文化遺産
遺産名:
ヴェルサイユ宮殿と庭園
Palace and Park of Versailles
国名:フランス
登録年:1979年
登録基準:(i)(ii)(vi)
概要:
ヴェルサイユ宮殿は、1682年にフランス王ルイ14世が建てたフランスの宮殿である。パリの南西22キロメートルに位置するイヴリーヌ県ヴェルサイユにある。主な部分の設計はマンサールとル・ブランによっておこなわれ、庭園はアンドレ・ル・ノートルによって造営された。バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。儀式や外国の賓客を謁見するために使われた鏡の間は、1871年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式が行われ、また第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印された場所でもある。宮殿の建設よりも労力を費やされている噴水庭園には、宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されている。(Wikipediaより)
Photo by Dennis Jarvis, jdmiller83, Lola De Puma, catcetera, Jeff Keenan, Kay Burrows, TM Sa-lim, David Lewis, CHRIS NEWMAN from Flickr & Shutterstock
ルイ14世とヴェルサイユ宮殿
ルイ14世は、ルイ13世の長子であり、妃はスペイン国王であるフェリペ4世の娘マリー・テレーズ・ドートリッシュである。王朝の最盛期を築き、ルイ大王(Louis le Grand)、太陽王(le Roi Soleil)と呼ばれた。父王ルイ13世の崩御により、4歳で即位し、宰相ジュール・マザランの補佐を得てフロンドの乱を鎮圧した。1661年に親政を開始するとジャン=バティスト・コルベールを登用して中央集権と重商主義政策を推進した。対外戦争を積極的に行い、帰属戦争、仏蘭戦争で領土を拡張して権威を高めると、ジャック=ベニーニュ・ボシュエの唱える王権神授説・ガリカニスムを掲げ、絶対君主制を確立した。さらに1682年にはヴェルサイユ宮殿を建設した。72年もの在位期間はフランス史上最長であり、18世紀の啓蒙主義思想家ヴォルテールはルイ14世の治世を「大世紀」(グラン・シエクル Grand Siècle)と称えている。
1681年に始まったヴェルサイユ宮殿の造営事業には建築家のル・ヴォー、造園家のル・ノートルそして画家・室内装飾家のシャルル・ルブランがあたった。財務総監のコルベールは巨費を要する新宮殿の造営には消極的だったが、ルイ14世自身の強い意向でもあり従わざるをえなかった。工事は困難を極め、数万の人夫が工事に従事し、多数が死亡している。ルイ14世はこの新宮殿の造営に熱中した。戦時以外はひんぱんに工事中の宮殿に赴いて細事に渡るまで指図し、気に入らない箇所があれば何度でも工事をやり直させた。
ルイ13世時代の小城館を改築する第1期工事は1664年に完了し、この際に盛大な祝典『魔法の島の歓楽』が、またアーヘンの和約が結ばれた1668年には戦勝を記念する祝典『ヴェルサイユの国王陛下のディヴェルティスマン』が催された。この城館がなお手狭であることが判明したため1668年から第2期工事が着工され、1670年にル・ヴォーが死去したためフランソワ・ドベルが建築を引き継いだ。この工事ではルイ13世の小城館を取り囲む形で大規模な新城館が建築される「包囲建築」と呼ばれる形式のさらなる増築が行われた。1674年にこの新城館でルイ14世治世最大の祝典である『1674年のフランシュ=コンテ征服からの還御の際に国王陛下が全宮廷に対して下賜されたディヴェルティスマン』が催された。
第3期工事は1678年に始まり建築はマンサールがあたり、新たに「鏡の間」と「大使たちの階段」が造営され、庭園の一部をル・ヴォーのバロック式建築から古典様式に改めさせている。この工事中の1682年5月6日にルイ14世は正式に王宮をヴェルサイユに移した。これまでルイ14世の宮廷はフランス王家の「移動する宮廷」の伝統に従い、フォンテーヌブロー宮(1661年)、ルーヴル宮(1662年 - 1666年)やサン=ジェルマン=アン=レー(1666年 - 1673年、1676年、1678年 - 1681年)などを転々としてきたが、以降はヴェルサイユ宮に固定されることになる。ルイ14世はル・ノートルの手がけた庭園を愛し、『ヴェルサイユの庭園概説』の幾つかの版は国王自身の執筆によるものと考えられている。ルイ14世は庭園の中でも噴水の美を重要視しており、このために彼は「マルリーの機械」と呼ばれる大がかりな揚水装置を建設させている。この宮殿の拡張工事はルイ14世の晩年まで続けられ、その費用は8200万リーヴルの巨費に昇った。
ルイ14世は貴族たちをヴェルサイユ宮殿内またはその周辺に住まわせ、宮殿内には多い時には廷臣のほか官吏、外国使節、請願者、出入り業者を含めて1万人もの人々がひしめいていた。ルイ14世はこの宮廷での序列や礼儀作法を厳格に定めて貴族たちに従わせるとともに、彼らに国王から下賜される栄誉や年金獲得を宮廷内で競わせることによって宮殿への常駐を余儀なくさせて長期間国王の監視の下に置き、地方の領地から切り離すことによって、貴族達を強く統制することに成功した。彼はこれら恒常的な賓客達を贅沢な宴会や遊興でもてなしたが、これは専制統治の重要な要素であった。
