文化遺産
遺産名:
モスクワのクレムリンと赤の広場
Kremlin and Red Square, Moscow
国名:ロシア
登録年:1990年
登録基準:(i)(ii)(iv)(vi)
概要:
クレムリン(Кремль)は、モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある旧ロシア帝国の宮殿。ロシア語では「クレムリ」と呼び、「城塞」を意味する。城壁の総延長は2.25kmある。20の城門を備え、内部には様々な時代の様式による宮殿や大聖堂(寺院)が林立している。城壁内にはウスペンスキー大聖堂をはじめ壮麗な聖堂群や宮殿が建てられた。「赤の広場」は長さ700m、幅130m。イヴァン3世が命名した。赤の広場のシンボル、聖ワシリイ大聖堂は、16世紀中頃イヴァン4世が設計させたものである。玉葱形屋根を持つ円柱状のチャペルは、大小9つの塔が寄り添って一体となっている。
歴史
モスクワのクレムリンの原型となる城塞は、1147年、ユーリー・ドルゴルーキーによって築かれたと考えられている。クレムリンが築かれた場所はモスクワ川とネグリンナヤ川の合流点に面した河岸段丘に建つ、天然の要害であった。1366年、第4代モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイにより、石造りの城塞として再建された。
15世紀後半、イヴァン3世(イヴァン大帝)の治世に、ロドルフォ・ディ・フィオラバンディやマルコ・ルフィーらイタリア人建築家により、進んだ築城術が導入され、ルネサンス風に全面改築がなされた。この時期には、代々のツァーリ(ロシア皇帝)が戴冠式を行うことで知られるウスペンスキー大聖堂(1479年再建)、ブラゴヴェシチェンスキー大聖堂(1489年建立)、ツァーリの納骨堂のあるアルハンゲリスキー聖堂(1508年建立)の三大聖堂や、イヴァン大帝の鐘楼(1508年建立)が建立され、現在とほぼ同じ外観を持つに至った。
17世紀には城門にゴシック風の塔が加えられ、娯楽宮、モスクワ総司教館が新築された。しかし、1712年にピョートル1世がサンクトペテルブルクに遷都すると、クレムリンの増改築は停滞した。
1812年、ナポレオン・ボナパルトによるモスクワ占領の際にはクレムリンの一部が破壊されたが、その後修復された。さらに、コンスタンチン・トーンらによって大クレムリン大宮殿(1849年建立)や武器宮殿(1851年建立)が新たに造られた。
1917年のロシア革命以降はソビエト政府の中心となった。なお、モスクワ放送では、宮殿で鳴らされる鐘の音を流していた。
主な構成資産
赤の広場
1493年、モスクワ大公国の統治者イヴァン3世が、自らの居城であるクレムリンの前の市街地を広場として整理させたのが起源とされる。以後、商業地域のキタイゴロドと区別され、モスクワ大公国やロシア帝国(ロマノフ朝)の重要な国家行事がここで行われるようになった。
「赤」はソビエト連邦の社会主義に起因するものではなく、元々ロシア語では「美しい」という意味もあり、広場の名前は本来「美しい広場」というものであった。広場は北西から南東に長く、南西側にはスターリンやブレジネフ、アンドロポフなどのソ連指導者の他、ガガーリン、片山潜などが眠るクレムリンの城壁とその中の大統領官邸、城壁に接しているレーニンの遺体が保存展示されているレーニン廟および重要人物が埋葬されているクレムリンの壁墓所、北東側にはグム百貨店、北西端には国立歴史博物館とヴァスクレセンスキー門、南東端には葱坊主の屋根の聖ワシリイ大聖堂がある。
聖ワシリイ大聖堂
1551年から1560年にかけて、イヴァン4世(雷帝)が、カザン・ハーンを捕虜とし勝利したことを記念して建立した。ロシアの聖堂でもっとも美しい建物のひとつと言われる。1990年にユネスコの世界遺産に登録された。ゲームソフト等で有名なテトリスでは、ロシア文化をイメージとした背景や音楽等がよく用いられており、聖ワシリイ大聖堂もしばしば背景画像やパッケージとして使われている。「クレムリンの聖ワシリイ大聖堂」といった説明がされることもあるが、大聖堂はクレムリンの城壁の内側には位置していないため誤りである。聖ワシリイ大聖堂が位置する赤の広場はクレムリンの城壁の外側にある。
模擬試験問題
世界遺産検定の模擬試験問題