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石見銀山遺跡とその文化的景観

2021年3月18日

概要

文化遺産
資産名:
石見銀山遺跡とその文化的景観
Iwami Ginzan Silver Mine and its Cultural Landscape
国名:日本
登録年:2007年
登録基準:(ii) (iii) (v)
概要:
島根県中部の石見銀山は、16〜17世紀にかけて銀の採掘で発展した鉱山の遺跡で、周辺の景観とともに世界遺産に登録されています。登録対象は、銀の採掘から精錬までが行われた鉱山跡、沿岸に銀鉱石や銀を運搬するのに用いられた銀山街道、銀の積み出し港であった鞆ヶ浦などの港町からなっています。石見銀山の最盛期だった17世紀初頭には、年間約40tの銀を産出し、全世界の3分の1を占めるほどでした。石見銀山は1943年には完全に閉山しましたが、16世紀当時の坑道など鉱山関連施設が残されており、貴重な産業遺産となっています。

地図

スライドショー

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14世紀初頭に大内氏によって発見されたといわれる石見銀山は、16世紀に発展期を迎える。博多の商人神屋寿禎かみやじゅていが朝鮮半島から呼び寄せたふたりの技術者によって、新しい製錬技術「灰吹法」が伝えられた。これによって良質の銀の大量生産が可能になった石見銀山の産出量は増加の一途をたどった。灰吹法が広まることにより、酸化鉛の粉塵を吸い込んだ作業員は急性または慢性の鉛中毒を発症した。鉱山での劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であり、30歳まで生きられた鉱夫は尾頭付きの鯛と赤飯で長寿の祝いをしたほどであった。

一般に銀山開発においては銀の精錬のため大量の薪炭用木材が必要とされたが、石見銀山では適切な森林の管理がなされたことにより環境への負荷の少ない開発がなされ、今日に至るまで銀山一帯には広葉樹などを含む森林が残されてきている点が特に評価されている

登録基準

登録基準 (ii) ある期間にわたる価値観の交流

16〜17世紀初頭の大航海時代、石見銀山はアジア、ヨーロッパ諸国と日本の重要な商業的・文化的交流を生み出した。

登録基準 (iii) 文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証

江戸時代における鎖国政策と、19世紀における鉱山活動の停止は、結果的に多くの産業遺跡が良好に保存されることになった。

登録基準 (v) 伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本

石見銀山エリアに残存する銀山の遺跡、街道、港など、採掘から精錬、搬出までの鉱山経営全体に関わる景観は、銀生産に関わった人々の生活した集落などの継続的な景観を構成しており、歴史的な土地利用のあり方を示している。

遺産の概要

「石見銀山遺跡とその文化的景観」は、「銀鉱山跡と鉱山街」「街道」「港と港街」の3つの分野にわたる14の構成資産からなる。

「銀鉱山跡と鉱山街」は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。16世紀から20世紀にかけて、銀鉱石の採掘から精錬までを行っていた「銀山柵内ぎんざんさくのうち」や清水谷精錬所跡など、日本を代表する鉱山遺跡。1969年(昭和44年)に国によって史跡に指定。600もの小規模な手掘りの坑道「間歩まぶ」、銀の生産に携わっていた人々が暮らした鉱山街、これらを軍事的に守備していた周囲の石見城跡などで構成されている。

「街道」は、石見銀山街道、鞆が浦道の運搬路で構成される。これらの街道は銀鉱山と港の間に整備されており、銀鉱石や銀の搬出などを担っていた。

「港と港街」は、鞆ヶ浦ふりがな港と沖泊おきどまり港の2つの港と関連施設、港での仕事に関わる人々が暮らした温泉津ゆのつなどの温泉街からなる。これらの施設は、銀鉱石や銀の積み出し、銀山運営、必要物資の搬入などを担っていた。

このような施設の遺構や街並みは、鉱山開発を軸に、かつてこの地域で隆盛を誇っていた銀産業の全体像を示す貴重な証拠となっている。これらの遺構の周辺には、当時の銀生産や住民の生活で使用された薪炭材しんたんざいの供給源であった森林など、豊かな自然が残されている。鉱山の運営や人々の暮らしを物語る文化的景観が良好な状態で保存されている。

本資産は、2007年(平成19年)6月28日にニュージーランドのクライストチャーチで開催されていた第31回世界遺産委員会でユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決まり、7月2日に正式登録された。一般に銀山開発においては銀の精錬のため大量の薪炭用木材が必要とされたが、石見銀山では適切な森林の管理がなされたことにより環境への負荷の少ない開発がなされ、今日に至るまで銀山一帯には広葉樹などを含む森林が残されてきている点が特に評価されている。2007年には日本の地質百選にも選定されている。