(Wikipediaより)
マリー・アントワネットとヴェルサイユ宮殿
マリー・アントワネットは、1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。
マリー・アントワネットとルイ16世との夫婦仲はあまり良くなかったと語られることが多いが、マリーアントワネットはルイ16世のことを慕っており、ルイ16世もマリーアントワネットに対して好意はあったとされている。しかし、互いの気持ちが上手く疎通できていなかったことにより、フランス革命間際までは距離をとりがちであった。
ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させたりもしていた。母親としてはいい母親であったようで、もともとポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、王妃の村里と、そこに家畜用の庭ないし農場を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。1785年にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。このように彼女に関する騒動は絶えなかった。
1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、革命が勃発した。ポリニャック公爵夫人ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは彼女を見捨てた恰好で国外に亡命してしまう。彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃だけであった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移された。1792年、フランス革命戦争が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される。
1793年1月、革命裁判は夫のルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンによる斬首刑とした。マリー・アントワネットは8月2日にコンシェルジュリー監獄に囚人第280号として移送され、その後裁判が行われた。10月15日に彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せらた。12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。
主な構成資産
宮殿 Le château de Versailles
ヴェルサイユ宮殿には2,300もの部屋があり、総面積は63,154㎡に達する。
鏡の間 La galerie des glaces
元々テラスだった場所を、1678年から約8年の期間をかけて、フランス建築家マンサールが、国王の居室と王妃の居室を結ぶ回廊として改造したもの。儀式や外国の賓客を謁見するために使われた鏡の間は、1871年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式が行われ、また第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印された場所でもある。鏡の間にはたくさんの銀製品が飾られていたというが、ルイ14世は晩年になって、スペインとの王位継承争いが続いて戦費の捻出に困り、破産を免れるためにこれらを売って戦費に充てたという。
王室礼拝堂 Chapelle royale de Versailles
王室礼拝堂は、主席建築家であったジュール・アルドゥアン=マンサールによって1699年から建造が始まり、完成には11年もの月日を要した。床には美しい大理石が敷き詰められており、天井には、キリスト教の教理である「三位一体」を表現したフレスコ画が描かれている。大きなオルガンは、フランスを代表するオルガン建造家、フランソワ=アンリ・クリコが手がけたもの。オーストリア・ハプスブルク家から嫁いだ14歳のマリー・アントワネットがルイと結婚式をあげた礼拝堂として知られる。
庭園
グラン・トリアノン Le Grand Trianon
グラン・トリアノンは、1687年、Jules Hardouin-Mansartによって建設された。この離宮はルイ14世の求めにより、本館に対して離宮的な意味合いで建築された。彼とその寵姫であったフランソワーズ・アテナイス・モンテスパン (marquise de Montespan)の隠れ家として用いられ、時にはゲストを招き、宮廷の堅苦しいマナーから解放された軽食を提供した。
プチ・トリアノン Le Petit Trianon
プチトリアノンは、ルイ14世がベルサイユ宮殿の北西に建てた離宮「大トリアノン宮殿」の敷地に、ルイ15世によって10年ほど前に設置された植物園の中に建設された。この建物はルイ15世の長年の愛人であったマダム・ド・ポンパドゥールのために計画された。設計はアンジェ・ジャック・ガブリエルで、1762年から1768年の間に建設された 。しかしポンパドゥールは完成の4年前に亡くなり、その後プチトリアノンは彼女の後継者であるマダム・デュ・バリーによって所有された。
