概要
複合遺産
資産名:
マチュ・ピチュの歴史的保護区
Historic Sanctuary of Machu Picchu
国名:ペルー
登録年:1983年
登録基準:(i) (iii) (vii) (ix)
概要:
マチュ・ピチュは、アンデス山脈の標高2,400mの尾根にあるインカ帝国の都市遺跡です。周囲の自然環境と合わせて複合遺産として登録されている。マチュ・ピチュは、1533年にスペイン人による征服で滅亡したが、それ以前は計画的な都市計画、水道・排水技術、灌漑施設の整備、斜面に広がる段々畑などにより、高度の文明社会を築いていたと想像されている。山頂には神官の住居跡とみられる遺跡があり、山腹にはマチュ・ピチュの太陽の神殿に対する月の神殿が存在する。
地図
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文化的側面
マチュ・ピチュの都市遺跡の発見は1911年のことであった。かつてインカ帝国がスペインに攻略された際に、莫大な財宝が運び込まれたとされる伝説の都ビルカバンバを探していたアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムは、地元の少年を案内役に雇い、クスコ北西約70 km 付近のウルバンバ川流域を調査した折、急峻な斜面を登った場所でこれを発見したのである。ビンガムはこれこそがビルカバンバであったと主張したが、現在では否定されている。ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は『ナショナル・ジオグラフィック』1913年4月号ですべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽に処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。
建設された年代は石段の組み方などをもとに1450年ころと見積もられており、人が住んでいたのはそれからおよそ1世紀の間だったとされている。文字の記録がないため、この都市の建設目的は諸説あるが、現在では、第9代皇帝パチャクテクの時代に離宮や宗教施設として建設されたと考えられている。かつては人口1万人規模とするものもあったが、現在では否定されており、ペルー文化庁の専門家たちには、常住人口500人と見積もっている者たちもいる。
東西が断崖のマチュ・ピチュは太陽の動きを知るのに絶好の場所であったことや、インカ帝国では太陽を崇拝し、皇帝は太陽神の子として崇められ、暦を司っていたことから、インカ人が崇めていた太陽を観測するための建物群と推測されている。実際に太陽の神殿は東側の壁が2つ作られていて、左の窓から日が差し込む時は冬至、右の窓から日が差し込む時は夏至と区別できるようになっている。また、処女たちを生贄にしたといわれてきた台座上の遺構もやはり太陽を観測するものであり、「インティワタナ(太陽をつなぐもの)」という意味の石の台の削りだされた柱は、1種の日時計だったと考えられている。
遺跡の構成
3つの窓の部屋
遺跡は大まかに都市部と農業部、上町と下町に分かれている。寺院は上町に、倉庫は下町にある。建築は山に合わせて作られている。約200の建物が、東西の中央広場を中心とした広い平行段丘上に配置されている。カンチャと呼ばれる様々な建物は、地形を利用するために細長くなっている。洗練された水路システムにより、畑に灌漑が施されている。また、城壁に設けられた石の階段によって、各階へのアクセスが可能になっている。都市の東側は、おそらく住居であったと思われる。広場で区切られた西側は、宗教的・儀式的な目的で使われていた。この部分には、展望台として使われていた可能性のある巨大な塔「トレオン」がある。
庶民地区(住宅地区)は、下層階級の人々が住んでいた場所である。倉庫や簡素な家などがある。王族区は貴族のための区画で、斜面の上に列をなして配置された住宅群である。アマウタ(賢者)の居住区は赤みを帯びた壁が特徴的であり、ニェスタ(王女)のゾーンは台形の部屋を持っていた。記念碑的な陵墓は、内部がアーチ型になっていて、絵が彫られた彫刻像である。儀式や生け贄に使われていた。守衛所は3面体の建物で、その長辺の1つが儀式用岩のテラスに面している。インカ建築の三面様式はウェイローナ様式と呼ばれている。