歴史

石見銀山の発見については、『石見銀山旧記』に、鎌倉時代末期の1309年(延慶2年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩(北極星)の託宣により銀を発見したという伝説が記されている。

その後、石見銀山を本格的に開発したのは、博多の大商人であった神屋寿貞かみやじゅていであるとされている。海上から山が光るのを見た神屋は、領主・大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て、1527年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出したという。

産出した銀鉱石は、鉱山の西およそ6kmに位置する鞆ヶ浦港から船で博多に送っていたため、鞆ヶ浦には多くの人が移り住み、次第に集落が広がった。1533年(天文2年)8月、神屋寿貞は博多から技術者の宗丹と桂寿を招き、朝鮮渡来の銀精錬技術である「灰吹法はいふきほう」により銀の精錬を開始した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、これが全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになった。灰吹法の確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され博多湊などで取引されていた。灰吹法が広まることにより、酸化鉛の粉塵を吸い込んだ作業員は急性または慢性の鉛中毒を発症した。鉱山での劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であり、30歳まで生きられた鉱夫は尾頭付きの鯛と赤飯で長寿の祝いをしたほどであった。大森地内には、若くして死んだ鉱夫たちの慰霊を目的として各宗派の寺院が多数建てられ、鉱夫たちの家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみであったと伝えられている。

1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領。銀山の防衛を担う矢筈城や石見城では、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。1561年(永禄4年)に晴久が急死すると、後を継いだ尼子義久は家中の動揺を抑えるため、1562年(永禄5年)に毛利氏と「石見不干渉」を約した雲芸和議を結んだ。これにより、最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。毛利氏は、銀山と港の間に新たに街道を整備した。

160年の関ヶ原の戦いの、石見地方は徳川幕府の支配下におかれ、奉行としてこの地にも派遣された大久保長安ながやすと彦坂元正のもとで鉱山経営が行われた。初代銀山奉行として大久保長安を任命した。銀山経営の新たな拠点となる大森地区に旧大森代官所をおいて整備を進め、銀山経営の一部を「山師」と呼ばれる民間の業者に委ねるなど、さまざまな改革を行った。

石見銀山が開発された時期は、日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、製錬された灰吹銀は「ソーマ銀」と呼ばれ、そのまま日本産銀の銘柄のひとつとして商取引に利用され、またこの灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀およびその後の徳川幕府による慶長丁銀は基本通貨として広く国内(主に西日本、東日本の高額貨幣は金)で流通したばかりでなく、明(中国)、16世紀以降に来航するようになったポルトガル、オランダなどとの間の交易で銀が持ち出された。特に明は、大口の商取引、兵士への給与などのため広く秤量銀貨が使用され、その経済規模の為に銀需要は大きかった。また、私貿易を禁止する明の海禁政策にもかかわらず、日明間の密貿易が活発となった。当時の日本の銀産出量は年間平均200トン程度(うち石見銀山が38トン、およそ10000貫)と推測されているが、これは世界全体の三分の一に達しており、スペイン王国ペルー副王領ポトシ(現ボリビア)のセロ・リコと並ぶ銀産出地として西洋でも有名になった。

銀山奉行の大久保長安は、山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め、これは朱印船貿易の元手にもなった。1602年(慶長7年)に安原伝兵衛が釜屋間歩を発見して産出された銀を家康に献上すると、家康は非常に喜び、安原伝兵衛に「備中」の名と身につけていた辻ヶ花染胴服を与えた。

安原伝兵衛の釜屋間歩の発見などにより、17世紀初頭(慶長年間から寛永年間)に銀の産出はピークに達し、『当代記』によれば1602年(慶長7年)の運上銀は4-5千貫に達したといわれる。その後、銀産出量は次第に減少し、1675年(延宝3年)に銀山奉行の職は大森代官に格下げされた(大森の奉行所は大森代官所となる)。

当初、産出した灰吹銀は現大田市の鞆ヶ浦沖泊から船で搬出されていた。冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、大久保長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」(大森-粕淵-九日市(美郷町)-三次-甲山-御調-尾道)を整備し、尾道から京都伏見の「銀座」へ輸送するようにした。大森町にある熊谷家は幕府に上納するための公儀灰吹銀を天秤で掛け改め勘定を行う掛屋として任命され、現在、この熊谷家住宅は内部が見学可能である。この輸送は幕末まで続いた。

石見銀山は江戸時代前期にも日本の膨大な銀需要を支えた(銅も産出)が、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期には深く掘らなければ銀を産出できなくなり、地下水にも悩まされ採算がとれなくなっていった。

