概要
文化遺産
資産名:
プラハ歴史地区
Historic Centre of Prague
国名:チェコ
登録年:1992年 / 2012年範囲変更
登録基準:(ii) (iv) (vi)
概要:
チェコ共和国の首都プラハは、6世紀以来の歴史をもち、市の中央を流れるヴルタヴァ川(モルダウ)には、14世紀に建造された「カレル橋」をはじめ、数多くの美しい橋が架かり、左岸のプラハ城を初め、千を超える建造物が保存されている。「百塔の都」の名にふさわしい美しい街並みを形成している。プラハ市街中心部、ヴルタヴァ川の東岸に位置する旧市街から南の新市街まで、西岸のフラッチャニ地区およびマラー・ストラナ地区、計866ha が登録対象地域となっており、11世紀から18世紀にかけてのさまざまな時代様式の建築物が残る。(Wikipediaより)
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プラハの歴史
6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ川河畔に集落が形成された。9世紀後半にはプラハ城、10世紀頃にヴィシェフラト城が建てられ、両城に挟まれたこの地に街が発達した。973年にキリスト教の司教座が置かれると、ユダヤ人の入植が始まった。
1346年にボヘミア王カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展。「黄金のプラハ」と形容されるほどだった。
16世紀後半、ルドルフ2世の治世になると、芸術や科学を愛する王の下、プラハに芸術家、錬金術師、占星術師などが集められ、プラハはヨーロッパの文化の中心都市として栄華を極めた。しかし、1618年にプラハ城で起きたプラハ窓外投擲事件を皮切りにビーラー・ホラ(白山)の戦いが勃発し、三十年戦争に発展。王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減する。また、チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧や文化弾圧などを受け、チェコは独自の文化を失い、2世紀以上にわたって「暗黒の時代」といわれるチェコ民族文化の空白時代を迎えることとなる。
プラハは、1000年以上の歴史を持つ都市であり、第一次・第二次世界大戦の被害にも、また、その後の資本主義の高度経済成長にも巻き込まれなかったことで、ロマネスク建築から近代建築まで各時代の建築様式が並ぶ「ヨーロッパの建築博物館の街」になり、ユネスコの世界遺産にも登録されている。
主な構成資産
プラハ城
プラハ城は、かつてボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城であり、現在はチェコ共和国(元チェコスロバキア連邦共和国)の大統領府のある場所である。ボヘミア国王の宝冠はここで保管されている。プラハ城は世界でも最も大きい城の一つであり(「ギネスブック」によると、最も古くて大きい城である)、敷地の広さは東西430メートル、南北70~140メートルで細長い形をしており、長さは約570m、平均の幅は約130mである。10世紀には既にこの大きさであったと考えられている。
城はフラチャヌィの丘の頂にある。その麓にマラー・ストラナという城下町がある。城と麓の高低差は80メートルもある。城まで続く坂道がネルドヴァ通りで、土産物店やレストランが並び市電も走っており賑やかである。上り詰めると城の正門に突き当たり、石畳のフランチャヌィ広場がある。この広場は、「アマデウス」や「レ・ミゼラブル」などの映画に登場している。
壁に囲まれた最初の建築物は、聖母マリア教会であった。ゴシック様式の聖イジーと聖ヴィートのバシリカは、10世紀の前半に建設された。ボヘミアで最初の修道院は城の中、聖イジー教会の隣に建設された。ロマネスク様式の宮殿がここに建てられたのは、12世紀のことである。
聖ヴィート大聖堂
ヴィート大聖堂は、チェコのプラハにある大聖堂で、プラハ大司教の司教座聖堂である。大聖堂の正式名称は「聖ヴィート、聖ヴァーツラフ、聖ヴォイテフ(Vojtěch)大聖堂」である。プラハ城の内側に位置し、多くのボヘミア王の墓を有する。この大聖堂はゴシック建築の代表例であり、チェコで最も大きくて重要な教会である。正面に82メートルの2本の塔、中ほどに99メートルの鐘楼が立っている。大聖堂の内部は、天井の高さ34メートル、幅60メートル、奥行き124メートルの大空間である。
ゼツェッシオンのチェコの有名画家アルフォンス・ミュシャが、身廊の北部の窓を新しく装飾した。バラ窓は1925年から1927年にかけて、フランティセク・キセラによってデザインされた。
カレル橋
カレル橋は、チェコ共和国のプラハを流れるヴルタヴァ川に架かる橋である。神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王カレル1世でもあった)の治世下、1357年に建設が始まり、1402年に完成した。1841年までプラハ旧市街とその周囲をつなぐ唯一の橋であった。最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていたが、1870年よりカレル橋と呼ばれるようになった。橋の長さは515.7メートル、幅は9.5メートル。15のアーチの上に、砂岩の切石の橋桁が渡されている。また橋を守るために3つの橋塔が建てられており、とくに旧市街側の橋塔はゴシック様式の建築として名高い。橋の欄干には15体ずつ、合計30体の彫刻が並んでいる。これらの彫像の中で著名なものは「十字架像(ゴルゴダの丘で磔にされたキリスト像,Crucifix and Calvary)」、「ブルンツヴィーク像(Bruncvík column)」と「聖人ヤン・ネポムツキー像(St. John of Nepomuk)」である。