1774年に王に即位した20歳のルイ16世は、この小宮殿と周辺の庭園を19歳のマリーアントワネット王妃に、彼女の私的な所有物として与えた。アントワネットは、堅苦しい宮廷生活を免れるためだけでなく、女王としての重圧から逃れるためにプチトリアノンを訪れた。ヴェルサイユで彼女は家族と裁判所両方からかなりのプレッシャーの下にあり、プチトリアノンは彼女が安らぎと余暇を楽しめる唯一の場所であった。そして女王の所有物であったので、彼女の明確な許可なしには誰も立ち入りを許可されていなかった。それは夫のルイ16世でさえ例外ではなかったと言われている。女王の側近(ランバル公妃マリー・ルイーズ(Princess de Lamballe)とポリニャック公爵夫人ヨランド・ド・ポラストロン(Gabrielle de Polastron, duchesse de Polignac)を含む)だけが入館を許可された。こうした排他的な態度が宮廷の貴族たちとの関係悪化につながったと言われている。
プチトリアノン宮殿は、18世紀前半のロココ様式から1760年代以降のより落ち着きのある洗練された新古典派様式への移行期における代表的な例である。四角い箱型の建物であるが、それぞれが面する敷地の用途に応じて緻密に設計された4つのファサードのおかげで魅力的な建築となっている。
愛の殿堂は川中島に設置されている。1778年にリシャール・ミックが設計、建設したもの。7段の石段の上に建っている。コリント式の12本の柱が立っている。王妃マリー・アントワネットがスウェーデンの貴族、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンと逢瀬をしていた場所として知られている。この古代風の丸屋根円形建築の中央には、ブシャルドンのキューピッド像(ヘラクレスのこん棒を自分の矢に彫り込んでいる)が飾られている。
王妃アントワネットは、堅苦しいヴェルサイユ宮殿の生活から逃れるために、プチ・トリアノンを自分好みに改装し、あこがれの田園生活の舞台をここに再現しようとした。この人工的な農村風景の中に、アントワネットは本物の人間や動物を配した。
「本物の農夫、本物の農婦、本物の牝牛をつれた本物の乳搾り娘、子牛、豚、ウサギ、羊、本物の草刈り人、収穫人、羊飼い、狩人、洗濯人、チーズ作り人、彼らは草を刈り、洗濯し、肥料を撒き、乳を搾り、マリオネット人形みたいに絶えず陽気に動きまわる。マリー・アントワネットの命令により、新たに国庫へ手が深く差し入れられ、夢中で遊ぶ子どもたちのため玩具が取り出されるように、舎、干草小屋、納屋、鳩小屋、鶏小屋をふくむ実物大の人形劇場、かの有名な「小集落」(アモ)が、トリアノンのそばに建設されることになる」
シュテファン・ツヴァイク『マリー・アントワネット』(上)(中野京子訳)より
マリー・アントワネットは、プチ・トリアノンの中に、私的な劇場も作らせ、観劇すると同時に、自らも俳優として演じた。
「演技への情熱は、王妃マリー・アントワネットが見出した究極の情熱である。まず最初に彼女は、今も保存されている小さな愛らしい個人劇場を建てさせ──この気まぐれにかかった費用はたった十四万一千リーヴル──、そこでイタリアやフランスの俳優たちに演じさせていたが、そのうちふいに大胆な決意をかため、自分も舞台へ躍り出た。義弟アルトワ伯爵、ポリニャック夫人、アントワネットを崇拝する貴族たち、といった陽気な取り巻き連も同じく芝居熱に取りつかれ、いっしょに参加し、何回かは王でさえ見物にきて、「女優」としての妻に賛嘆した。」
シュテファン・ツヴァイク『 マリー・アントワネット』(上 )中野京子訳より
(Wikipediaより)
世界遺産クイズ
世界遺産検定クイズ
関連動画へのリンク
旅するように学ぶ世界遺産『ヴェルサイユ宮殿と庭園』
ヴェルサイユ宮殿
Versaille, from Louis XIII to the French Revolution
Palace of Versailles
Rick Steves' Europe
宝塚歌劇『ベルサイユのばら〜アンドレとオスカル』全編
1975年の歴史的公演:
アンドレ 榛名由梨
オスカル 安奈淳
参考文献・サイト
Official website : The palace of Versailles (英語版)
https://en.chateauversailles.fr/
鹿島茂『太陽王ルイ14世』
シュテファン・ツヴァイク「マリー・アントワネット」
池田理代子デビュー50周年記念:独占インタビュー「わたしのマンガ道」より
(https://ebookjapan.yahoo.co.jp/content/author/243/interview.html)
――高2の夏休みに運命の出会いがありましたね。
「ええ、宿題の課題図書でシュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』を読んだんです。史実の厚みや運命に翻弄される王妃の悲劇に心を動かされました。そして『将来は小説なのか、映画なのか、漫画なのかは分からないが、これを必ず作品にしたい』と誓いました。題名の『ベルサイユのばら』もすでにこの時から決めていたんですよ」
UNESCO公式HP(英語版)へのリンク
https://whc.unesco.org/en/list/83