石見銀山は1868年(明治元年)の太政官布告による民間払い下げにより田中義太郎が経営権を取得したものの、1872年(明治5年)の浜田地震の被害を受けてしばらく休山となった。その後、1886年(明治19年)からは大阪の藤田組(後に同和鉱業から現在はDOWAホールディングス)により再開発の試みが続けられた。藤田組は採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷(仁摩町大国)の「永久鉱山」に移したが、その頃主に採掘されていた銅の価格の暴落や坑内の環境の悪化などにより1923年(大正12年)には休山するに至った。その後、日中戦争、太平洋戦争の最中、軍需物資としての銅の国産化を目論んで、1941年(昭和16年)より銅の再産出を試みるものの、1943年(昭和18年)の水害で坑道が水没する打撃を受け、完全閉山となる。鉱業権はDOWAホールディングスが保有している。DOWAホールディングスは大久保間歩周囲などでボーリング調査を実施したが、採算が取れる鉱脈は無いと判断され、採鉱は実施されていない。2006年鉱業権がDOWAホールディングスから島根県に譲与された。

(Wikipediaより)

主な構成資産

銀山柵内、 代官所跡、 矢滝城跡、 矢筈城跡、 石見城跡
大森・銀山、 宮ノ前、 熊谷家住宅、 羅漢寺五百羅漢、 石見銀山街道鞆ケ浦道、 石見銀山街道温泉津・沖泊道、 鞆ケ浦、 沖泊、 温泉津重要伝統的建造物群保存地区

石見銀山の坑道

2015年現在、銀山採掘のために掘られた間歩まぶと呼ばれる坑道や水抜き坑が700余り確認されている。主な坑道としては、釜屋間歩、龍源寺間歩、大久保間歩、永久坑道などが挙げられる。大久保間歩は、江戸時代から明治時代にかけて開発され、大久保長安が槍を持って馬に乗ったまま入れたとされる。石見銀山資料館から徒歩圏内の龍源寺間歩は、通年で一般公開され内部を見学できる。2008年より、大久保間歩の内部も一般公開されたが、ツアー形式で週末のみ限定公開となっている。大久保間歩の見学ツアーは予約が必要だが、空いて入れば予約なしでも参加可能である。

石見銀山の間歩, Flickr

大森・銀山

大森・銀山は、鉱山に隣接して銀山川沿いの谷間に発展した鉱山町であり、南北約2.8㎞にわたって伝統的な木造建築から成る集落が展開している。大森・銀山は、南側の要害山に近い「銀山地区」と北側の代官所跡に近い「大森地区」の2地区に分かれる。両者は江戸時代の行政区分であった「大森町」と「銀山町」を踏襲したものであり、「銀山町」の範囲は銀山柵内と重なっている。

大森・銀山 (Flickr)

石見銀山街道鞆ケ浦道

石見銀山街道鞆ヶ浦道は、鞆ヶ浦ともがうらが銀鉱石及び銀の積出港であった16世紀の前半において、銀山柵内から日本海に至る最短距離の搬出路として利用された街道である。 石見銀山街道鞆ヶ浦道の全長は、約7.5㎞である。道幅は0.6~2.4mと場所により広狭があり、人や牛馬の往来ができる最小限の幅員となっている。

石見銀山街道, Flickr

鞆ヶ浦

鞆ヶ浦は銀山柵内から北西約6㎞の日本海沿岸に位置し、石見銀山が開発された初期の頃に当たる16世紀前半に、国際貿易港であった博多に向けて銀鉱石及び銀を積み出した港である。  鞆ヶ浦は両岸に丘陵が迫る幅34m、奥行き約140mの入り江で、湾の開口部には波除けとなる2つの小島が位置する。そのうちの一つには、1526年に石見銀山を本格的に開発した博多の豪商神屋寿禎が弁天を祀った神社が存在し、海上交通に関わる信仰が現在もなお存続している。

鞆ケ浦 ,Flickr

沖泊おきどまり温泉津ゆのつ

沖泊は、銀山柵内から西方約9㎞に位置する狭隘な入り江を利用した良港である。 戦国大名毛利氏が石見銀山を支配した16世紀後半の約40年間、精錬した銀を積み出した拠点であるとともに、石見銀山への物資の補給地や毛利水軍の基地としても機能した港である。温泉津は、沖泊に隣接する温泉街と港。16世紀に日本海側における最大の港として賑わった街並みには、木造建築なども残る。

温泉津 (Flickr)

(文化庁HPより)

関連動画へのリンク

世界遺産クイズ

世界遺産検定クイズ

UNESCO公式HP(英語版)へのリンク

https://whc.unesco.org/en/list/1246

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