ヴルタヴァ川(モルダウ)
チェコ最長の川。ボヘミア盆地の水を集めプラハを通って南から北に流れ、盆地の北部、ムニェルニークでラベ川(エルベ川)と合流したのち、エルツ山脈とズデーテン山脈に切れ目を南から北へ通り、北ドイツ平原に流れ出て、ドレスデン、マグデブルク、ハンブルクなどの都市を潤して北海に抜ける。
スメタナと「モルダウ」(ヴルタヴァ)
ベドルジハ・スメタナ(Bedřich Smetana)は、1824年3月2日、ボヘミア北部、現在のパルドゥビツェ州に位置する都市リトミシュルで生まれた。スメタナは、幼い頃からピアニストとして才能を発揮し、6歳の時には既にピアノ公演も経験している。通常の学業を修めたのち、彼はプラハでヨゼフ・プロクシュの下で音楽を学んだ。しかし、プラハでは成功せず、スウェーデンへと移住した。移住先のスウェーデン・ヨーテボリで、スメタナは音楽教師、聖歌隊指揮者として著名になった。また、この頃から規模の大きいオーケストラ音楽の作曲を開始している。1860年代初頭、これまで中央集権的なオーストリア帝国政府のボヘミア(チェコ)への政治姿勢が自由主義的なものへと変化しつつあったことから、スメタナはプラハへと戻った。プラハに戻ってからは、チェコオペラという新たなジャンルの最も優れた作曲家として、人生を過ごした。1866年に、スメタナ初のオペラ作品『ボヘミアのブランデンブルク人』と『売られた花嫁』が、プラハの仮劇場で初演されている。プラハを離れる前、スメタナは交響詩『わが祖国』の作曲を開始した。このうち、最初の2曲、「ヴィシェフラド」(Vyšehrad)と「ヴルタヴァ」(Vltava)の2曲は、プラハ滞在中に完成しており、1875年中にプラハで2曲とも演奏されている。作曲された19世紀後半は、当地はオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク君主国)統治下にあり、ドイツ語が広く使われていたこともあってか、同曲は地名と同様にチェコ語名のヴルタヴァだけでなく、ドイツ語名のモルダウとしても知られている。『わが祖国』は、スメタナの祖国であるチェコの歴史、伝説、風景を描写した作品で、第2曲の「ヴルタヴァ」(モルダウ)が特に著名である。スメタナは、当時、オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア帝国)によって支配されていたチェコの独立国家への願望、チェコ民族主義と密接に関係する国民楽派を発展させた先駆者である。そのため祖国チェコにおいては、広くチェコ音楽の祖とみなされている。
(Wikipediaより)
モルダウ・わが祖国より Karel Ancerl CZECH PHILHARMONIC ORCHESTRA
ストラホフ修道院
ストラホフ修道院(Strahov Monastery)は、チェコのプラハ・ストラホフにある修道院である。プラハのヨハネ司教であるジンドリック・ズディクとボヘミア公爵ヴラジスラフ2世によって1143年に創設されたプレモントレ修道会の修道院である。「ストラホフ修道院図書館」という、非常に豪華で美しい広大な図書館があることで有名である。
旧市庁舎
旧市庁舎は1338年に旧市街の自治オフィスとして創立された。塔、出窓の 礼拝堂からなるゴシック様式最古の複合建築で、壁の豊かな装飾は 14世紀後半のもの。天文時計(15世紀初頭)には09.00–23.00の 間の毎時丁度に、仕掛け時計で12人のキリストの使徒が現れる。 下部分は暦板で、1865年ヨゼフ・マーネスによる黄道十二宮のシンボルが描かれている。市庁舎東側のネオゴシック様式の部分は 1945年8月5日の空襲で破壊されたが、修復されずそのまま残っ ている。塔の展望台部分はバリアフリーの入場ができる。(プラハ市公式観光ページより)
ティーン聖堂
ティーン聖堂は、プラハの旧市街にある他の大部分の教会と同じくゴシック様式の教会である。14世紀以来、この地区の主たる教会であった。教会の二つの尖塔は高さ80mある。
旧市街広場
旧市街にある歴史的に由緒ある広場のことである。プラハ旧市街広場はヴァーツラフ広場とカレル橋の間にあり、多くの場合、夏には観光客でたいへんなにぎわいをみせる。ゴシック様式のティーン教会とバロック様式の聖ミクラーシュ教会を含む様々な建築様式を見ることができる。旧市庁舎の塔から旧市街に軒を連ねたショップの全景を見渡せ、また、観光客は多くの教会に囲まれた中で広場にある天文時計を容易に見つけることができる。広場の中心には、自らにおける信念のためドイツのコンスタンツで火あぶりの刑に処せられた宗教改革者ヤン・フスの銅像がある。
旧ユダヤ人墓地