太陽の神殿(トレオン)
この半円形の神殿は、ビンガムの「王家の霊廟」を覆う同じ岩の上に建てられており、ビンガムが「放物線状の囲い壁」と表現したクスコの太陽の神殿やピサックの太陽の神殿と似ている。石造物はアシュラ質である。神殿の中には、1.2m×2.7mの岩盤があり、南西の4分の1にある小さな台を除いて上は滑らかである。「蛇の扉」は340°(北の真西)を向いており、16個のプールに面しており、ワイナピチュを見渡すことができる。また、この寺院には2つの台形の窓があり、1つは「夏至の窓」と呼ばれる65°の方向、もう1つは「クルカの窓」と呼ばれる132°の方向である。岩の台座の北西の端は、15世紀の6月の夏至の日の出の太陽から2フィート以内のところに「夏至の窓」を指している。ちなみに、太陽の角直径は32'である。15世紀の6月至日の日没時には、インカの星座である「クルカ」が「クルカの窓」から見えることから、この窓の名前が付けられた。同じ頃、空の反対側にはプレアデス星団がある。
インティワタナ石
インティワタナは、インカの人々が天文時計やカレンダーとして設計したと考えられている。太陽神殿の岩盤から突き出た彫刻は「天空を観察するための水鏡」と解釈されている。
インティワタナの石は、南米に数多くある祭祀用の石のひとつ。この石の名前はケチュア語に由来しており、intiは「太陽」、wata-は「結ぶ、ひっかける」という意味である。intiは「太陽」、wata-は「結ぶ、繋ぐ」という意味で、-naという接尾語は道具や場所を表す名詞になる。したがって、インティワタナは文字通り「太陽を縛る」ための道具や場所であり、英語では「The Hitching Post of the Sun」と表現されることが多い。インカでは、この石が太陽を天空の一年の道筋に沿って固定すると信じられていた。この石は南緯13度9分48秒に位置し、11月11日と1月30日の正午には、太陽は柱のほぼ真上に位置し、影を落とさない。6月21日には、石の南側に最も長い影ができ、12月21日には、北側にずっと短い影ができる。
インティ・マッハアイと太陽の王宮の祭礼
インティ・マッハアイは、「太陽の王の祭り」を観測するための特別な洞窟である。この祭りは、インカのカパック・ライミ月に行われていた。月の初めに始まり、12月の夏至に終了した。この日、貴族の少年たちは、洞窟の中に立って日の出を見ながら、耳を劈くような儀式によって、男としての地位を確立した。
建築的には、インティ・マッハアイはマチュピチュで最も重要な建造物である。その入り口、壁、階段、窓は、インカ帝国で最も優れた石造物のひとつである。また、インカの建造物の中では珍しいトンネル状の窓があり、12月の夏至の頃の数日間だけ、洞窟内に日光が入るように作られている。インティ・マッハアイはマチュピチュの東側、"コンドルの石 "のすぐ北側に位置する。この周辺の洞窟の多くは、先史的には墓として使われていたが、マッハアイが埋葬地であったという証拠はない。
自然的側面
標高2000mくらいまでは常緑樹の森林が広がり、ヨシ属、ヤナギ属、ハンノキ属、マホガニー属、セクロピア属、キナノキ属など多くの植物が見られ、マホガニーの仲間には危急種が含まれる。標高2000 m から3000m付近の森林はウェインマンニア属、ネクタンドラ属、パパイア属、ヘゴ属、ケドレラ属などの木々が生えており、ことにケドレラ属のいくつかの種は危急種となっている。それ以外の危急種にはミュルキアンテス・オレオピラなどが挙げられる。この地域には着生植物のシダ、コケ、アナナスなどが多く、アナナス科ではプヤ・ライモンディも見られる。また、200種以上のランが生育している。
動物相も豊富で、哺乳類には絶滅危惧種や危急種が含まれている。絶滅危惧種としてはアンデスネコが、危急種としてはメガネグマ、ジャガーネコのほか、アンデスジカの仲間であるヒッポカメルス・アンティセンシス、シカ科マザマ属のマザマ・クニュイ などが挙げられる。ほかにも、オセロット、コロコロ、カナダカワウソ、イタチ属のムステラ・フレナタ 、プーズーの近縁種 などが棲息している。
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