トルコ 世界遺産100選 検定2級 重要遺産

トロイアの考古遺跡

2021年6月22日

概要

文化遺産
遺産名:
トロイアの考古遺跡
Archaeological Site of Troy
国名:トルコ
登録年:1998年
登録基準:(ii)(iii)(vi)
概要:
ギリシャの伝説が語るトロイ戦争で有名なトルコ西部のこの都市は、世界で最も有名な遺跡の一つである。1870年に始まるシュリーマンの発掘によって次第にその全容が明らかになった。伝説とされるトロイ戦争を信じ、この地で遺跡の発掘を行ったのがドイツ人の実業家、ハインリッヒ・シュリーマンである。私財を投じ、長い時間をかけてついに遺跡を発掘した。その後は考古学者による発掘も相次ぎ、紀元前3000~400年頃まで、9層(9都市)に及び積み重なった都市の遺構が発見されている。その広大な遺跡は、近東の黎明期の地中海世界との最初の接触を示す、最も重要かつ具体的な証拠である。イリアードが語るギリシャからのミケーネ戦士によるトロイ包囲は、それ以来、世界中の創造的な芸術家の精神を鼓舞してきた。シュリーマンが掘り当てたのは第2市で、トロイ戦争よりはるか以前の時代だったという。だが、彼の発掘により、城壁や家屋、寺院、劇場などの遺跡が見つかり、トロイ戦争を記念して建てられたトロイの木馬は、この地を一大観光地として知らしめるに至る。(Wikipedia、トルコ大使館 文化広報参事官室 提供資料より)

地図

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Photo by Kathy, Erin Walton, Meltem*, Brendon, Diane Homewood, Jennie from Flickr

伝説上のトロイア(イリオス)

かつてイリオスのある地域は、スカマンドロス河とニュンペーのイダイアの子であるテウクロスが王として治めており、テウクロイと呼ばれていた。そこへアトラースの娘エーレクトラーにゼウスが生ませた子であるダルダノスがサモトラケ島からやってきた。ダルダノスの後はエリクトニオスが相続した。エリクトニオスの後はトロースが継いだ。トロースは、自分の名にちなんでダルダニアの地をトロイアと呼ぶことにした。

トロースの子イーロスは、プリュギアの王が主催した競技会の相撲の部に優勝。賞品として50人の少年と50人の少女を得た。また王は彼に斑の牛をあたえ、「その牛が横になったところに都市を築けという神託が下ったから、その通りにしなさい」といった。イーロスが牛の後についていくと、牛はアテという丘で横になった。そこでイーロスはそこに都市を築き、イリオスと名づけた。

イリオスは、プリアモス王の時にギリシア勢に攻め込まれ、滅亡することとなった(トロイア戦争)。プリアモス王の后ヘカベーは、息子パリスを生むとき「自分が燃える木を生み、それが燃え広がってイリオスが焼け落ちる」という夢を見た。この夢の通り、パリスはイリオスにとって災厄の種となった。パリスは、ヘーラー、アテーナー、アプロディーテーの三女神の美の競合、いわゆるパリスの審判によりアプロディーテーからスパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーを奪って妻とすることを約された。彼はスパルタからヘレネーを奪ったため、メネラーオスは直ちにトロイアにヘレネーを帰すよう求めた。しかし交渉は決裂、メネラーオスは兄アガメムノーンとともにトロイア攻略を画策した

アガメムノーンを総大将としたアカイア軍(ギリシア勢)はイリオスに上陸、プリアモス王の王子ヘクトールを事実上の総大将としたイリオス軍と衝突した。多大な犠牲を出しながら戦争は10年間続き、アカイア軍の間には次第に厭戦気分が蔓延しはじめた。しかし、アカイア軍の将オデュッセウスは一計を案じ、エペイオスに木馬を造らせた。この、トロイアの木馬の詭計によってイリオスは一夜のうちに陥落した。陥落したイリオスから逃げ出すことができたのは、アイネイアースなど少数の者たちだけだった。