プラハの旧ユダヤ人墓地はヨーロッパで最大のユダヤ人墓地で、プラハのユダヤ人の歴史において最も重要なモニュメントの一つ。 この墓地は15世紀前半から1786年までその目的を果たしていた。 ラビのマハラルことイェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル、実業家であったモルデカイ・マイゼル、歴史家のダヴィド・ガンスや、ラビのダヴィド・オッペンハイムなど、地域のコミュニティの中で重要な人物達がこの墓地に埋葬されている。 今日ではこの墓地はプラハのユダヤ博物館によって管理されている。 (Wikipediaより)
ミュシャ美術館
プラハ・ミュシャ美術館は1998年2月13日に開館した、世界に名だたるセセッションを代表するアルフォンス・ミュシャ(1860-1939)の生涯と作品を紹介する世界唯一の美術館。広さ500平方メートルのプラハ・ミュシャ美術館には、アルフォンス・ミュシャの作品をモチーフとする豪華なお土産品を揃えるミュージアムショップが併設されている。(ミュシャ美術館公式サイトより)
ミュシャ美術館:Mucha Museum
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関連動画へのリンク
プラハの紹介動画
モーツアルトとプラハ
モーツアルト 交響曲38番「プラハ」
モーツアルトとプラハ
ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトとプラハの深いつながりは、音楽史上においてよく言及される。18世紀後半にモーツァルトの音楽がプラハにおいて特別に評価されていたことに疑いの余地はない。プラハの街とモーツァルトのつながりを示す最も重要な遺産は『ドン・ジョヴァンニ』と『皇帝ティートの慈悲』という2つのオペラの作曲と、「交響曲第38番」(プラハ)の初演である。この曲はモーツァルトが1787年のはじめに初めてプラハを訪問した際に行われた公演のために書き上げたものだとも言われている。
『フィガロの結婚』のプラハでの初公演
ウィーンで初披露されたモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』は、1786年末のプラハ公演で大成功を納めた。プラハの新聞Oberpostamtzeitung紙の記者は、「(ここにいる誰もが断言できるが)イタリアのオペラ『フィガロの結婚』のようなセンセーションをかつて誰も起こしたことはない。すでに幾度かプラハで上演され、絶え間ない喝采を浴びている。」と書き残している。
交響曲第38番(プラハ)の初演
モーツァルトが最初にプラハを訪れたのは1787年の1月11日であり、2月の第2週まで滞在していた。彼はどこへ行っても歓迎された。 1月の19日には金銭的利益を上げるためにコンサートを開き、交響曲「プラハ」を初披露した。このコンサートにおいてモーツァルトはピアノで、フィガロの結婚の有名なアリアである「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」(Non più andrai)の変奏曲を含む即興演奏も披露し、後にモーツァルトはこの日を「人生において最も幸せだった日の一日だった」と回想している。
Non piu andrai(もう飛ぶまいぞ、この蝶々) (Ruggiero Raimondi)
『ドン・ジョヴァンニ』初演
モーツァルトは自らのオペラである『ドン・ジョヴァンニ』の初公演の監督を手伝うために、プラハに二度目の訪問をした。 彼は1787年の10月4日にプラハに到着し11月の12日か13日まで滞在した。『ドン・ジョヴァンニ』の初演は1787年の10月の15日に行われる予定であったが、29日まで公演の準備が完了できなかった。この公演は熱狂的に受け入れられた。
Don Giovanni:Ouverture conducted by James Levine
(Wikipediaより)
ドヴォルザークとプラハ
アントニン・ドヴォルザーク(Antonín Leopold Dvořák)は、1841年、プラハの北約30kmにあるネラホゼヴェスに生まれた。6歳で小学校に通い始め、校長のヨゼフ・シュピッツにヴァイオリンの手ほどきを受けると見る間に上達し、父の宿屋や教会で演奏するようになった。8歳で村の教会の聖歌隊員、9歳でアマチュア楽団のヴァイオリン奏者となり、音楽的才能を見せ始めた。1857年にドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学した。経済的には苦しい学生生活であったが、3歳年上の裕福な家庭の友人カレル・ベンドルと知り合い、楽譜を貸してもらうなどして苦学を重ね、2年後の1859年に12人中2位の成績で卒業した。卒業後は、カレル・コムザーク1世の楽団にヴィオラ奏者として入団、ホテルやレストランで演奏を行っていたが、1862年チェコ人による国民劇場建設が具体的に決まり、完成までの間、仮劇場を設けることになっていた。ドヴォルザークは、その仮劇場のオーケストラのヴィオラ奏者となった。1866年、このオーケストラの指揮者としてベドルジハ・スメタナが迎えられ、その教えを直接受ける機会を得た。
