の地歩を固めるが、同時にリガの繁栄は侵略者を招くこととなる。1522年には、プロテスタントを受容。1561年のドイツ騎士団の解散で、それ以後の20年間は帝国自由都市となる。
1581年からはポーランド・リトアニア共和国の支配を、1621年からはグスタフ2世アドルフのスウェーデン王国の支配を受ける。リガはスウェーデン王国最大の都市であった。18世紀に大北方戦争が起こると、ロシアのピョートル1世がリガに侵攻し、スウェーデン時代は終焉を迎える。
そうした中で、19世紀後半にはラトビアの民族主義が覚醒する。1918年にはラトビアはブレスト=リトフスク条約でドイツに割譲されるも、第一次世界大戦の終結でラトビアは独立を宣言した。
主な構成資産
リガ大聖堂
ラトビアの首都リガの旧市街にあるルーテル派の大聖堂。13世紀初めの建造以降、18世紀後半まで増改築が繰り返され、ロマネスク、ゴシック、バロック様式などが混在する。バルト三国における中世の大聖堂としては最大級のものとして知られる。リガの歴史を描いたステンドグラスや木彫のパイプオルガンが有名。大聖堂にあるパイプオルガンは1882年から1883年にかけて製作され、1884年1月31日に設置された。(コトバンクより)
聖ペテロ教会
1209年、石造りであった為にリガ市街に発生した火災で被害を免れたことがこの教会についての最も古い記録である。その後、主に三期に渡り大幅な増改築が行われ、一期から二期はゴシック建築、ロマネスク建築、三期は初期バロック建築といった建築様式で建設された。初期の建築は中間部の身廊の外壁と一部の柱にのみ残っている。
第二次世界大戦中の1941年6月29日に教会は焼失し、1954年から調査と修復作業が開始された。1970年8月21日に尖塔の頂上に焼失前と寸分違わない風見鶏が設置され、1975年7月から尖塔の時計が改修された。翌年には毎正時鳴り、さらに民謡のRīga dimdのメロディーを1日5回鳴らす鐘が設置された。1984年には塔にエレベーターが設置され観光客がリガ市街を一望できるようになった。同年に教会の内部の改修工事が完成した。
新市街
18世紀の帝政ロシア時代に建造された新市街には、富裕層た建てたユーゲンシュティール様式(アール・ヌーヴォーのドイツ語圏での呼称)の建築物が立ち並び、建築家ミハエル・エイゼンシュテインが設計した集合住宅も残る。
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