トロイの木馬(映画『troy』より)

シュリーマンによる発掘

ハインリヒ・シュリーマンによって発掘が行われるまで、イリアスは神話上の架空都市にすぎないというのが一般の通念であった。

このような常識に対し、シュリーマンは自著『古代への情熱』で、幼いころにイリアスの子供向けの物語を読み、イリアスは実際に起きた出来事をもとにした物語だと考えて発掘を決意し、資金を集めるために商人になった。シュリーマンは、オランダやロシアなどで商売に成功し、莫大な財産を築いた。またこの間、自らの才能を生かして英語、フランス語、ロシア語などさまざまな言語を習得し、ついにはギリシア語とラテン語もマスターして、遺跡の発掘に必要な語学力を習得した。

シュリーマンは子どものころ、ミンナという相思相愛の愛する女性がいたが、結ばれることなく、別れることになった。その後、ホメーロスの神話に心酔するギリシア女性のソフィーと出会って結婚し、トロイア発掘も二人で共同で行うことになった。

1868年(44歳)、シュリーマンはトロイアのあった場所としてダーダネルス海峡西端のチャナッカレ近郊にあるヒッサリクの丘に見当をつけた。アキレウスがヘクトールを追い回すことができるような場所、近くにイリアスに書かれた川(スカマンドロス河)があるような場所が他にないというのが彼の説明である。

それでは、いったいトロイアはどこにあるのか。再び『イリアス』を引合いにだせは、そこにもその名が見える二つの川、つまりスカマンデル川とシモイス川との谷間にはさまれた台地の突端にあたる、ヒッサリックという低い丘はどうであろう。シュリーマンはこの地についてつぎのように述べている。

(シュリーマン『古代への情熱』より)

「トロイア平野にひとたび足を踏みいれ、そこに横たわるヒッサリックの美しい丘を目のあたりにすれば、誰でも文句なく驚嘆の念にうたれるであろう。とにかくこの丘なら、内城をもつ大きな都市を担うにふさわしい、自然の条件に恵まれていると思われるのだ。たしかにこの場所は、城塞でかためさえすれば、ゆうにトロイアの全平野を支配するにたりるであろうし、また、この地方のどこを捜しても、この丘と比肩しうるような条件をそなえた地点は見あたらないのである」

(立川洋三訳, グーテンベルク21)

1870年(46歳)、シュリーマンは、私財を投じてトロイアの発掘を開始。この発掘には既に功績を挙げたオリンピア発掘隊もかかわっている。シュリーマンの狙いは正しく、曲輪に囲まれた遺跡を発掘した。ヒッサリクの丘の遺構は複数の層から成っており、シュリーマンは火災の跡があった第II層をトロイアだとした。しかし、後の研究の結果、この層はトロイア戦争があったとされる時代よりも前の時代のものであった

シュリーマンの発掘が学会で認められるには時間がかかった。当時の常識に反している上に、シュリーマンがまったくの素人だったからである。確かにシュリーマンの間違った推定と発掘により、遺跡の考古学的価値は大きく傷ついていた。しかし、当時は現代的な意味での考古学は未整備な状況であった。1882年からドイツの考古学者ウィルヘルム・デルプフェルトが発掘に参加。8年後の1890年、トロイ第7a市、メガロン(ギリシャ建築の宮殿)跡を発掘、第7層がホメロスのトロイと判定した。1896年2月26日、シュリーマン死去したが、デルプフェルトは仕事を続けた。1893年〜94年、デルプフェルトは第7市の要塞を発掘、ホメーロス『イーリアス』のトロイを確証した。

(Wikipediaより)

参考文献


関連動画へのリンク

Can The Legendary City Of Troy Be Found? | Lost Worlds | Timeline

How Do Archaeologists Know This Is The Legendary City Of Troy?

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