ドヴォルザークは1871年に、作曲に多くの時間を充てるためにオーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにした。こうした状況の中、翌1872年から作曲に取りかかった作品が、彼の最初の出世作となった賛歌『白山の後継者たち』であった。1873年3月9日、『白山の後継者たち』は、学生時代の友人カレル・ベンドルの指揮で初演された。民族主義の高まりもあり、この曲は成功を博し、プラハの音楽界で著名な存在となる契機を得た。この初演の際に、かつて音楽教師を行っていた姉妹のうち妹のアンナ・チェルマーコヴァーと再会し、この年の秋に結婚した。1874年にはプラハの聖ヴォイチェフ教会(聖アダルベルト教会)のオルガニストに就任した。
1878年に作曲され、同年にプラハで初演されて成功を収めたオペラ『いたずら農夫』が1882年にドレスデンで、翌1883年にはハンブルクで上演される。これはドヴォルザークのオペラがチェコ以外で上演された初めての例である。1884年3月、ドヴォルザークはロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスを訪問した。1884年の6月にドヴォルザークは、ロンドン・フィルハーモニック協会の名誉会員に推薦されるとともに新作交響曲の依頼を受けた。これに応えて作曲されたのが交響曲第7番である。そして、彼はこの新作交響曲を携えて、1885年4月に3度目の渡英を果たす。ドヴォルザークとイギリスの蜜月はこの後も続き、結局生涯に9回のイギリス訪問を重ねている。
1888年、プラハを訪れたチャイコフスキーと親交を結び、1890年にはその招きでモスクワとサンクトペテルブルクを訪問している。
このころ、ドヴォルザークは様々な栄誉を受けている。1889年に鉄冠勲章(ドイツ語版)三等を受章し、1890年にはチェコ科学芸術アカデミーの会員に推挙された。1891年にはプラハ大学より名誉博士号、ケンブリッジ大学より名誉音楽博士号を授与されている。公職としては、1890年秋にプラハ音楽院教授就任を受諾し、翌1891年からこの職に就いている。
1891年春、ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者・理事長ジャネット・サーバーからドヴォルザークに音楽院院長職への就任依頼が届いた。ドヴォルザークに白羽の矢が立った理由は、彼がアメリカにおいても著名だったことがもちろんあろうが、それ以上にサーバー夫人がアメリカにおける国民楽派的なスタイルの音楽の確立を夢見ていたことから、チェコにおけるそれを確立した一人である(と一般に認識されていた)彼を招聘することで、そのような運動の起爆剤としようとした、との説がある(この流れから、「ドヴォルザークが就任を受諾しなかった場合、サーバー夫人はシベリウスの招聘を行う予定だった」との説が流布されたことがあったが、これは根拠に乏しい)。
ドヴォルザークは、初めこれに対して辞退の意志を伝えたが、サーバー夫人の熱心な説得と高額の年俸提示に逡巡した末、同年末に契約書に署名をした。年俸15,000ドルという提示額は彼がプラハ音楽院から得ていた金額の約25倍であるし、彼はこの時13歳を頭に6人の子の扶養を行っていたのである。1893年1月に着手した交響曲第9番「新世界より」は5月24日に完成するが、4月14日付けの友人宛の手紙の中でドヴォルザークは「この作品は以前のものとは大きく異なり、わずかにアメリカ風である」と書いている。この作品は、ロングフェローの『ハイアワサの歌』に多くをインスパイアされたと言われている。(Wikipediaより)
ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」第4楽章 小澤征爾指揮ウィーン・フィル
オバマ大統領の核廃絶に関するプラハ演説ハイライト(2009年4月5日)
オバマ演説の全文(日本語訳および英語全文)
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/4089/
オバマ演説の抜粋:
Today, the Cold War has disappeared but thousands of those weapons have not. In a strange turn of history, the threat of global nuclear war has gone down, but the risk of a nuclear attack has gone up. More nations have acquired these weapons. Testing has continued. Black market trade in nuclear secrets and nuclear materials abound. The technology to build a bomb has spread. Terrorists are determined to buy, build or steal one. Our efforts to contain these dangers are centered on a global non-proliferation regime, but as more people and nations break the rules, we could reach the point where the center cannot hold.
Now, understand, this matters to people everywhere. One nuclear weapon exploded in one city -– be it New York or Moscow, Islamabad or Mumbai, Tokyo or Tel Aviv, Paris or Prague –- could kill hundreds of thousands of people. And no matter where it happens, there is no end to what the consequences might be -– for our global safety, our security, our society, our economy, to our ultimate survival.
Some argue that the spread of these weapons cannot be stopped, cannot be checked -– that we are destined to live in a world where more nations and more people possess the ultimate tools of destruction. Such fatalism is a deadly adversary, for if we believe that the spread of nuclear weapons is inevitable, then in some way we are admitting to ourselves that the use of nuclear weapons is inevitable.
Just as we stood for freedom in the 20th century, we must stand together for the right of people everywhere to live free from fear in the 21st century. (Applause.) And as nuclear power –- as a nuclear power, as the only nuclear power to have used a nuclear weapon, the United States has a moral responsibility to act. We cannot succeed in this endeavor alone, but we can lead it, we can start it.
So today, I state clearly and with conviction America's commitment to seek the peace and security of a world without nuclear weapons. (Applause.) I'm not naive. This goal will not be reached quickly –- perhaps not in my lifetime. It will take patience and persistence. But now we, too, must ignore the voices who tell us that the world cannot change. We have to insist, "Yes, we can." (Applause.)
今日、冷戦はなくなりましたが、何千発もの核兵器はまだ存在しています。歴史の奇妙な展開により、世界規模の核戦争の脅威が少なくなる一方で、核攻撃の危険性は高まっています。核兵器を保有する国家が増えています。核実験が続けられています。闇市場では核の機密と核物質が大量に取引されています。核爆弾の製造技術が拡散しています。テロリストは、核爆弾を購入、製造、あるいは盗む決意を固めています。こうした危険を封じ込めるための私たちの努力は、全世界的な不拡散体制を軸としていますが、規則を破る人々や国家が増えるに従い、この軸が持ちこたえられなくなる時期が来る可能性があります。
これは、世界中のあらゆる人々に影響を及ぼします。ひとつの都市で1発の核兵器が爆発すれば、それがニューヨークであろうとモスクワであろうと、イスラマバードあるいはムンバイであろうと、東京、テルアビブ、パリ、プラハのどの都市であろうと、何十万もの人々が犠牲となる可能性があります。そして、それがどこで発生しようとも、世界の安全、安全保障、社会、経済、そして究極的には私たちの生存など、その影響には際限がありません。
こうした兵器の拡散を抑えることはできない、私たちは究極の破壊手段を保有する国家や人々がますます増加する世界に生きる運命にある、と主張する人もいます。このような運命論は、極めて危険な敵です。なぜなら、核兵器の拡散が不可避であると考えることは、ある意味、核兵器の使用が不可避であると認めることになるからです。
私たちは、20世紀に自由のために戦ったように、21世紀には、世界中の人々が恐怖のない生活を送る権利を求めて共に戦わなければなりません。そして、核保有国として、核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任があります。米国だけではこの活動で成功を収めることはできませんが、その先頭に立つことはできます。その活動を始めることはできます。
従って本日、私は、米国が核兵器のない世界の平和と安全を追求する決意であることを、信念を持って明言いたします。私は甘い考えは持っていません。この目標は、すぐに達成されるものではありません。おそらく私の生きているうちには達成されないでしょう。この目標を達成するには、忍耐と粘り強さが必要です。しかし今、私たちは、世界は変わることができないという声を取り合ってはいけません。「イエス・ウィ・キャン」と主張しなければならないのです。
(American Center Japanホームページより)
UNESCO公式HP(英語版)へのリンク
https://whc.unesco.org/en/list/616